幼馴染は俺のものじゃなかった。――清らかさでしか愛を測れない俺が、奪われ続けた果てに観葉植物になる話
非処女と結婚するメリットが、本気でわからなかった。
そんなことを現実の誰かに向かって言ったことはない。さすがに、口に出した瞬間に自分がどれだけ終わるかくらいの分別はあった。けれど夜中、ベッドに寝転がってスマホを見ていると、俺の中の澱みたいなものは、もっと下品で、もっと攻撃的な言葉になって勝手に形を持った。
他の男に夢中になったことがあります。でも今の彼が大好きです。
なんだそれ。
気持ち悪い。
過去は過去だとか、人には歴史があるとか、そういう綺麗ごとは全部、持っている側の言葉に聞こえた。経験がある人間が、経験のない人間に向かって、「気にするな」と笑う。その余裕がむかついた。俺の知らない誰かを知っている女が、俺の前で「愛してる」と言う。俺が最初じゃないのに、俺が最後だと誓う。
そんな誓い、どこに信用できる要素があるんだよ。
俺は三河大。読みは「だい」。愛知の私立大学に通う二十歳の二年生で、顔は中の下、身長は平均より少し低く、運動は苦手で、友達は少なく、恋愛経験はゼロだった。
恋愛経験がゼロだからそういう考え方になるのだ、と言われれば、多分その通りなのだろう。自分でも薄々わかっていた。俺は愛を語っていたのではなく、傷つかずに済む保証を探していただけだった。誰かに比べられたくない。誰かの二番目になりたくない。誰かの思い出に負けたくない。だから俺は「清らかさ」という言葉にしがみついた。
清らかな相手なら、俺を裏切らない気がした。
俺だけを見てくれる気がした。
俺のことを、初めから終わりまで、まっすぐ好きでいてくれる気がした。
安城怜は、俺にとってその象徴だった。
怜は隣の家に住んでいる幼馴染だった。小さい頃から、何をするにも俺の後ろをついてきた。俺が公園で砂の山を作れば、怜は隣にもっと大きな山を作って、「大ちゃんのお城と怜のお城、橋でつなげようよ」と笑った。俺が自転車の補助輪を外す練習をして転べば、怜は泣きながら絆創膏を持ってきて、俺より先に泣いた。小学校の帰り道、ランドセルを揺らしながら「大ちゃんは将来、怜のお婿さんね」と言われたこともある。
子供の約束だ。
そんなものに意味がないことくらい、二十歳になった今ならわかる。
それでも俺は、その言葉を心のどこかに保存していた。怜本人がとっくに忘れているような、幼稚で、無責任で、甘ったるい約束を、俺は勝手に宝物にしていた。
怜は成長しても、怜のままだった。天真爛漫で、よく笑い、距離感が近く、人の懐に入るのが上手い。高校のときには男子から何度も告白されていたらしいが、俺の知る限り、誰とも付き合っていなかった。もちろん俺は本人に確かめたことなどない。ただ、噂がなかったから、勝手にそう信じていた。
俺は怜に告白しなかった。
理由はいくつも作れた。幼馴染の関係を壊したくない。大学受験がある。今さら照れくさい。タイミングが悪い。けれど本当の理由は、単純に怖かったからだ。
怜に断られたら、俺の中にある綺麗な物語が全部終わる。
怜が俺のことを男として見ていないとわかったら、俺は生きていけない。
だから俺は、怜がいつか自分から気づくのを待っていた。大ちゃんが一番だと、大ちゃんしかいないと、怜のほうから言ってくれる日を待っていた。何も差し出さず、何も賭けず、ただ待っていた。
俺はそれを純愛だと思っていた。
大学は、怜と同じになった。学部は違ったが、キャンパスは同じだった。地元から電車で通える、そこそこの私大。名鉄の赤い電車に揺られながら、たまに一緒に登校した。怜は大学に入るとすぐに友達を増やし、サークルにも顔を出し、学食で知らない先輩に手を振られるようになった。俺は授業とバイトと家の往復で、スマホの中の匿名の言葉だけが居場所だった。
怜は変わっていった。
髪を少し明るく染めた。服の雰囲気が柔らかくなった。化粧も上手くなった。笑い方は昔と同じなのに、ふとした横顔が知らない女に見えることがあった。
そのたびに胸がざわついた。
俺の知っている怜でいてほしかった。いつまでも、俺の後ろをついてくる妹みたいな存在でいてほしかった。けれど同時に、俺は怜を妹として見ていたわけではなかった。都合のいいときだけ妹扱いし、都合のいいときだけ未来の恋人扱いした。
最低だと、今なら思う。
その頃、蒲郡レオンという男が俺たちの周囲に現れた。
本名なのか、あだ名なのか、最初はわからなかった。レオンは同じ一般教養の授業にいた。金に近い茶髪で、耳に小さなピアスをしていて、いつも眠そうな目をしていた。服は派手で、態度は軽く、教授に指されてもふざけた答えを返すくせに、試験ではなぜか点を取る。女友達が多く、男友達も多く、誰に対しても距離が近い。
俺が一番苦手なタイプだった。
怜は、そういう男を怖がると思っていた。
そうであってほしかった。
けれど怜は、レオンとすぐに話すようになった。きっかけはたぶん、授業で配られたプリントを怜が落としたことだった。廊下に紙が散らばり、怜が慌てて拾おうとしたとき、レオンが先にしゃがんで「安城さん、こういうの漫画みたいだね」と笑った。怜は「漫画ならここで恋が始まるやつじゃん」と返し、二人で笑った。
俺は少し離れた場所で、それを見ていた。
怜は俺にも同じように笑ってくれる。けれど、レオンに向けた笑顔は、俺の知らない角度をしていた。
その日から、俺は二人を見るたびに胸が詰まるようになった。学食で同じテーブルにいる。講義室の後ろで話している。キャンパスの外のコンビニで並んでいる。怜がレオンのスマホを覗き込んで笑う。レオンが怜の頭を軽く小突く。
ただそれだけのことで、俺の中では何かが黒く膨らんでいった。
「怜、最近レオンと仲いいよな」
ある日の帰り道、俺は何気ないふりをして言った。
怜は駅へ向かう歩道で、ペットボトルの紅茶を両手で持ちながら振り向いた。
「レオンくん? うん、面白いよ。見た目怖いけど、意外とちゃんとしてるし」
「ちゃんとしてるようには見えないけど」
「大ちゃん、そういうとこあるよね」
「そういうとこって?」
「見た目で決めつけるとこ」
怜は責めるように言ったわけではない。むしろ笑っていた。けれど俺は、その一言で心臓を刺されたような気分になった。
「別に決めつけてない」
「そう? 大ちゃん、昔から知らない人に厳しいじゃん」
「怜が危なっかしいから言ってるだけだろ」
「危なっかしいって、私もう二十歳だよ」
その言葉が嫌だった。
二十歳。
成人。
俺の知らない場所へ行ける年齢。俺の許可なんて必要なく、誰とでも飲みに行ける年齢。誰かの部屋に泊まることも、自分で選べる年齢。
俺は黙った。
怜は少し困った顔をして、それからいつものように笑った。
「でも心配してくれるのは嬉しいよ。ありがと、大ちゃん」
そう言って、怜は俺の袖をちょんと引いた。
昔なら、それだけで嬉しかった。怜が俺を頼っている証拠だと思えた。
その日は違った。
その指先が、いつかレオンにも同じように触れるのかと思ったら、吐き気がした。
噂を聞いたのは、梅雨入り前の蒸し暑い午後だった。
学食は混んでいた。俺は一人でカレーを食べていた。カレーの味は薄く、皿の上の福神漬けだけがやけに赤かった。隣のテーブルに座っていた女子二人が、スマホを見ながら小声で盛り上がっていた。
「え、じゃあ安城さんと蒲郡ってマジなの?」
「らしいよ。昨日、駅前で手つないでたって」
「えー、意外。安城さん、もっと爽やか系いくと思ってた」
「でもレオン、なんだかんだモテるじゃん。ていうか先週、飲み会のあと一緒に消えたって聞いた」
スプーンが皿に当たって、かちん、と鳴った。
女子たちは俺を見なかった。俺が怜の幼馴染だと知らないのか、知っていてどうでもいいのか、わからない。彼女たちの声はその後も続いたが、俺の耳にはうまく入ってこなかった。
一緒に消えた。
手をつないでいた。
付き合っている。
単語だけが頭の中を跳ね回った。
噂だ。大学生の噂なんて、半分以上が適当だ。そう思おうとした。けれど、胸の奥ではもう答えが出ていた。怜は最近、俺と帰る回数が減っていた。LINEの返事も遅くなっていた。講義のあと、誰かを探すように周囲を見ることがあった。
その誰かが、俺ではなかっただけだ。
スマホを開くと、怜とのトーク画面があった。最後のやりとりは三日前。「明日の英語、出る?」と怜が聞いて、「出る」と俺が返しただけ。昔はくだらないスタンプだけで何十往復もしたのに、今は事務連絡みたいな文字が二つ並んでいるだけだった。
俺はメッセージを打った。
今日、話ある。
送信してから、手が震えていることに気づいた。
怜から返事が来たのは十分後だった。
私も話したかった。授業終わったら駅の裏の公園でいい?
