リンジョーグン
ファルガは言葉を失った。
絶句、というのはこういう状態を指すのだろうか。
溢れ出る様々な感情。怒りも悲しみも、その他あらゆる感情が濁流となって、彼の心に襲い掛かってくる。そして、その荒々しいいくつかの感情の濁流の後に襲い掛かってくるのは虚無感と失望感、挫折感。
行き所を無くした怒りは淀んでくるものだ。純粋な怒りも、時間が経つと腐り始め、不特定多数を憎む呪いとなり、彼の体や心を蝕んでいく。後にレーテに言われた、『この時のファルガは、淀んでいた』という言葉は、この当時のファルガの心理状態をよく指していた言葉かもしれない。
久しく覚えていなかった、心を掻き乱される感覚。絶叫したいほどに燃え盛る感情。漠然とした古ぼけた怒りが、新鮮な怒りにとって代わる。だが、怒りの鮮度は増しても、それをどう発散してよいかもわからず、言葉も動きも失う。
目の前にあるものを壊しても、切り刻んでも、恐らく彼の怒りや憎しみは拭えまい。怒りはそのまま空回りをし、憎しみだけが熟成され、どす黒い感情を彼に与え続けた。だが、その感情が彼に力を与えることはない。
そして、抗いようのない虚無感の中、指一本動かすことができず、力尽きた心のまま彼は膝から崩れ落ちた。
ジョウノ=ソウ国首都ルブザード。
全体的に装飾の施された白い建造物で構成される巨大都市の中央には、白く美しい王城が建造されている。その正面には大広場があり、そこで豊穣祭などの祭りや朝市などのイベントが執り行われる。
その大広場の端、正門のすぐ横に何基かの獄門台が並べられていた。
神の国の神未満の住民たちは、今でも極悪人には死刑を望み、死刑の執行は数年に一回の頻度で行われている。
その日も、断頭台による処刑後、王城前の大広場の隅に設営された獄門台に死刑囚の首が並べられていた。執行自体は数年ぶりだ。しかし、とある人間を処刑する為だけに、今まで死刑囚のまま死刑執行を待ち続けていた人間が何人か処刑されたようだ。
その処刑には誰しもが違和感を覚えざるを得なかった。特別な処刑を特別でなく見せる為、死刑執行を重ねた。そんな印象だったからだ。
簡素な木造りの獄門台。そこに並べられた幾つかの晒し首に交じって、異様にたくさんの花の手向けられた晒し首があった。
他の首は既に朽ち果てつつあり、色もどす黒く変色していたが、花の手向けられた獄門台に置かれた首だけは、生前と変わらぬ色艶をしていた。安らかに眠るその表情には、苦悶など全く感じさせず、微笑みを浮かべているような印象さえ与える。獄門台のその一角だけが輝いているようにも見え、興味本位で腐りかけの生首を見に来た人間が、余りの美しさに立ち止まり、息をのんでしまう程だった。
『歴史上最も美しい生首』は、口元から一筋の血が流れていることでのみ、その者の死が伺えた。
立膝立ちをした少年の傍を、何人もの住民が通り過ぎていく。
屍を晒すのは極悪人。夜な夜な人々を震え上がらせた極悪人たちが、民衆に様々な悪事を働かなくなる証明としての晒し首だ。人々は好奇の目でその生首たちを見て、胸を撫で下ろすのだった。同時に、朽ちていく生首を見て、悪事を働くのだけはやめようと一般人に思わせる抑止効果もある。
そんな中、獄門台の一角の晒し首の一つにだけは、花が手向けられていた。一本や二本ではない、花に囲まれたその首は、惜しまれつつ亡くなった人物のようにさえ感じさせる。
何だ、この違和感は。
少年は絶望に打ちひしがれながら、その様子を目に焼き付ける。
この男は、この国の人たちにとって、一体何なのだろうか。
死して当然の極悪人たちが晒される獄門台。そこに、何故か死を惜しまれる人間が混じるとは。だが、惜しまれている筈の人間は首を晒される。ここに存在する違和感。
陽が傾き、野犬が晒し首を咥えて立ち去るのを防ぐために、桶がかぶせられていく。何人もの衛兵が、ルブザードの外壁の門を閉ざし、詰め所に戻る際の作業だった。
彼らの目には、立膝立ちで立ち尽くす少年が奇異に映ったに違いない。花を手向けるでもなく、手を合わせるでもなく、ただその美しい遺骸に目を奪われている。
だが、少年が心を整理し、やっと呟いた一言で、衛兵たちは殺気立つ。あっという間に兵たちに拘束され、その場から引きずられていった。
