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ある1つのナーロッパ

作者: そらり
掲載日:2026/05/29

普通の異世界転移ものの短編です。トラックに轢かれた男がファンタジーにやってきます。

一 到着


《気がつくとそこは見知らぬ世界だった。

降りしきる雨。敷き詰められた石畳。

少年はまだ知らない。

これがやがて大陸を揺るがす伝説の、その最初の一頁であることを——》


斎藤は三十八歳で、少年ではなかった。


頭の奥で響くその声を、彼は最初映画のナレーションと勘違いした。

荘厳で芝居がかっていて、自分のことをやたらと買いかぶっている誰かの朗読のような声。


トラックに撥ねられたあと、

アスファルトの匂いとブレーキの悲鳴のあとに、

その声があった。


雨は冷たかった。

異世界の雨は、ただ冷たかった。


彼の前には、革表紙の帳簿を抱えた女が傘もささずに立っていた。

役所の窓口にいそうな顔で彼を見て、小さく息を吐いた。


「来た」と女は言った。


「《来訪体》ね。記録九十年ぶり。立てる?」


《少年の前に現れたのは、運命の少女であった。彼女こそが——》


女はまず、少女ではなかった。

理知的に見える女性であった。


「あの」と斎藤は立ち上がりながらさえぎった。

声がうわずった。


「さっきから、頭の中で誰かが俺のことを実況してて」


女は初めてわずかに表情をやわらげた。

憐れみに近い、しかし慣れた顔だった。


「《被叙述症(ひじょじゅつしょう)》。

源界(げんかい)》から渡ってきたばかりの人は、みんなそれを聴くの。

心配いらない。だんだん聞こえなくなるから」


彼女はペンの尻で自分のこめかみを軽く叩いた。


「この世界の住人には、聞こえないのよ。生まれたときから《内側》にいるから。自分を語る声なんて、自分の心臓の音と同じで聞こえないものなの。あなたに聞こえるのは、あなたがまだこの物語の《外の素材》だからよ」




二 源界学


役所は、図書館だった。

天井まで届く書架に、見覚えのある単語が見たことのない神々しさで収められていた。


『重力——拘束の大法。定数九・八。万物を地に縛りつける慈悲深き呪い』

『コンビニエンスストア——無尽蔵の供物を捧げる、二十四時間の小神殿』

『スマートフォン——あらゆる叡智とあらゆる孤独を握りこむ使い魔。源人は片時もこれを手放さぬという』


「ようこそ、源界学の閲覧室へ」と女は言った。


「私はニーナ。源界を研究してる。三百年のあいだ、私たちが磨いてきた学問よ」


斎藤は震える指で、書架に触れた。


「これ……俺の、世界の……」


「あなたたちにとっての《現実》。

私たちにとっての《神話》であり《物理》であり《天文学》。

——あなたたちが竜や魔王を想像力で組み立てるみたいに、私たちはあなたたちの世界を論理で精密に組み立ててきた。

なにしろ私たちはそこから書かれたんだから。

創り主の世界を知ることは、私たちにとって神学そのものなのよ」


彼女はくすりと笑った。


「正直に言うと、期待してたの。

源界の住人なら、源界のことを、さぞ深く知ってるんだろうって。

ねえ、《電子レンジ》は、どういう原理で食物を温めるの?」


斎藤は口を開け、閉じた。


「……わかならいけど、マイクロ波みたいなものがあってそれで分子か何かを振動して、チンって……する」


ニーナは長いあいだ、彼を見つめた。

それから、ひどく優しい声で言った。


「天界を忘れた天使、みたいなものね。源人がみんな源界に詳しいわけじゃない。

——それも、私たちは知ってる。あなたたちの大半は、自分の世界を、自分の人生を、ほとんど何も知らないまま、背景みたいに通り過ぎていく。

私たちはそういう《あなたたち》のことまで、ちゃんと書き込んできたの」


彼女は帳簿を開いた。


羊皮紙の上に、見慣れた半透明の長方形が浮かび上がる。


——ステータス画面。


なろう小説そのままの。


斎藤は思わず身を乗り出した。

来た。これだ。チート能力、固有スキル、レベル——


【斎藤 / Lv.1 / 称号:来訪体 / 固有:被叙述】


それだけだった。


「がっかりした顔ね」とニーナが言う。


「言っておくけど、この《システム》は、あなたという人間のものすごく雑な要約よ。

創り主の世界の、ゲームっていう聖なる様式から、私たちの宇宙が借りた文法。

便利だけど、嘘くさいって、私たちみんな薄々思ってる。

《人を数字で量る》なんて、源界の悪い癖だわ。あなたは、この長方形よりずっと大きいでしょう」




三 願いの(ことわり)