その文字を見た瞬間、胃の底が冷えた。
私も話したかった。
つまり、話すべきことがあるということだ。
公園は、駅の裏にある小さな場所だった。滑り台とベンチが二つあるだけで、夕方になると高校生がたむろし、夜になると誰もいなくなる。俺と怜は中学の頃、塾帰りによくそこでアイスを食べた。
怜は先に来ていた。
白いブラウスに薄い青のスカート。髪は肩のあたりで揺れていた。俺を見つけると、怜は一瞬笑おうとして、うまく笑えないまま立ち上がった。
「大ちゃん」
その呼び方が、胸に痛かった。
「噂、聞いた」
俺は挨拶もせずに言った。
怜の顔がこわばった。
「レオンと付き合ってるって、本当なのか」
「大ちゃん、あのね」
「本当かどうかだけ答えて」
怜は唇を噛んだ。
「付き合っては、ない」
「じゃあ何」
「ちゃんと説明したい。でも、怒らないで聞いてほしい」
「怒るかどうかは内容によるだろ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たかった。怜は肩を小さく震わせた。
「先週、サークルの飲み会があって……私、少し飲みすぎた。レオンくんが送ってくれて、それで、終電なくなって」
「泊まったのか」
怜は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
喉の奥から、何かがせり上がってきた。怒りなのか、悲しみなのか、吐き気なのか、わからなかった。
「したのか」
怜の目が大きく揺れた。
「大ちゃん」
「したのかって聞いてる」
「そこだけ聞くの?」
「大事なことだろ」
怜は泣きそうな顔で俺を見た。
「大ちゃんにとって、私はそこなの?」
その言い方に、俺はさらに腹が立った。まるで俺が悪いみたいだった。裏切られたのは俺なのに。俺の知らないところで、俺の怜が別の男に触れられたのに。
俺の怜。
その言葉が頭に浮かんでも、俺は疑問に思わなかった。
「誤魔化すなよ」
「誤魔化してない」
「じゃあ答えろよ」
怜は長い間、黙っていた。公園の外を電車が通り過ぎる音がした。踏切の音が遠くで鳴っていた。夕方の湿った風が、怜の髪を揺らした。
「……あった」
怜は、ほとんど息のような声で言った。
「でも、付き合ってるわけじゃない。私、自分でもどうしたらいいかわからなくて。大ちゃんに言わなきゃって思ってた。でも怖くて」
頭の中が白くなった。
あった。
その一言で、怜の過去が書き換わった気がした。俺の知っている怜が、遠くへ行ってしまった気がした。小さい頃に砂場で笑っていた怜も、自転車で転んだ俺を見て泣いていた怜も、塾帰りにアイスを食べた怜も、全部、別の男に触れられた身体に繋がっているのだと思うと、胸の奥が黒く焼けた。
頭の中では、もっと汚い言葉が浮かんでいた。
他の男に。
他のオスに。
犯された。
その言葉が浮かんだ瞬間、自分の中の何かがさらに歪んだのを感じた。怜がそう言ったわけではない。暴力があったと聞いたわけでもない。怜は自分の選択を、自分の失敗として話そうとしていた。それなのに俺は、それを自分の被害に変えたかった。怜を奪われたものにして、俺を奪われた側にしたかった。
「気持ち悪い」
気づいたときには、口から出ていた。
怜の顔から血の気が引いた。
「大ちゃん……?」
「無理だわ。お前、そういうことしておいて、俺に何を話すつもりだったんだよ」
「待って。違うの。私は、大ちゃんのことが」
「何」
俺は笑った。笑ったつもりだったが、たぶん顔は歪んでいた。
「本当に好きなのは大ちゃんだけ、とか言うのか?」
怜は何も言えなくなった。
それが答えだった。
俺の胸の奥で、何かが決定的に壊れた。
「本当に好きなのは、大ちゃんだよ」
怜は泣きながら言った。
「ずっとそうだった。でも、大ちゃんは何も言ってくれなかった。私が近づいても、冗談にして逃げた。私、待ってた。大ちゃんがちゃんと言ってくれるの、ずっと待ってた。でも大ちゃんは、私を妹みたいに扱うだけで、でも他の男と話すと不機嫌になって。私、どうしたらいいのかわからなかった」
「だからレオンと寝たのかよ」
「そんな言い方しないで」
「事実だろ」
「事実だけど、でも、それだけじゃない」
「それだけだろ」
怜は泣いていた。俺はその涙を見ても、かわいそうだとは思えなかった。むしろ、泣きたいのはこっちだと思った。
「もう無理だ」
俺は言った。
「怜がそんなやつだと思わなかった」
怜は両手で口元を押さえた。
「そんなやつって、何」
「他の男とそういうことしておいて、本当に好きなのは俺とか言うやつ」
「大ちゃんだって、私に一度も好きって言ってくれなかったじゃん」
「それとこれは違うだろ」
「違わないよ」
「違う」
俺は言い切った。言い切らなければ、自分が崩れそうだった。
怜はしばらく俺を見ていた。涙で濡れた目は、いつもの明るさを失っていた。
「大ちゃんは、私のことが好きだったんじゃなくて、大ちゃんの中にいる綺麗な私が好きだったんだね」
その言葉は、刃物みたいだった。
俺は何も返せなかった。
怜は鞄を握りしめ、俺の横を通り過ぎた。すれ違う瞬間、怜の肩が少し震えていた。俺は振り返らなかった。振り返ったら、追いかけてしまいそうだった。追いかけて、謝って、抱きしめて、それでも頭の中では「でもレオンと」と思ってしまう自分が見えた。
だから俺は、ベンチに座ったまま動かなかった。
夜になり、公園の街灯がついた。
虫が光の周りを飛んでいた。
俺はスマホを開き、匿名掲示板に書き込んだ。
幼馴染が不良に取られた。マジで女って何なんだろうな。
すぐに反応がついた。
「切り替えろ」
「中古は無理」
「お前は悪くない」
「そういう女はまた浮気する」
画面の向こうから投げられる言葉は、どれも俺が欲しかったものだった。俺は悪くない。俺は被害者だ。怜が悪い。レオンが悪い。女が悪い。
何度も読み返しているうちに、少しだけ呼吸が楽になった。
でもスマホを閉じると、また怜の顔が浮かんだ。
本当に好きなのは大ちゃんだよ。
その言葉が、耳の奥で腐っていくようだった。
翌日から、大学はひどく狭い場所になった。
怜とは廊下で何度かすれ違った。怜は俺を見ると、一瞬だけ足を止めそうになり、それから目を伏せた。俺も声をかけなかった。話したところで、何を言えばいいのかわからなかった。
周囲には噂が広がっていた。安城怜と蒲郡レオンがどうこう、という噂だけではない。三河大が安城怜を公園で泣かせたらしい、という噂も流れ始めた。俺は自分が悪者になっていることに腹を立てた。だが同時に、反論する言葉もなかった。
