20 記憶と荷物を落とした男
アスター視点です。
眠りから覚めるとき、アスターはいつも浮遊感を覚える。
「あだっ」
ごつんと、今日も側頭部が足より先に床と挨拶を交わした。
「いたた……今日もうっかりベッドから落ちてしまった……」
頭から落ちたアスターだが、痛みは左程ない。アスターが毎朝ベッドから落ちるのに気付いたフィストが、ベッド周りにクッションを敷き詰めてくれたおかげだ。
単純に寝相が悪いだけなら諦めも付くが、アスターのこれは寝相ではない。ベッドに残る布団は綺麗に整っていて、どちらかと言えば寝相はいい方だ。
これは、寝ぼけてベッドから降りようとして、何故か毎度どういうわけか足ではなく頭から落ちているだけである。本当にどういう事だ。
念の為首回りの違和感を確かめて、問題ないと判断して背伸びをする。うっかり自分の髪を巻き込んで引っ張ってしまったがいつものことだ。アスターは欠伸と痛みで涙目になりながら立ち上がった。転ばないように、壁に手を当ててゆっくり移動する。
カーテンからうっすらと朝日が溢れる、しんとした寝室を出て、居間を覗いた。
薄暗い居間から、二人分の寝息が聞こえた。
「今日は寝落ちの日か……」
ベビーベッドには、ふっくらした頬でスンッと表情を忘れた顔をして眠る赤子のルミネ。
その近くにあるソファには、だらしなくもたれるように腰掛けて眠る、フィストの姿があった。
フィストは時々、こうして居間で寝落ちをする。
夜泣きをするルミネをあやして、そのまま力尽きるのだ。
不思議なことに、フィストはどんなに遠くても、ルミネがぐずればとんでくる。あっけらかんと「泣いている気がした」というから、母親とはすごい。時々何もなくても飛んでくるから、鳴き声が耳に染みついてしまっているのかもしれないけれど。
とにかく、きっと今回も夜泣きで起きたのだろう。となれば睡眠時間が短いはずなので、まだ寝かせた方がいい。
アスターはそっと、フィストに膝掛けを被せた。息を殺して慎重に、起こさないよう心掛けて。
幸いなことに、フィストは起きなかった。それだけで、アスターは一仕事終えた心地になる。
何せ、フィストは魔王討伐に参加した英雄の一人。
他人が近付けば飛び起きて、迎撃できるほど寝起きから戦闘態勢に入るまでの間が短い。
アスターはうっかり者なので、何度か起こして吹っ飛ばされかけた。
だが最近は、こうして近付いても飛び起きることはなくなった。それだけフィストが、アスターに慣れたのだろう。
――当然だ。毎日一緒に寝ているのだから。
(いや、同じ部屋ってだけだけど)
それは、フィストとアスターが父親契約を交わした二週間前。
父親役として振る舞う事になり、村でもあっさりそう認識され、安心しきったアスターにフィストが言った。
「今日から一緒に寝るぞ」と。
アスターは取り込んだ洗濯物に足を取られてつんのめってテーブルの上を滑って向こう側に落下した。テーブルの上が片付けられていたのだけが幸いだった。
衝撃発言をしたフィスト曰く、ヤンデレ聖女が村の噂を信じてくれても、自分達が別々の部屋で余所余所しく生活していたら見抜かれるかもしれないからだった。
フィスト達が生活する家は、広くない。生活に必要な物が詰まった居間と、寝るだけの寝室。小さな物置と水場があるくらいだ。アスターはその小さな物置を、急遽部屋として使わせて貰っていた。毎回うっかり踏んだり蹴ったりしていた。
やっと会えた夫婦が、この狭い家で別々に寝起きするのは、確かにおかしい。
「お互い距離感あるからな。いつの間にかうっかりお膳立てが終わっているんだ。私達の態度でバレるのは避けたい! 遠慮するな!」
「うっかりかぁ」
「マジでうっかりだ」
腹を括ったフィストは大変逞しかった。身分的には不審者を抜けきれない男と同衾なんて、と警戒心を語りたかったが、父親契約を交わしてしまっているのでフィストの言い分が正しかった。
「大丈夫だ襲いかからねぇよ」
「自分の心配をして!?」
