【前日譚】夫婦という名の協力者、敵は令嬢
「夫婦という名の協力者、敵は令嬢」の前日譚です。
読んでいても読んでいなくとも楽しめるようにしたつもりです♪
セレスティア・フォン・アルベルン公爵夫人。
若くしてこの座に就いた私に、どれだけの苦難があり、胸を締め付けられる思いをしてきたのか。
それを知っているのは、私自身だけだ。
「セレスティア、次はこの帳簿の内容を覚えてください」
「……これを、すべてですか?」
「ええ、そうです」
私がアルベルン公爵邸へ迎え入れられて間もなく、公爵様、後に義父となる方からの徹底した教育が始まった。
「基本の礼法、レディーとしての必須教養は出来て当然。我が公爵家の系譜だけでなく、他の家門のものまですべて。完全に覚えてください。王国に居る誰よりも完璧になって頂かねばならないのです」
「公爵様……」
「セレスティアが公爵夫人となった時、必ず役に立ちます。どれだけ学んでも足りません。少しでも早く、この家を守れるようになっていただかなければならないのです。そして、まだ幼いあの子……ローレンスの力になってください」
男爵家の娘として育った私に、両親が求めたのは、口を閉ざし、人形のように微笑むことだけだった。
良い家に嫁ぎ、偉大な夫の背後で何も語らず、何も選ばず、ただ優雅に振る舞う女。それが私の役割であり、価値だと教え込まれてきた。
それだというのに、突如このような高等教育を受けることになるなんて。
「で、できません……。こんなに沢山の内容を一気に覚えるなんて、私……」
「できないのではなく、やるのです。大丈夫、貴女にならきっとできます」
その時のお義父様の声は、威厳に満ちていて冷たく、同時にひどく脆かった。
彼の目は酷く弱っていて、慈愛に満ちていた。それがもうすぐ自分の死を悟っているものだとは、到底思えないほどに不安定な目。
彼が恐れているのは、自身の死ではなく、たった一人の息子のこと。
私の両親に数十枚の金貨を渡して、私を買ったも同然なのに、彼は私にとても親切だった。
私は、お義父様を責めたことも、恨んだことも、一度だってない。
それは、彼が私にとても誠実で優しかったという事実と共に、息子であるローレンスを心から愛していたということを分かっていたからだ。
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
「奥様、こちらの書類を……」
「次はこちらにお願いします、奥様」
「そっちの書類には後で目を通すから、先にそっちを渡してちょうだい。急ぎのものから順番に行うから、並べておいて」
お義父様が亡くなり、公爵夫人の座に就いてから、早くも二年の月日が経ち。
私は十四歳になった。
お義父様の短期間の徹底的な教育のおかげで、私は公爵家のもう一人の主人として仕事をこなせていた。
もちろん、難なくとは言い切ることはできないけれど。
「うっ……!」
ふいに、こめかみの奥を鋭い痛みが貫く。
「奥様、大丈夫ですか?! もしや、また頭痛が……」
「だ、大丈夫だから、痛み止めを……」
「前も言いましたが、あの薬は奥様の歳では負担が多すぎるものです。そう多用されては……」
「分かってる、でも終わっていない仕事がまだ沢山あるし、今日は出かける用もあるから……お願い、早く……」
私の必死の懇願に、渋々了承したメイドはすぐに痛み止めを持ってきてくれた。
差し出されたのは、水色の飴玉ほどの小さな薬。
水と共にそれを飲み下し、しばらく机に伏せる。
やがて、あれほど煩わしかった頭の奥の痛みが、ゆっくりと引いていった。
代わりに残るのは、疲労と胸の奥に溜まる息苦しさだけ。
いつ頃だったか、ストレスと疲労が限界を迎えると片頭痛が起こるようになった。それも薬さえ飲めば収まるから、そこまで重要視していないが。
支度を済ませ、ダイニングへ向かった私は、出発の時刻までの間、新しく仕立てる予定のドレスのカタログに目を通していた。
すると、いつの間にそこに居たのか、背後から夫が声をかけてくる。
「どれも地味なデザインのものだな」
「ローレンス……あなたに社交界で流行りのドレスに興味があるなんて驚いたわ」
「詳しいわけではないが、お前にはもっと華やかで明るい色のものの方が似合いそうだと思っただけさ。同年代の令嬢たちでこんなに暗い色を着ているのも見かけないしな」
「ご令嬢の話でしょ? 私は彼女たちとは違うもの。公爵夫人として、見かけだけでも、少しは大人びた格好をしていないと……」
「大人になることと、大人に見せかけることは違うと思うが」
「……どうしてそんなことを言うのよ?」
「別に、意味なんてないさ。ただ、俺たちはまだ子供だってことさ。セレスティア」
「そんなこと分かってる、意味もないならあえて言ったりしないでちょうだい! 私だって必死にやってる。皆勝手なことばっかり言って、私だって好きでここに来たわけじゃないのに……」
「……お前にこの家の重圧を背負わせてしまって、心から悪かったと思ってるよ、セレスティア。ハッ、父上が何を考えてお前を連れてきたのか、やはり理解できないな」
踵を返して去っていくローレンスの背中。
扉が閉まったと同時に、私は床に膝を突いて、堪えていた涙を流した。
ああ、あんなことは絶対に言ってはいけなかったのに。
彼は、私を心配してくれる唯一の存在なのに……。
頭では分かっていても、高ぶる感情が収まってはくれない。
お義父様……なぜ私を選んだのですか? 大切な令息の結婚相手に、なぜ私なんかを?