ある日の講義終わり、レオンが俺の横を通り過ぎるとき、軽く肩をぶつけてきた。
「痛っ」
俺が睨むと、レオンは振り返って笑った。
「ごめんごめん。見えてなかった」
「わざとだろ」
「そんな怖い顔すんなよ、三河くん」
レオンは俺の名前を知っていた。気持ち悪かった。
「怜に何した」
俺が言うと、レオンは片眉を上げた。
「何って?」
「とぼけんな」
「安城さんが話したんじゃないの?」
レオンの声は軽かった。軽すぎて、殴りたくなった。
「最低だな、お前」
「へえ」
レオンは笑みを消さなかった。
「最低なのは、泣いてる女に『気持ち悪い』って言える男じゃね?」
胸の奥が燃えた。
「お前が言うな」
「俺は自分がいいやつだなんて言ってないよ」
レオンは近づき、俺にだけ聞こえる声で言った。
「でもお前、安城さんのこと、ほんとに好きだったの?」
「当たり前だろ」
「ふうん」
レオンは、心底どうでもよさそうに笑った。
「じゃあなんで今まで何もしなかったんだよ」
言い返せなかった。
レオンは俺の肩をぽんと叩き、講義室を出ていった。その背中を見ながら、俺は歯を食いしばった。あんな男に、怜が。あんな男に、自分の大事なものを奪われた。
奪われた。
その言葉にしがみつくことで、俺は自分の怠慢から目を逸らした。
豊田未来が俺に声をかけてきたのは、それから一週間ほど経った頃だった。
未来は同じゼミにいた。黒髪を後ろでひとつに結び、いつも淡い色のカーディガンを着ている。派手ではないが、地味というわけでもない。授業ではよく発言し、レポートの評価も高い。誰かと群れるより、一人で本を読んでいることが多かった。
俺は未来のことを、真面目で大人しい女子、くらいにしか思っていなかった。
ゼミの課題で図書館に残っていた夕方、未来は俺の向かいに座った。机の上には、俺が開いたまま一行も読んでいない本があった。
「三河くん、顔が死んでる」
最初の一言がそれだった。
俺は顔を上げた。
「何だよ、急に」
「ずっとそうだから。気になって」
「別に」
「別にって顔じゃないよ」
未来は鞄から缶コーヒーを取り出し、俺の前に置いた。
「甘いやつ。嫌いだったらごめん」
俺は受け取らなかった。
「何のつもり」
「何のつもりって、心配」
「俺と豊田さん、そんな仲良かったっけ」
「仲良くなきゃ心配しちゃいけないの?」
未来は淡々としていた。怜のように明るく踏み込んでくるのではなく、静かにこちらの隣に椅子を置くような話し方だった。
俺はしばらく黙っていた。誰かに話したかったのかもしれない。匿名掲示板ではなく、現実の誰かに。自分は悪くないと言ってほしかった。怜が悪い、レオンが悪い、あなたは傷つけられた側だと、柔らかい声で言ってほしかった。
「幼馴染がさ」
俺は言った。
未来は黙って聞いていた。
「ずっと好きだったやつが、変な男とそういうことしてた」
自分で言いながら、胸が痛んだ。
「付き合ってたの?」
「いや」
「告白は?」
「してない」
未来は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、三河くんの彼女ではなかったんだ」
その言葉に、俺は苛立った。
「そういう話じゃない」
「そうかな」
「ずっと一緒にいたんだよ。幼馴染で、向こうも俺のこと好きだって言ってた。なのに、他の男と」
「好きって言ってくれたのは、いつ?」
俺は答えに詰まった。
未来は責めるようではなかった。ただ事実を確かめるみたいに聞いた。
「最近、言われた。公園で」
「その前は?」
「小さい頃とか」
「小さい頃」
未来は缶コーヒーを見つめた。
「三河くんは、その子の過去が許せないの?」
「許せるわけないだろ」
「どうして?」
「どうしてって……他の男を知ってるんだぞ」
「うん」
「それで俺が好きとか言われても、信じられるわけない」
「他の誰かを知ってたら、今の気持ちは全部嘘になるの?」
「なるだろ」
「本当に?」
未来の声は静かだった。
俺は言葉を探した。けれど出てきたのは、ネットで拾ったような薄っぺらい言葉だけだった。女は上書き保存だとか、一度そういうことをした女はまたするだとか、男は本能的に嫌悪するとか、そんなものばかり。
未来は最後まで聞いていた。
笑わなかった。怒らなかった。軽蔑もしなかった。少なくとも、そのときの俺にはそう見えた。
「三河くんは、怖いんだね」
未来は言った。
「怖い?」
「比べられるのが。選ばれないのが。自分だけじゃ足りないって思い知らされるのが」
「違う」
「違わないと思う」
「俺は普通のことを言ってるだけだ」
「普通って便利だよね。自分の傷を、世間のルールみたいに言えるから」
その言葉は刺さった。
けれど不思議と、怜に言われたときほど腹が立たなかった。未来の声には、どこか諦めのようなものが混じっていた。俺を責めながら、自分にも同じ刃を向けているように聞こえた。
「豊田さんにはわからないよ」
俺は言った。
「そうかもね」
未来は缶コーヒーのプルタブを開けた。小さな音が図書館の隅に響いた。
「でも、忘れたいなら手伝えるよ」
俺は顔を上げた。
「何を」
「その子のこと」
未来は俺をまっすぐ見ていた。
「私が忘れさせてあげる」
その言葉の意味がわからないほど、俺は子供ではなかった。
心臓が跳ねた。喉が乾いた。未来は冗談を言っている顔ではなかった。
「何言ってんの」
「嫌ならいい」
「いや、そうじゃなくて」
「成人同士だし、無理強いするつもりもない。ただ、三河くんは今、誰かに選ばれたって感覚が必要なんじゃないかなって思っただけ」
選ばれた。
その言葉は、俺の一番弱いところに触れた。
怜に選ばれなかった。レオンに奪われた。俺は価値がない。そんな考えが、この数日ずっと頭を回っていた。未来の言葉は、その回転を一瞬止めた。
「豊田さんは、なんでそんなこと」
「私にも、忘れたいことがあるから」
未来はそれ以上言わなかった。
俺は頷いてしまった。
未来の部屋は、大学から二駅離れた古いアパートの二階にあった。駅から歩く途中、俺たちはほとんど話さなかった。雨が降りそうな曇り空で、空気が重かった。未来はコンビニで水とゼリーを買い、俺にも「何かいる?」と聞いた。俺は首を横に振った。
部屋に入ると、窓辺に小さな観葉植物が並んでいた。ポトス、ガジュマル、名前のわからない多肉植物。白いカーテン越しに鈍い光が差し込んで、葉の影が床に落ちていた。
「植物、好きなの?」
俺が聞くと、未来は靴を脱ぎながら頷いた。
「喋らないから」
「それがいいの?」