「お前こそ自分の心配をしろよ」
とても呆れられたが、一般的に心配されるのは男より筋力のない女性である。
アスターがフィストに勝る筋肉を持っているのかと聞かれたら、ないが。
その日から、二人は同じ部屋で寝起きしている。
(本当に遠慮しなくなったもんなぁ)
簡単に身支度をして、銀髪を括る。朝食の用意をはじめながら、アスターは遠い目をした。
(前から警戒心を持てって訴えるくらい無防備ではあったけど、一応線引きはあった……でもそれがなくなって、始まったのが……行ってきますと、ただいまの……)
抱擁だ。
はじめてされたときは心臓が口から飛び出るかと思った。
しかも、始まったのはそれだけではない。
(朝起きたらお互い寝癖のチェック。食事はなるべく一緒に。気になったことはすぐに聞く。困ったらすぐ頼る。寝る前に……)
危ない。うっかり指を切るところだった。
アスターはむぐむぐと唇を動かして、深く息を吐いた。
(寝る前にもぎゅー……)
はじめてされたときは試されているのかと思った。全くそんなことはなかった。
子持ちの女が、夫でもない相手に何故あれだけスキンシップが取れるのか。浮気か。誘われているのかと邪な思考は真剣な顔で抱擁するフィストの姿を見て飛んでいった。
(多分あれは全部、フィストの両親がしていた事、なんだろうな)
時々、行動する前に考えるから。何かを思い出すように視線を逸らすから、親のしていた夫婦の形を再現しているのだろう。
家族の仲良いな?
あまりにも多いスキンシップに、思わずそう思った。
夫じゃなくて父親が欲しいと言ったフィストだが、ヤンデレを完璧に騙す為には夫婦に見られることが重要だ。だから、自分の知っている夫婦を参考に行動している――夫婦のモデルケースが自分の親になるのは、自然な事だ。
(でも本当にそれでいいのか??)
ヤンデレを欺く為とはいえ、大変熱烈な新婚夫婦みたいになっている。フィストは気付いているだろうか。いなさそうだ。
かといって、世間一般の夫婦が家の中でどう過ごしているかなんて、アスターにもわからない。
何せアスターは、まだ自分の名前も思い出せない。
勿論、自分の親の事も、思い出せていない。
――アスター最初の記憶は、冷たい水と熱い体温。
ずぶ濡れで自分を覗き込む、女。
『お、おい大丈夫か?』
露出の高い格好と自分に跨がる姿勢に驚いて悲鳴を上げてしまったが、印象に残るのは心配そうに覗き込む、琥珀色の目だった。
記憶がないと気付いてからの不安は、暗闇に一人取り残された孤独感に似ていた。
自分が立っているのか、浮いているのかもわからない。前後左右どちらに進めばいいのかもわからない。縁にできる物を持たず、見えない足元の砂が落ちていくような、そんな焦燥感に目眩がした。
呆然としていたアスターの手を引いたフィストには、本当に感謝している。
家事は壊滅的……というほどではなかったが、苦手だろうに世話を焼いてくれたのも感謝だ。孤独感に震える中での他人からの親切は、とても染みた。
その後、本格的に世話になる……住み込みで働かせてくれたのは、本当に頭が上がらない。
と、思っているのだが、どうやらフィストは世話をしているのではなくされているつもりらしい。
確かに家事全般はアスターが担っているが、それが仕事だ。しかも任せっきりにせず、手が空いたら自分も参加している。修行だと真剣な顔をして、とてもゆっくり鍋をかき混ぜていた。しかし火元は強火だった。
とても世話になっているし頼りになる人だが、隙があって目が離せない。
フィストが近くにいると、安心する。記憶を失ってすぐに見た人だから、刷り込みが入っているかもしれないが、とても安心できた。
フィストが仕事で外に出ている間は不安に苛まれるかと思ったが、そんな事はなかった。正確に言えば、それどころではなかった。
そんなこたぁ関係ねぇ!! とばかりに、ルミネが暴れまくっていたからだ。
アスター最初の記憶はそこから。
おっと……つまり記憶を失った原因は……?