少年は忘我の様子で抵抗もしなかった。そして、周囲で見ていた人間達も、茫然と見送っていた。余りにあっという間の出来事だったので、声を上げる事すらできなかったようだ。
衛兵に拘束される直前、少年は呟いていた。
彼がラマ村を飛び出した原因となる殺人鬼の名を。
第一王子リンジョーグンの『諱』を。
「なぜ、奴はこの地に戻ってきたのだ! あれほどこの地に足を踏み入れたなら、その時は極刑に処すと申し伝えたはずなのに」
執務室で第一王子リンジョーグン帰国の一報を受けたカネーガ王は、思わず持っていた羽ペンを握り潰した。
王の書いていた書類に、インクが不吉な染みを作る。
少年ファルガがジョウノ=ソウ国首都ルブザードに到着する三日前の事だ。
人肉嗜食という禁忌を犯した第一王子を、王はなぜ極刑にしなかったのか。
自分の息子が人肉を好むと告白した時、カネーガは激怒した。ありとあらゆる罵詈雑言をぶつけ、その場で斬り捨てる為に、カケネエ家が直々に所持する宝剣すら抜いた。
だが、それをさせなかったのは、大臣であり、近衛隊長であり、数多くの家臣たちだった。
謁見の間で宝剣を抜き、構えたカネーガと首を差し出すように頭を垂れたまま片膝をつくリンジョーグンの間に、何人もの人間が割って入った。
「王よ、気を確かに!」
口々に王を制する言葉を発しながら、リンジョーグンの前で盾となった。
王は怒りに震え、盾となった人間たちを怒鳴りつける。
「私は冷静だ!
そなたら、外道をかばうとはどういう了見だ! 人を食らうなど、悪魔の所業だ。それを捨て置く事は出来ん! 禁忌を行う人間は悪魔同然。悪魔に魂を売った者を生かしておくわけにもいかないだろうが!」
ジョウノ=ソウ国の王であるカネーガは、先人同様『覇気』の能力を持つ。その覇気は、リンジョーグンと同じく『人たらしの覇気』だった。
カネーガに詰め寄られた人間は、カネーガの覇気に強く打たれ、カネーガの言葉に逆らえなくなっていた。しかし、何も言葉を発することなく跪くリンジョーグンからも強力な覇気が発せられており、リンジョーグンに対する庇護欲を掻き立てられた人々は、凄まじく強力な二つの覇気の板挟みになり、涙を流し、涎を流し、忘我で激しく震えるしかなかった。
そして、それに耐えられなくなった者から、自害用の短剣を抜き、喉を貫こうとし始めた。まるで、二人の王族の争いの原因が自分であり、それを悔いての行為であるかのように。
カネーガはその短剣を宝剣で弾き飛ばす。
短剣を飛ばされ、それこそ何をしていいかわからずに打ち震える者達に、カネーガは表情を崩さす、しかし柔らかく声をかける。
「そなたら……それほどにこの愚息を愛してくれていたのか」
覇気が他者に及ぼす影響が大きいとはいえ、リンジョーグンは、間違いなく国民から愛されていた。そもそも、リンジョーグン=タリィーンザ=デ=カケネエという字も、王の座を継ぐ前から既に付与されていた。それほどの男だ。
「リンジョーグンよ、牢に入れ。どれほど国民に愛されていようと、人を食らう事即ち鬼の所業。それを是とするわけにはいかん。牢にて禅を組み、心を浄化せよ。それまで出獄は許さぬ」
リンジョーグンは返事をしなかった。ただ、跪き、首を垂れたままだった。
近衛兵たちはリンジョーグンを、肩を貸し抱きかかえるように立たせると、王の前から辞させたのだった。それは連行というよりは、介添えであるように、カネーガには見えた。
謁見の間から全ての家臣がいなくなった。
謁見の間で王だけが一人取り残されることは、歴史上例のないことだった。それどころか、どの国家の歴史でも、その瞬間は訪れないはずだ。
「リンジョーグンよ、お前は民に愛されている。この上ないほどに王になるべき男なのだ。そのお前が、何故悪魔に魅せられてしまったのか……」
カネーガはその後、リンジョーグンを見ることはなかった。
リンジョーグンはその日のうちに聖剣を携えて出奔する。
討伐軍を組織しようとしたが、恐らくリンジョーグンを目の当たりにすれば、兵たちはリンジョーグンを逃がすために躍起になるだろう。討てと命じても討つことはできまい。討伐命令を出したのが只の王であれば、殆どの兵士は反旗を翻しただろう。だが、討伐命令を出したのはリンジョーグンの父、カネーガだ。
先ほどのように、カネーガとリンジョーグンの間で板挟みになり、討伐軍総自害などという結果となったら、目も当てられない。