「うん。勝手に期待しないし、失望もしないから」
未来は笑った。少し寂しい笑い方だった。
その夜のことを、俺は細部まで語れない。語るべきでもないと思う。ただ、未来は最後まで静かだった。俺が何度もためらうと、「やめる?」と聞いた。俺が首を横に振ると、未来は「じゃあ、今だけは考えないで」と言った。
怜の顔が何度も浮かんだ。
そのたびに、俺は未来を見た。
未来は俺を見返した。
朝になって、カーテンの隙間から薄い光が入ってきた。俺は知らない天井を見上げていた。隣で未来が起き上がり、髪を耳にかけた。部屋は静かだった。外では誰かの自転車のブレーキ音が鳴っていた。
「三河くん」
未来が言った。
「昨日、私、初めてだったんだ」
俺は息を止めた。
未来は俺のほうを見ず、窓辺の植物を見ていた。
「だから何って話なんだけど。一応、言っておこうと思って」
胸の奥に、熱いものが広がった。
初めて。
俺が最初。
その言葉は、馬鹿みたいに俺を救った。さっきまで身体の中にあった罪悪感や混乱が、都合よく別の形に変わっていくのがわかった。怜は違った。怜はもうレオンを知っていた。でも未来は違う。未来は俺を選んだ。俺が最初になれた。
こんな俺でも、誰かの最初になれる。
俺は泣きそうになった。
未来がどういう気持ちでそれを言ったのか、俺は考えなかった。未来にとって初めてが何を意味するのか、怖くなかったのか、後悔はないのか、そういうことを想像する余裕はなかった。
ただ、俺は救われたかった。
「ありがとう」
俺が言うと、未来は少しだけ振り向いた。
「お礼を言われることじゃないよ」
「でも」
「三河くん」
未来は俺の言葉を遮った。
「私を、その子の代わりにしないでね」
俺は即座に頷いた。
「しない」
そのときは本気だった。
けれど本気であることと、正しいことは違う。
それから俺は、未来と一緒にいる時間が増えた。授業の合間に会い、図書館で隣に座り、たまに学食で昼を食べた。未来は相変わらず淡々としていて、恋人らしい甘さはほとんどなかった。それでも俺は勝手に安心した。怜に壊された俺を、未来が拾ってくれたのだと思った。
未来は綺麗だった。
俺の中で、その言葉は厄介な意味を持っていた。外見の話ではない。未来は俺が最初だった。だから綺麗だ。未来なら信じられる。未来なら裏切らない。未来なら、俺の過去のなさを笑わない。
そんなふうに考えている自分に気づいても、俺は止めなかった。
むしろ、その考えに酔った。
怜とすれ違っても、前ほど胸が痛まなくなった。怜は少し痩せたように見えた。前より笑わなくなった気がした。レオンと一緒にいるところも見かけたが、俺は目を逸らした。もう関係ない。俺には未来がいる。怜は自分で選んだのだから、俺が気にする必要はない。
そう思おうとした。
だが本当は、怜が俺を見てくれないことが悔しかった。未来といる俺を見て、傷ついてほしかった。自分が失ったものに気づいてほしかった。
ある日の夕方、大学の中庭で怜と目が合った。怜は一人だった。俺の隣には未来がいた。未来はコンビニの袋を持ち、俺に「飲み物どっちがいい?」と聞いていた。
怜は俺たちを見て、少しだけ目を見開いた。
俺はわざと未来に近づいた。
「どっちでもいいよ」
未来は俺の顔を見て、それから怜のほうを見た。何かを察したように、ほんの少し眉を下げた。
「三河くん」
「何」
「そういう使い方、しないで」
俺は言葉に詰まった。
未来は怒ってはいなかった。ただ、悲しそうだった。
「ごめん」
俺は謝った。けれどその謝罪は、未来に対するものというより、自分が見透かされたことへの言い訳だった。
怜は何も言わずに去っていった。
その背中を見て、胸の奥がまたざわついた。
俺はまだ怜を忘れていなかった。
未来と過ごす時間は増えたが、俺たちが付き合っているのかどうかは曖昧だった。俺は何度か「俺たちって」と言いかけた。未来はそのたびに話題を変えた。
ある夜、未来の部屋でレポートを書いているとき、俺は思い切って聞いた。
「未来は、俺のこと好きなの?」
未来はキーボードを打つ手を止めた。
名前で呼んだのは、その日が初めてだった。未来は少し驚いたように俺を見た。
「三河くんは?」
「俺は好きだよ」
口にしてから、自分の声が軽いことに気づいた。
未来はじっと俺を見ていた。
「私のどこが?」
「どこって」
「言って」
俺は困った。
優しいところ。話を聞いてくれるところ。頭がいいところ。落ち着いているところ。いくつか言葉は浮かんだ。けれど、どれも未来そのものに届いていない気がした。
そして一番最初に浮かんだ言葉は、言えなかった。
初めてだったところ。
未来は小さく息を吐いた。
「三河くんの中で、私、誰になってる?」
「未来だよ」
「本当に?」
「当たり前だろ」
「じゃあ、私が初めてじゃなかったら?」
心臓が嫌な音を立てた。
未来はまっすぐ俺を見ていた。
「もし私が、前に誰かと付き合ってて、誰かを好きで、誰かとそういうことがあった人間だったら、三河くんは今と同じように私を好きって言える?」
俺はすぐに答えられなかった。
未来の目が、静かに揺れた。
「ほらね」
「違う。急に聞かれたから」
「うん」
未来は笑った。
「急に聞かれたから、だね」
その笑顔を見て、俺は焦った。何か大事なものが手の中から滑り落ちそうだった。
「でも未来は違うだろ」
言ってから、しまったと思った。
未来は目を伏せた。
「そういうところだよ」
部屋の窓辺では、観葉植物の葉がかすかに揺れていた。エアコンの風を受けているだけだった。
俺はその夜、未来の部屋に泊まらず帰った。
駅までの道で、何度もスマホを見た。未来から連絡はなかった。俺から送ろうとして、何を書けばいいかわからなかった。謝ればいいのか。言い訳すればいいのか。好きだともう一度言えばいいのか。
結局、何も送れなかった。
翌日、大学で未来を探したが、見つからなかった。ゼミにも来なかった。体調不良だと教授が言った。俺は不安になったが、同時に苛立っていた。どうして未来が傷ついたような顔をするのか。俺は未来を選んだのに。怜ではなく未来を見ようとしているのに。
選んでやった。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、自分で少しぞっとした。
俺は誰かを選んだつもりで、上から値札を見ていただけなのかもしれない。
それでも、俺はその気づきを深く掘らなかった。掘れば、自分の中から見たくないものが出てくる気がした。
未来から連絡が来たのは、二日後の夜だった。
明日、授業終わりに少し話せる?