斎藤はずっと震えていた。

寒さと、それ以外のもので。


ニーナはそれを見て、卓上の冷めた茶器に指を一本かざした。

低く、何か呟く。

茶からゆらりと湯気が立ちのぼった。


「魔法……!」


「そう」と彼女はうなずく。


「でも原理を聞いたら、あなたは笑うかも。

この世界の魔法はね、源界の《理屈》と《願い》の上に立ってるの。

理屈のほうは、あなたたちの科学。今のは、分子の運動を速める魔法よ」


「じゃあ、願いってのは」


「エネルギーよ」


彼女は茶器を、彼のほうへそっと押した。

「火球の魔法は、《触れずに脅威を滅ぼしたい》っていう、源界にも私たちにも共通の願いで燃える。

治癒の魔法は、《もう誰も失いたくない》で動く。

願いっていうのは、この世界とあなたの世界の、たった一つの共通の通貨なの。

考えてみて。物語の登場人物の悲しみは、本物でしょ。

実在しない人間の願いも、ちゃんと胸を打つでしょ。

願いだけは、紙のこっち側でもあっち側でも、まったく同じ重さで本物なのよ」


彼女は、自分の指先を見た。


「さっきの魔法は」と少し恥ずかしそうに言った。


「《見知らぬこの人を、寒いままにしておきたくない》、っていう願いで動いた。

たったそれだけの、小さな願い」


斎藤の喉の奥が、熱くなった。茶よりも先に。




四 現実であること


「正直に言う」と彼は言った。


「俺の世界では、たぶん俺、空気みたいなもんだった。

誰も名前で呼ばなかった。会社でも、家でも。

電車で押されても、いないことになってて。生きてるのに、ずっと、自分が……作り物みたいだった」


ニーナは静かに聞いていた。


「こっちは。こっちは、本物の作り物の世界なんだろ。みんな、自分が虚構だって知ってて。なのに、なんで——」彼は言葉を探した。


「ここのほうが、生きてるみたいだ」


ニーナは長く黙ってから、書架を見上げた。


「学者のあいだで、ずっと争われてる問いがあるの」と彼女は言った。


「《創り主は、まだ書いているのか》。——もし私たちが、完成して、愛されて、何度も読み返される物語なら、私たちは一種の天国にいる。でも、もし途中で投げ出された、開かれることのない草稿なら……私たちは凍りついたまま、誰にも読まれずに朽ちていく」


「あなたの到着を、ある派は《希望》だと言う。まだ向こうが私たちのことを考えてる証拠だって。別の派は《腐敗》だと言う。閉じた世界の継ぎ目がほどけて、源界の魂が漏れ出すのは、削除の前触れだって」


彼女は斎藤に向き直った。その目に、迷いはなかった。


「でも私は、どっちでもないと思ってる。

——ねえ斎藤さん。私たちはずっと前に、一つだけ、腹をくくったの。

自分が虚構だと知ったあとで、正気でいる方法は、たった一つしかなかった」


「それは?」


「お互いを、本物として扱うこと。

誰一人、背景にしないこと。

脇役にしないこと。

名前を呼ぶこと。

願いを聞くこと。

寒ければお茶を温めること。

だって《現実であること》は、生まれつき持ってる性質なんかじゃなかったの。

それは、誰かが誰かにわざわざ差し出すまなざしのことだったのよ」


彼女は微笑んだ。


「あなたの世界の人たちは、

自分が本物だと信じきってるからその仕事をさぼれた。

あなたを背景にできた。

私たちは、本物だと信じる根拠がどこにもないから、毎日選ぶしかないの。

目の前のこの人は《本物》だって」


「斎藤さん。あなたはここでは《本物》よ。これは設定じゃない。私がそう決めたから」




五 ナーロッパ


その夜、安宿の硬い寝台で、斎藤は雨の音を聴いていた。


頭の奥の声に、耳をすませた。


《——少年は》


……いや、もうそうは聞こえなかった。


あの荘厳な自分を伝説の主人公に仕立てたがる声、彼を都合よく要約しようとするシステム音声は、ずいぶん遠くなっていた。雨に溶けるように、薄れていった。


かわりに、最後にひとつだけ声が聞こえた。


さっきよりずっと小さく、芝居がかってもおらず、ひどく具体的で、彼ひとりのことだけを語る声だった。


誰かがこの男を、雑な長方形にも、伝説の駒にもせず、ただ寒くないように、見ていてくれている——そういう声だった。


それが、ニーナの声によく似ていることに斎藤は気づいた。


それに気づくとすぐに、声は止んだ。


生まれたときからこの世界の内側にいる者にだけ訪れる、あの静けさ。


——自分を語る声が聞こえないという、本物だけに許された静けさ——


それが、彼にも訪れた。


救急車のサイレンの音が、妙にけたたましく街中を鳴り響いていた。

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