何も持ちえない没落寸前だった男爵家の娘を、なぜこんな地位に就かせたのですか……。
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アルベルン公爵夫人としての重圧が、どれほど恐ろしいものなのか。
「幼い公子を丸め込んでしまえば簡単に公爵家が手に入ったのに……」
「あんな世間知らずの子供が公爵家の夫人の座に就くなんて……」
「男爵家の娘が、よくもまあ傲慢に……」
ドクン、ドクンと、心臓の鼓動に合わせるように、不愉快な声が頭の奥で反響する。
うるさい、うるさい……。
じゃあ、どうすれば良かったっていうのよ。
あの状況で、私はどうすれば良かったのかって訊いてるの!
心の中で叫んだところで、幻聴たちは当然のように答えを返さない。
会場の隅で壁際に身を寄せるように立っていると、先ほどまで貴婦人たちの輪の中心にいた、年若い夫人がこちらへ歩み寄ってくる。
……まあ、もちろん私よりは年上なんだけれど。
「うわあ、やっぱり噂は本当だったんですね! アルベルン公爵家の新たな若き夫人が、こんなにも人形のように可愛らしいお方だったなんて!」
これは、どういう意味合いで言っているのだろう。
でも、彼女の淡い水色の目には悪意は宿っていない。
周囲からひしひしと感じていた、あの刺すような敵意も彼女からは感じ取れなかった。
彼女なら、この社交界で友人になってくれるかも……。
「ローゼンフェルト伯爵の妻、リリアン・ローゼンフェルトが可憐なる公爵夫人にご挨拶申し上げますわ」
ニコッと愛らしく微笑んだ伯爵夫人はそう言うと、私に向かって優雅なカーテシーを披露した。
「ごきげんよう、伯爵夫人。セレスティア・フォン・アルベルンです。そう言っていただけて嬉しいですわ」
「当然ですわ。だって、首都の話題の中心にいらっしゃる方ですもの!」
「あ、あはは……それは、その、良かったです」
「それにしても、予想以上でしたわ」
「ほ、褒めすぎですよ、リリアン様……私なんて、そんな……」
少し照れたように笑った私を、リリアン様はじっと見つめていた。
先ほどまでの朗らかな微笑みを、貼り付けたまま。
「謙遜されることはありません。事実、本当に予想以上にマヌケなお方だったんですから」
「……えっ?」
「言葉の意味が分からないのですか? あの没落寸前の男爵家の娘が公爵夫人になったっていうから、どれほど聡明な方なのかと思っていたら、ここまでマヌケな方だったなんて。予想以上にガッカリですよ。公爵夫人」
……愚かな期待を抱いた私がバカだった。
伯爵夫人の言う通り、期待などしてしまった私が悪いのだ。
こうして、ありもしない希望をほんの一瞬でも抱いてしまったから。
両手を強く握りしめて、心を落ち着かせる。
大丈夫……私なら、大丈夫。
顔を上げ、リリアン伯爵夫人をまっすぐに見据えた。
「そういう伯爵夫人は、私に対して無礼な真似を働くことに何の非も感じられていないようですね……」
「あら……突然豹変なさるのですか? まあ、私も同じことですけれど。こうして二人で話していれば、誰の耳にも届きませんもの」
「それを分かっていて、一人で私に会いこられたのですね。ですが、戯けたことを言うのは、その辺にしていただけますか? はっきりと言って不愉快です」
「……まあ、いいですわ。この辺にしておきましょう。ふふっ、これから社交界がますます面白いことになりそうですわね。是非またご挨拶に伺いますわ。ごきげんよう、公爵夫人」
ああ……悪意に押し潰されてしまいそうだ。
社交界の作法に則って動くことすら、今の私にはままならない。
敬愛なるお義父様。
もし、今の私を見ていたのなら、不合格だとでも言うのでしょうか?