俺はすぐに返した。
話せる。
集合場所は、キャンパスの外れにある古いカフェだった。学生はあまり来ない。店内は薄暗く、壁には色褪せた映画のポスターが貼ってあった。俺が入ると、未来は奥の席に座っていた。
そして、向かいにはレオンがいた。
足が止まった。
レオンは俺に気づくと、軽く手を上げた。
「よ、三河くん」
俺は未来を見た。
未来は顔色が悪かった。
「どういうこと」
俺の声はかすれていた。
未来は何か言おうとして、言えなかった。
代わりにレオンが笑った。
「まあ座れよ。立ち話もなんだし」
「お前に用はない」
「俺はあるんだよ」
レオンの声から、いつもの軽さが少し消えていた。
俺は座らなかった。未来は両手を膝の上で握りしめていた。
「未来、ちゃんと言いな」
レオンが言った。
未来は唇を震わせた。
「三河くん、ごめん」
その一言で、背中に冷たい汗が流れた。
「何が」
「最初に声をかけたの、偶然じゃない」
未来は目を上げられなかった。
「レオンくんに、頼まれた」
世界が一瞬、音を失った。
店内で流れていた古いジャズも、カップを置く音も、外を走る車の音も、全部遠くなった。
「頼まれた?」
俺はレオンを見た。
レオンは頬杖をついていた。
「言い方悪いな。俺があてがった、って言ったほうが三河くんにはわかりやすい?」
未来が顔を上げた。
「レオンくん、やめて」
「だって事実じゃん」
「私は物じゃない」
「知ってるよ。でもこいつには、その言い方のほうが刺さるだろ」
俺は拳を握った。
「ふざけんな」
「ふざけてないよ。お前、女なんて条件でしか見てないじゃん。安城さんが自分の思い通りじゃなくなったから捨てた。で、未来が初めてだって知ったら、今度はこっちのほうがいいんじゃね、って顔してた」
「黙れ」
「図星?」
「黙れ!」
店内の客がこちらを見た。未来がびくっと肩を震わせた。
レオンは少しも怯まなかった。
「未来が最初に声かけるようにしたのは俺だよ。お前が安城さんを泣かせたあと、ずっと被害者面してたからさ。どれだけ清らかさにこだわってるのか、試したくなった」
「試した?」
「そう。処女なら誰でもいいのかなって」
頭に血が上った。
俺はレオンにつかみかかろうとした。だがレオンはすばやく立ち上がり、俺の手首を掴んだ。見た目より力が強かった。
「暴力はやめとけよ。ますますダサいから」
「お前が、未来に」
「違う」
未来が言った。
声は震えていたが、はっきりしていた。
「レオンくんに言われたのは本当。でも、最後に決めたのは私。三河くんに声をかけたのも、部屋に呼んだのも、私が決めた」
「なんで」
俺は未来を見た。
「なんでそんなこと」
未来は泣きそうな顔で笑った。
「私も、選ばれたかったんだと思う」
意味がわからなかった。
未来は続けた。
「レオンくんとは高校からの知り合いで、ずっと振り回されてた。好きだった時期もある。でもレオンくんは私を見てなかった。都合よく話を聞かせる相手、面倒なときに呼ぶ相手、それくらい。三河くんが安城さんのことで壊れてるって聞いて、最初は腹が立った。女を何だと思ってるんだろうって。でも同時に、もし私が三河くんにとって特別になれたら、私も誰かに選ばれたって思えるのかなって」
未来は自分の手を見つめた。
「馬鹿だよね」
俺は何も言えなかった。
未来は俺を騙した。レオンに頼まれて近づいた。俺を試した。そう思えば怒れるはずだった。怒りたかった。だが、未来の声を聞いていると、怒りの下から別の感情が湧いてきた。
俺たちは全員、誰かに選ばれたかっただけなのかもしれない。
けれどその考えは、すぐにレオンの声で踏み潰された。
「で、結果は予想通りだったな」
レオンは笑った。
「未来が初めてだって知った瞬間、お前の顔、すげえわかりやすかったよ。救われましたって顔してた。女の中身じゃなくて、未開封シール見て安心してる客みたいだった」
「やめて」
未来が言った。
「もういいでしょ」
「よくないね」
レオンは俺を見た。
「三河くんさ、安城さんに謝った?」
俺は黙った。
「謝ってないよな。気持ち悪いって言ったまま、被害者面して、未来に逃げた。で、未来のことも結局、条件で見てた」
「お前に言われたくない」
「それはそう」
レオンはあっさり認めた。
「俺も大概クズだよ。でも、お前ほど綺麗なふりはしてない」
そのとき、店の入口のベルが鳴った。
振り向かなくても、誰が来たのかわかった。
怜だった。
白いワンピースに薄いカーディガンを羽織っていた。髪は少し短くなっていた。以前より大人びて見えた。怜は店内を見回し、俺たちの席を見つけると、足を止めた。
「怜」
俺は名前を呼んだ。
怜は俺を見た。目の奥に、驚きと痛みと、もう戻らない何かがあった。
「レオンくんに、話があるって呼ばれた」
怜はそう言った。
俺はレオンを睨んだ。
「お前、何がしたいんだよ」
レオンは肩をすくめた。
「全部まとめて終わらせようと思って」
「ふざけんな」
「ふざけてるよ、半分は」
レオンは立ち上がり、怜の隣に歩いていった。
怜は少し身構えたが、逃げなかった。
俺はその様子を見て、胸が締めつけられた。怜がレオンを完全に拒んでいない。それだけで、また黒いものが湧いた。
「怜、こいつに何言われたか知らないけど」
俺は立ち上がった。
「未来のことは、こいつが仕組んだんだ。俺は騙された」
言いながら、自分でその言葉の情けなさに気づいた。
騙された。
また俺は被害者になろうとしている。
怜は静かに俺を見た。
「でも、未来ちゃんが初めてだって知って、安心したんでしょ」
俺は息を呑んだ。
未来が目を伏せた。
「大ちゃん」
怜の声は、昔の呼び方なのに、昔とは違っていた。
「私、あの日のことをなかったことにしたいとは思ってない。後悔もしてる。傷つけた人もいる。でも、それは私の失敗で、私の選択で、私の責任。大ちゃんに汚いって言われるためのものじゃない」
「俺は、汚いなんて」
言いかけて、言ったことを思い出した。
気持ち悪い。
それは同じ意味だった。
「私、大ちゃんのこと好きだったよ」
怜は言った。
過去形だった。
「本当に好きだった。小さい頃の約束を、大ちゃんが覚えてるかもって期待してた。大学でも、大ちゃんがいつか言ってくれるんじゃないかって思ってた。でも、大ちゃんは私が誰かと話すと怒るのに、自分からは何も言ってくれなかった。私が大ちゃんの理想から少しでも外れたら、すぐに捨てた」
「捨ててない」
「捨てたよ」
怜の声は震えていた。
「私のこと、人間じゃなくした。大ちゃんの中の綺麗な箱に入ってるものにした。箱に傷がついたら、もういらないって顔した」
俺は反論できなかった。
レオンが怜の肩に手を置いた。
その手を見た瞬間、俺の中の何かが再び燃え上がった。
「触んな」
俺は言った。
レオンが笑った。
「まだ言うんだ」
「怜は」
俺は言葉に詰まった。
怜は、何だ?