形式上、討伐軍を組織したものの、実質国境までのリンジョーグン護衛軍の体をなしてしまうのは致し方ない。だが、カネーガはリンジョーグンに対し、伝令を介して強く告げた。
「二度とジョウノ=ソウの地を踏むな。戻ってきた場合には、極刑に処す」
と。伝令は泣いて謝辞を述べ、リンジョーグンの元に走った。
だが、リンジョーグンは戻ってきた。
ジョウノ=ソウ国を離れて数年。
リンジョーグンは、はっきりと『二人』になっていた。
ジョウノ=ソウ国の望まれた次王リンジョーグンと、食人鬼カニバル=ジョー。
女神すら心を奪われ、魔王すら恐れおののく美しい男の中には、二人の人格が住み着いていた。そして、この時には美しい悪魔は、同族を食する事に微塵も躊躇を無くしていた。
人の儚い命を憂い、己と共に命を繋ごうとする王子と、己の欲望に忠実で倒錯した快楽を追求する食人鬼。三大欲のうちの二つを一つの所業で満たそうとする美鬼の姿は、奇怪でありながらも、狂おしいほどに美しい悪夢として伝えられていくことになる。
リンジョーグンが何故この地に戻ってきたか、それを今の時点で知ることはできない。その心を知る前に、彼自身は獄門台でその屍を晒すことになったからだ。
それでも、晒された首以外の遺骸は、カネーガ王自ら王家の墓の隣に墓を作り弔ったというから、王も実子を悪の権化と切り捨てることは難しかったのだろう。あるいは、死してなお肉親にすら影響を及ぼす覇気を発し続けていたということなのだろうか。
少年ファルガが衛兵に拘束されたのち、投獄された檻は、奇しくも三日前にリンジョーグン=タリィーンザ=デ=カケネエが投獄されたのと同じ場所だった。
勿論、そんなことをファルガが知る由もない。そして、その場所に幽閉されたからと言って、その場所で何かを感じることはない。ただ、客観的な事実として、この場所にはジョーがいた。三日前にファルガがここを訪れたなら、ひょっとしたらレナの復讐戦が叶ったかもしれぬ。ただそれだけの話だった。
ファルガは檻の中に入れられても、暴れることも声を上げることもなかった。
ただ、今は膝を抱えて蹲るように、無情なる脱力感に耐えていた。
齢十二歳にして復讐の鬼となったファルガ。だが、その敵は既にこの世にいなかった。
ラマでの戦いでは聖剣の力を借り、馬上であと一歩のところまで追いつめたが、結果的に取り逃がしてしまう。
少年の旅はこの時始まった。
刹那の護るべき物を護るための強さを求め、眼前の問題にぶつかり続けてきた。そして何かを護る力をその都度得て、護る事が出来たりできなかったり、或いは護るべきものに守られたりしながら、少年は強くなった。
だが、その護るべき物を護るための強さを得る原動力は、あの時護れなかった少女レナの仇を討つという根源的な感情だった。
その感情の発露ともいうべき仇を失ったファルガの旅は、ここで静かに幕を下ろすことになる。
何日経ったのか。何年も経過したのか。あるいはまだ数分しか経っていないのか。
ふと我に返ったファルガは、背後に気配を感じ、背後を振り返る。
何となく独房に入れられた記憶はあったため、周囲が冷たい岩の壁であることも驚きはしなかった。恐らく、彼を封じる鉄の扉の向こう側に誰かが来ている。だが、その存在がまさか鉄の扉を開けて独房に入ってくるとは。
背の届かぬところに僅かに穿たれた天窓から差し込む光は、陽光ではなかった。妙に寒々しい白光は、恐らく月光だろう。臨むことはできないが、今日は満月なのだろうか。
独房に入ってきた人物が、細く入ってくる光によって闇の中に浮かび上がる。
その闇に浮かび上がった顔を見て、ファルガは思わず目を見開いた。
ジョー。
声に出さずに呟くファルガ。だが、最後に事を構えた時に見た、指一本動かせぬほどの激しい狂気を放つ彼とは明らかに異なった。それに、あの瞬間のジョーより、大分老いているように見える。
「おお……」
ジョーに酷似した、しかし、ジョーよりは大分高齢に見える壮年の男性は、ファルガの顔を目の当たりにし、感嘆ともとれる呻き声を漏らすのだった。
そして、その壮年の男性の背後には、何人かの兵士が控えていたが、更にその背後には、ファルガを保護してくれたテマと名乗った老人が、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。