アハハ、私を選んだことを今更後悔したって遅いんですよ。
元から私は不出来な人間なんです。どれだけ手間暇かけたところで、ダメなんですから。
その後、沢山の令嬢や貴婦人、紳士たちに挨拶をしたけれど、どれも建前上の言葉を口にするだけで私を品定めするような視線が不愉快で仕方なかった。
今になってようやく分かった。
お義父様が、私という駒を用意して、大切な息子を守ろうとした理由が。
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
「ふう……」
静まり返った夜に、かすれた息が漏れた。
どれだけ堪えようとしても、涙も声も止まってはくれない。
ボロい屋敷で育ったせいか、辛いことがあるとクローゼットで泣く癖は未だに治っていない。
暗くて狭くて安心するのに、どこか不安に押し殺されてしまいそうになる。
両親の言い争う声、酒に酔った母が私をストレスの捌け口にするために行う暴力から逃げるために、隠れていたことを思い出してしまうから……。
うう、頭が痛い。苦しい、頭が割れてしまいそうだ。
助けて、誰か、この地獄から私を救い出して……!
「……ここにいたのか、セレスティア」
誰にも会いたくなくて、隠れていたはずだったのに。
戸が開き、差し込んだ月明かりが私を照らす。
そこに立っていたのは、私の夫だった。
十五歳になったばかりの、幼い子供。
それなのに……彼の姿を見ただけで、どうしてこんなにも安心するのだろう?
「帰ってきてから様子がおかしいとは思っていたが、何か嫌なことでもされたのか」
「……そんなんじゃないわよ、バカ」
「バカはどっちだ。ほら、出てこい。冬だっていうのに、暖炉の火まで消して……クローゼットなんかで寝たら寒くて凍え死んでしまうぞ」
私は口を開くことができず、ただ視線を伏せたまま動かなかった。
ローレンスは小さく溜息をつくと、有無を言わさず私を抱き上げると、クローゼットの中から引き出した。
そのままベッドに降ろされ、毛布をかけられて初めて自分の身体がひどく冷えていたことに気づく。
ローレンスは何も言わず、傍に置かれた椅子に腰を下ろした。
「無理に社交界に顔を出す必要はない」
「……そんなわけにはいかないわ。あなただって分かっているでしょう? いくらアルベルン公爵家だとはいえ、社交界で他の家と交流を深めなければ……」
「俺がすればいいだろ」
「……えっ?」
「お前は何もかも一人で抱え込みすぎなんだ。今思えば、夫婦は一心同体なんだと、俺に怒鳴りつけた頃のお前の方がまだ利口だったな」
「ど、怒鳴りつけてなんか……」
「そうして一人で泣かれるよりは、怒り狂って俺の頬でも殴りつけてくる方が余程マシだ」
ふっと笑みを零しながらローレンスはそう言うと、私の目を覆うように手を乗せた。
「ほら、もう寝ろよ。明日も早いんだろ」
「うん……ありがとう、ローレンス。おやすみ……」
「ああ、おやすみ。セレスティア」
抱きしめたり、手を握ったり、優しく甘い言葉をかけたり。
愛し合って結婚した夫婦たちが当然のように行うことを、私たちみたいな子供はまだ知らない。
だけど、ただ横に居てくれるだけで、私は一人ではないということを感じるだけで、私はとても幸せだった。
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
「んん……」
「起きたか、セレスティア」
次に目を開けた時、そこにいた彼は、もう、あの頃の少年ではなかった。
落ち着いて低くなった声音も、ずんと伸びた背も、私を見下ろす眼差しも、すべてが大人の男のものだ。
……なんだ、夢だったのね。
はあ……きっと、あの面倒な令嬢との一件のせいだ。
心身ともに疲れて、懐かしい記憶を引きずり出してしまったのだろう。
「ねえ、ローレンス。私、夢を見ていたの。遠い昔のことを……」
そう告げると、ローレンスはそれ以上何も訊かず、静かに私の髪を撫でた。
その仕草は、夢の中の少年とはまた違った優しさを持っていた。
あの頃の私たちは、互いに幼く、何も分からず、それでも必死だった。
そして今は……。
夢から覚めても、彼は私の隣にいる。
私は一人ではない。
その事実だけで、十分だ。
作った作品のキャラクターたちは全員大切で愛してるんですが、この2人はまたなにか特別な想いを感じています。また会えたらいいな。
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