俺の幼馴染。
俺の好きだった人。
俺のもの。
その最後の言葉を、口に出しそうになった。
レオンはそれを読んだように、唇の端を上げた。
「女なんて誰でもいいんだろ? 初めてなら未来でもよくて、綺麗なら安城さんでもよくて。中身なんか見てない。だったらさ」
レオンは怜を引き寄せた。
「お前の幼馴染、俺がもらうわ」
怜の眉がぴくりと動いた。
「レオンくん、その言い方嫌い」
「ごめん」
レオンは軽く謝ったが、目は俺を見たままだった。
怜は俺を見た。
「私は誰のものでもない」
その言葉は、俺に向けられていた。
「でも、今はレオンくんといる。大ちゃんのところには戻れない」
戻る。
その言葉で、俺は自分がずっと何を期待していたのか理解した。
怜が戻ってくること。
汚れても、泣いても、傷ついても、最後には俺のところに戻ってきて、「大ちゃんが一番」と言うこと。
俺はそれを愛だと思っていた。
怜はレオンの手を取った。
レオンは俺を見ながら、怜に顔を寄せた。怜は一瞬だけ目を閉じ、拒まなかった。二人の唇が触れたのは、ほんの短い時間だった。店内の薄暗い照明の下で、それは映画のワンシーンみたいに静かだった。
俺にとっては、処刑だった。
目の前で、また奪われた。
そう思った。
寝取られた。
そう思った。
でも、そもそも怜は俺の恋人ではなかった。未来も俺の所有物ではなかった。俺は一度も、誰かをちゃんと手に入れたことなどなかった。ただ、手に入れたつもりでいただけだった。
それでも痛みは消えなかった。
むしろ、その事実が痛みを増やした。
俺は何も持っていなかった。
最初から、何も。
怜はレオンと一緒に店を出ていった。未来は席に座ったまま泣いていた。レオンの背中が見えなくなる直前、彼は一度だけ振り返った。
勝ち誇った顔ではなかった。
ただ、退屈なものを見終えたような顔だった。
それが一番こたえた。
俺はその場に立ち尽くした。店員が心配そうにこちらを見ていた。未来が「三河くん」と呼んだ。俺は返事をしなかった。
未来は泣きながら言った。
「ごめん」
俺は未来を見た。
未来の涙を見ても、抱きしめたいとは思わなかった。責めたいとも、許したいとも思わなかった。ただ、遠かった。
未来は俺の最初ではなかった。
怜の代わりでもなかった。
未来は未来だった。
そんな当たり前のことを理解した瞬間、俺はもう未来を見られなくなった。
「俺、帰る」
それだけ言って、店を出た。
外は雨だった。
傘を持っていなかった。雨粒が髪に当たり、シャツに染み込んだ。駅へ向かう道は濡れていて、車のライトがアスファルトに伸びていた。俺は歩いた。どこへ向かっているのか、自分でもわからなかった。
怜の声が頭の中で繰り返された。
私は誰のものでもない。
未来の声も重なった。
私を、その子の代わりにしないでね。
レオンの声が笑った。
未開封シール見て安心してる客みたいだった。
俺は立ち止まり、道路脇のガードレールに手をついた。吐き気がした。実際には何も出なかった。ただ喉が痛くなった。
スマホが震えた。
未来からだった。
今日は本当にごめん。私は三河くんを傷つけた。レオンくんに頼まれたからだけじゃない。私自身が弱かった。初めてだったのは本当。でも、それを価値にされたとき、私も自分で自分を傷つけたんだと思う。三河くんが悪いだけじゃない。私も悪い。でも、もう会わないほうがいいと思う。
続けて、怜からもメッセージが来た。
大ちゃん、今までありがとう。小さい頃から一緒にいてくれたことは本当に大事だった。でも、もう昔には戻れない。私も間違えたし、大ちゃんも私を傷つけた。お互い、ちゃんと別々に生きよう。家に来るのはしばらくやめてね。
俺は画面を見つめた。
二つの別れが、ほとんど同時に届いた。
笑えた。
いや、笑えなかった。
スマホを握る手が震えた。返信欄を開き、何かを書こうとした。ごめん。待って。俺は悪くない。レオンが。未来が。怜だって。言葉はいくらでも浮かんだ。けれどどれも送れなかった。
送ったところで、何も戻ってこないとわかっていた。
俺は雨の中を歩き続けた。
駅前の商業施設はまだ明るかった。閉店間際の花屋の前で、俺は足を止めた。店先には小さな観葉植物が並んでいた。ポトス、サンスベリア、パキラ、ガジュマル。未来の部屋にあったものと似ていた。
喋らないから。
未来の声が蘇った。
勝手に期待しないし、失望もしないから。
俺は店員に声をかけられるまで、ずっと植物を見ていた。
「何かお探しですか?」
若い店員が聞いた。
俺は何も探していなかった。けれど、目の前にあった小さなポトスを指差した。
「これ、ください」
「育てやすいですよ。日陰にも強いですし、お水もあげすぎなければ大丈夫です」
日陰にも強い。
水をあげすぎなければ大丈夫。
その説明が、妙に羨ましかった。
俺はポトスを買って帰った。透明な袋の中で、緑の葉が揺れていた。電車の中で、周囲の乗客は俺を見なかった。濡れた服の男が観葉植物を抱えていても、誰も気にしない。世界は俺に興味がなかった。
家に帰ると、母親が玄関で驚いた。
「大、びしょ濡れじゃない。傘は?」
「忘れた」
「何それ、植物?」
「買った」
「急に?」
「うん」
母親は何か言いたそうだったが、俺の顔を見て黙った。
俺は部屋に入り、ポトスを机の上に置いた。タオルで髪を拭き、着替えもせずに床に座った。ポトスの葉は、部屋の蛍光灯の下でつやつや光っていた。
こいつには過去がない。
いや、あるのだろう。どこかの温室で育てられ、誰かに運ばれ、店先に並んでいた。けれど俺にはわからない。こいつは語らない。誰に触れられたか、何を見てきたか、誰を好きだったか、そんなことを言わない。
こいつは俺を選ばない。
俺もこいつに選ばれない。
ただ、水をやれば生きる。光があれば葉を伸ばす。足りなければ枯れる。それだけだ。
なんて楽なんだろうと思った。
人間は面倒くさい。
好きだと言えば過去がついてくる。触れれば意味が生まれる。選べば責任が生まれる。選ばれなければ傷つく。誰かを所有したくなり、所有できないと怒り、怒った自分を正当化するために相手を汚いものにする。
俺はそういう生き物だった。
いや、人間がそうなのではない。
俺がそうだった。
その違いを認めることが、たまらなく苦しかった。
翌日、大学を休んだ。
その次の日も休んだ。
母親には体調が悪いと言った。実際、体調は悪かった。食欲がなく、頭が重く、夜眠れなかった。眠ると怜とレオンが出てきた。未来の部屋の白いカーテンが出てきた。店の薄暗い照明の下で、怜がレオンを拒まなかった瞬間が何度も再生された。
起きるたびにスマホを開いた。
匿名掲示板には、俺の居場所がまだあった。
「やっぱ女は信用できない」
「幼馴染なんて幻想」
「弱男は恋愛市場に出るな」
「観葉植物でも育ててろ」
最後の言葉を見たとき、俺は少し笑った。
観葉植物でも育ててろ。
俺は机の上のポトスを見た。
違う。
育てるんじゃない。
俺がなるんだ。
観葉植物に。
誰も愛さない。誰にも期待しない。誰かの過去を知って傷つくこともない。比較されることもない。選ばれないこともない。部屋の隅で、日差しを浴びて、水だけで生きる。喋らず、求めず、奪われず、奪わず。
それが一番いい。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ静かになった。
俺はベッドから起き上がり、カーテンを少し開けた。朝の光が部屋に入った。ポトスの葉が光を受けて、薄く透けた。
「お前はいいよな」
俺はポトスに話しかけた。
もちろん返事はなかった。
返事がないことに、安心した。
大学からは何度か連絡が来た。ゼミの教授からメールが届き、友達とも呼べない知り合いから「最近見ないけど大丈夫?」とLINEが来た。俺は短く返したり、返さなかったりした。バイトも辞めた。母親は心配して部屋の前まで来たが、俺が「大丈夫」と言うと、それ以上踏み込めないようだった。
怜の家は隣にある。
窓を開ければ、怜の部屋のカーテンが見える。昔は互いの窓から手を振ったこともあった。今は怜のカーテンは閉じたままだった。たまに夜、家の前にレオンらしきバイクの音が聞こえることがあった。実際にレオンかどうかはわからない。わからないのに、俺は勝手に想像して傷ついた。
そのたびに、俺はポトスに水をやった。
やりすぎると根腐れする、と店員に言われていたのに、最初の頃は何度も水をやりそうになった。心配だから。枯れたら嫌だから。ちゃんと生きていると確認したいから。
俺は植物にまで、自分の不安を押しつけようとしていた。
ネットで育て方を調べると、「構いすぎないこと」と書いてあった。
構いすぎない。
期待しすぎない。
自分の不安を相手に流し込まない。
植物相手なら、それができる。
人間相手には、できなかった。
未来からの連絡は、それきり来なかった。俺も送らなかった。何度かトーク画面を開いたが、最後のメッセージを読むだけで胸が苦しくなった。
初めてだったのは本当。でも、それを価値にされたとき、私も自分で自分を傷つけたんだと思う。
俺は未来を救ったつもりで、未来を傷つけていた。
その事実は、怜のことよりも別の種類の痛みを持っていた。怜には怒りを向けられた。レオンには憎しみを向けられた。だが未来には、怒りも憎しみも向けきれなかった。未来は俺を騙した。けれど未来もまた、自分の弱さに騙されていた。
俺と同じだった。
同じだと思うのが嫌だった。
レオンからは一度だけメッセージが来た。どこで俺の連絡先を知ったのかはわからない。
元気? 観葉植物になれた?
俺は画面を見つめ、スマホを壁に投げつけそうになった。
投げなかった。
代わりにブロックした。
それでも言葉は残った。
観葉植物になれた?
なれるわけがなかった。
植物は憎まない。嫉妬しない。過去を掘り返さない。誰かの唇が誰に触れたかを想像して眠れなくなることもない。
俺は植物ではない。
俺は人間だった。
しかも、弱い人間だった。
弱者男性。
ネットで何度も見た言葉が、自分の額に貼られているようだった。恋愛市場で選ばれない男。自尊心だけが肥大して、現実の努力も告白もせず、女に理想を押しつけ、拒まれると被害者になる男。そういう言葉を、俺は以前、他人事として見ていた。笑ったこともある。俺は違うと思っていた。
違わなかった。
むしろ、その中心にいた。
俺は弱者男性になったのではない。
もともと弱かった。
ただ、怜や未来の存在を使って、自分が弱いことを見ないようにしていただけだった。
それでも、反省すれば救われるわけではなかった。
自分の醜さに気づいたからといって、急に優しい人間になれるわけではない。怜の幸せを願えるわけではない。未来に誠実な謝罪を送れるわけでもない。レオンを許せるわけでもない。
俺はまだ、怜がレオンといるところを想像して吐きそうになった。
未来がいつか別の誰かと笑うところを想像して、胸が黒くなった。
俺はまだ、汚かった。
だから俺は、人間であることを少しずつやめることにした。
朝起きたらカーテンを開ける。ポトスを窓辺に置く。土の乾き具合を指で確かめる。必要なときだけ水をやる。霧吹きで葉を湿らせる。枯れた葉があれば切る。新しい葉が出れば、何も言わずに見る。
それ以外の時間、俺はベッドか床に座っていた。
スマホを見る時間は減った。掲示板を見ると、以前の俺と同じような言葉がいくらでも流れていた。中古、裏切り、女は信用できない、弱男は搾取される。そこには怒りがあり、仲間意識があり、甘い毒があった。読めば一時的に楽になった。自分は悪くないと思えた。
でも、楽になるたびに、俺はもっと惨めになった。
だから見ないようにした。
代わりに植物の育て方の動画を見た。葉水のやり方、植え替えの時期、根詰まりのサイン。無機質な説明が心地よかった。植物は過去を問わない。育てる側の恋愛経験も、顔も、収入も、傷も問わない。ただ環境に反応する。
光が足りなければ弱る。
水が多すぎれば腐る。
風通しが悪ければ病む。
人間も同じなのかもしれない、と思った。
俺はずっと、暗い場所で水をやりすぎていたのかもしれない。怜にも、未来にも、自分にも。
夏が来た。
大学は前期の終わりに近づいていた。俺は単位をいくつも落とすことになった。教授から面談の連絡が来たが、行かなかった。母親と父親は何度か話し合いをしようとした。俺は「少し休みたい」とだけ言った。
父親は怒らなかった。
それが逆につらかった。
「休むのはいい。でも、部屋の中だけにいると余計に苦しくなるぞ」
父親はそう言った。
俺は頷いたが、外には出なかった。
ある日の午後、怜の母親がうちに来た。玄関先で母親と話す声が聞こえた。俺は部屋で息を潜めた。怜の名前が出るかと思ったが、聞こえなかった。しばらくして玄関が閉まり、母親が俺の部屋の前に来た。
「大」
「何」
「怜ちゃん、しばらく親戚の家に行くんだって」
胸が跳ねた。
「そう」
「大学は?」
「知らない」
「怜ちゃんのお母さん、心配してた。大と何かあったのかって」
「別に」
母親はドアの向こうで黙った。
「大、何があったか話せない?」
話せるわけがなかった。
幼馴染を自分の理想から外れたという理由で傷つけました。別の女の子に救われた気になりました。その子のことも条件で見ていました。不良に全部見透かされて、目の前で幼馴染が離れていきました。だから俺は観葉植物になります。
そんなことを母親に言えるわけがない。
「何もない」
俺は言った。
母親は小さくため息をついた。
「ご飯、あとで置いておくから」
足音が遠ざかった。
俺はポトスを見た。
新しい葉が一枚、開きかけていた。薄い黄緑色の小さな葉。丸まっていたものが、少しずつほどけている。音もなく、急ぎもせず、ただ光のほうへ向かっている。
俺は指で触れようとして、やめた。
触らなくていい。
見ているだけでいい。
そう思った。
怜が親戚の家に行ったのは、その週末だった。窓の隙間から、怜が大きなバッグを持って家を出るのが見えた。怜の母親が車のトランクを開け、荷物を積んでいた。怜は以前より髪が短く、白いシャツを着ていた。
俺はカーテンの陰から見ていた。
怜がふと顔を上げた。
目が合った気がした。
本当に合ったのか、俺の思い込みなのかはわからない。怜は少しの間こちらを見て、それから小さく頭を下げた。
俺は動けなかった。
手を振ることも、謝ることも、窓を開けることもできなかった。
怜は車に乗った。
車が走り出し、角を曲がって見えなくなった。
それだけだった。
俺の人生の中で長い間中心にいた女の子が、荷物を持って車に乗り、角を曲がった。それだけで終わった。
ドラマみたいな音楽も、雨も、叫びもなかった。
現実の別れは、あまりにも静かだった。
俺は床に座り込んだ。
涙は出なかった。
ただ、体の中が空洞になったようだった。
その夜、俺は初めて怜にメッセージを書いた。
ごめん。
たった三文字だった。
送信ボタンを押すまで、一時間かかった。
既読はつかなかった。
ブロックされているのかもしれない。スマホを見ていないだけかもしれない。どちらでもよかった。謝罪が届くかどうかより、俺が謝罪を送ったという事実にすがりたかったのかもしれない。
それもまた自分勝手だった。
未来にもメッセージを書いた。
ごめん。未来のことをちゃんと見てなかった。初めてだったとか、そういうことに救われて、未来自身を見なかった。本当にごめん。
送信した。
未来からは翌日、短い返事が来た。
謝ってくれてありがとう。私もごめん。もう返事はしないね。元気で。
それきりだった。
俺はスマホを伏せた。
元気で。
その言葉が、妙に遠かった。
秋になった。
俺は大学を休学した。親には散々心配されたが、最終的には許された。病院にも行った。医者は優しかった。俺の話を最後まで聞き、「今は環境を整えましょう」と言った。薬も出た。
環境を整える。
植物みたいだと思った。
俺は少し笑った。
医者は笑わなかった。
部屋のポトスは伸びていた。最初は小さな鉢だったのに、蔓が机の端から垂れるようになった。俺は支柱を買い、少し大きな鉢に植え替えた。根は思ったよりしっかり張っていた。白く細い根が土の中で絡まり、見えないところで生きていた。
見えないところで生きる。
それが羨ましかった。
俺もそうなりたかった。
誰にも見られず、誰も見ず、土の中で根だけを伸ばす存在になりたかった。
けれど人間は、完全には隠れられない。
休学中でも、世界は動いていた。SNSを見なくても、噂はどこかから入ってきた。怜が別の地域の大学に編入を考えているらしい。未来はゼミで発表をして評価されたらしい。レオンは相変わらず派手に遊んでいるらしい。
俺だけが止まっていた。
いや、ポトスだけが伸びていた。
ある日、久しぶりに外へ出た。理由は単純で、土が足りなくなったからだった。ホームセンターの園芸コーナーには、たくさんの植物が並んでいた。葉の大きなモンステラ、細い葉のドラセナ、丸い葉のペペロミア。人々はそれらを見て、「かわいい」「部屋に合いそう」と話していた。
俺はその中で、ガジュマルを一鉢買った。
太い根が人の足みたいに見える、小さな木だった。精霊が宿る木だと、札に書いてあった。俺は精霊なんて信じていない。それでも、根がむき出しになっている姿に惹かれた。
隠していない。
自分の歪な根を、外に出したまま生きている。
俺にはできないことだった。
レジに並んでいると、前にいたカップルが観葉植物を抱えて笑っていた。男が「水やり忘れそう」と言い、女が「私がやるから大丈夫」と返していた。以前の俺なら、女の過去を想像して勝手に苛立っていたかもしれない。男の余裕に嫉妬していたかもしれない。
その日は、ただ眩しかった。
俺は視線を落とした。
ガジュマルの根は黙っていた。
家に帰り、ポトスの隣にガジュマルを置いた。部屋に緑が増えた。人間が減った部屋で、植物だけが増えていく。奇妙なことに、それは少しだけ俺を落ち着かせた。
俺は毎朝、植物の葉を見た。
新しい葉が出ているか。黄色くなっていないか。土は乾いているか。虫はいないか。
植物の世話には、正解があるようでなかった。水をやりすぎても駄目。放置しすぎても駄目。日光が強すぎても焼ける。暗すぎても弱る。相手の状態を見て、少しずつ調整するしかない。
それは人間関係に似ている、と気づいた。
気づいたが、もう遅かった。
怜にも、未来にも、俺は相手の状態を見ていなかった。自分の不安を水のように注ぎ、自分の理想という光を押しつけ、相手が弱れば「裏切った」と言った。
俺は誰も育てていなかった。
愛してもいなかった。
ただ、自分の部屋に飾りたかっただけだった。
観葉植物みたいに。
その皮肉に気づいたとき、俺は少し笑った。
俺は観葉植物になりたいと思っていた。
けれど本当は、ずっと怜を観葉植物にしたかったのかもしれない。
喋らず、過去を持たず、俺の期待を裏切らず、部屋の中で綺麗に揺れている存在に。
未来のことも、そうしたかったのかもしれない。
「初めて」という札をつけて、自分の安心のために飾りたかったのかもしれない。
その気づきは痛かった。
でも、痛いだけだった。
そこから急に立ち直ることはなかった。
物語なら、ここで俺は改心して大学に戻り、怜に心から謝り、未来とも和解し、レオンを見返すのかもしれない。自分の歪みを認め、本当の愛を学び、新しい恋を始めるのかもしれない。
けれど現実の俺は、そんなに立派ではなかった。
謝罪は送った。
反省もした。
それでも、誰かを好きになる勇気は戻らなかった。誰かの過去を受け入れられる自信もなかった。自分の過去を誰かに差し出す覚悟もなかった。
俺は弱いままだった。
だから、誓った。
人間として誰かを愛することを、しばらくやめる。
求めない。
選ばれようとしない。
誰かを所有しようとしない。
誰かの清らかさで自分の価値を測らない。
それが立派な決意なのか、ただの逃避なのか、俺にはわからない。たぶん逃避だ。俺は逃げている。恋愛から、他人から、自分の醜さから。観葉植物になるという言葉は、格好悪い逃げ道に緑の葉をつけただけだ。
それでも、今の俺にはそれしかなかった。
冬が近づく頃、部屋の窓辺には五つの鉢が並んでいた。ポトス、ガジュマル、サンスベリア、アイビー、小さな多肉植物。朝の光が斜めに入り、葉の影が床に落ちる。俺はその影の中に座り、ぬるい水を飲む。
スマホは机の引き出しに入れてある。
通知はほとんど来ない。
怜からの返事は、結局なかった。
未来からも、それ以上は何もなかった。
レオンのアカウントはブロックしたままだ。
世界は静かだった。
静かすぎて、ときどき自分の心臓の音がうるさかった。
俺は植物たちに水をやった。土が乾いている鉢だけに、少しずつ。水が受け皿に溜まらないように気をつけた。葉についた埃を柔らかい布で拭いた。ポトスの伸びすぎた蔓を切り、水に挿した。
切られた蔓は、透明な瓶の中で根を出し始めていた。
切られても、生きるのか。
俺はそれを見て、羨ましいような、腹立たしいような気分になった。
自分もそうなれるとは思わなかった。
でも、根が出る様子を毎日見ることはできた。
それだけはできた。
ある朝、窓を開けると冷たい空気が入ってきた。向かいの家、怜の部屋のカーテンは開いていなかった。怜はもうそこにはいないのかもしれない。いても、俺には関係ない。
関係ない。
そう言い聞かせるたびに、胸の奥が少し痛んだ。
痛みがあるうちは、俺はまだ人間なのだと思った。
完全な植物にはなれない。
それでも俺は、観葉植物として生きていくと決めた。
誰かの部屋を飾るためではない。誰かに綺麗だと言われるためでもない。自分の弱さを正当化するためでも、本当はない。
ただ、今は動けないから。
根を張る場所がここしかないから。
光のあるほうを向くことくらいしか、できないから。
俺は床に座り、窓辺の葉を見た。
ポトスの新しい葉が、また一枚開いていた。
薄い黄緑色の葉は、まだ柔らかく、傷つきやすそうだった。けれど確かに開いていた。誰に見せるためでもなく、誰に選ばれるためでもなく、ただ自分の速度で。
俺はその葉に触れなかった。
ただ見ていた。
喋らず、求めず、奪われず、奪わず。
人間として弱者男性になってしまった俺は、せめて観葉植物のふりをして、今日も光のほうを向く。
それが生きることなのか、枯れるまでの猶予なのかは、まだわからない。




