灼きついたキスシーン
「ラピス・ラノデーア! 俺はアニスと真実の愛に目覚めてしまった!
それに国のためには平凡なお前とよりもアニスと婚約した方が益がある!
よって婚約破棄を宣言する!!」
第三王子ウィリアムの声は、静寂を斬り裂く剣のように響いた。
人々が一斉にこちらを振り返り、耳を疑うようにざわつき始める。
アニスの使う魔術はすべて一級品。
対してラピス――自分はどれも及第点すれすれで、特筆してすごい魔術が使える訳でもない。
その差は、双子でありながら、生まれた日からの烙印のように語られてきた。
それ故アニスからはいつも暴力を振るわれているのだが……。
「お姉様ごめんなさい……っ。わたくし、ウィリアム様を愛してしまったの!」
アニスは涙を一粒零しながら、しかしどこか誇らしげに胸に手を当てて言った。
その声はよく通り、大広間の端にまで届いた。
「いいんだアニス、泣かなくても。
あのお荷物でもこれくらいはわかって身を引いてくれるさ」
王子の返答は、まるで用意されていた台本のように滑らかだった。
ラピスの胸の奥が、冷たい水を流し込まれたようにじわりと重くなる。
魔術の名家に生まれた双子の姉妹、ラピスとアニス。
だが姉であるラピスは、生まれたときから妹よりも魔術が劣っていた。
「お荷物」と評されることにも慣れていたが、ただひとり第三王子ウィリアムだけは、そんな自分でも受け入れてくれていると思っていた。
――だから、言われるがままに公務も手伝だったのに。
「──と、言うわけだ。なにか言い残すことは?」
大広間の視線がいっせいに突き刺さる。
友人どころか家族でさえ、今は誰一人として味方ではない。
夜会という華やかな舞台は、いつのまにか断罪の壇に変わっていた。
ウィリアムがアニスの腰に手を回し、そのままゆっくりと顔を寄せる。
二人がキスを交わした瞬間、周囲からは驚きではなく、祝福めいたざわめきが起こった。
まるで観劇のキスシーンが流れているようだった。
ラピスには、二人がなぜここでキスをしているか理解できない。
ただ、その光景はなぜか鮮烈にラピスの脳裏に灼きつき、離れなかった。
「あっ! そういえばウィリアム様、あのウェルダムが嫁を欲しているとおっしゃっていませんでしたか?」
アニスが無邪気に問いかける。
だがその声音は、どうしようもなく甘やかで、残酷だった。
「そうだな! ラピスには、獣の国ウェルダムへ嫁ぐことを命じる!」
王子の宣告が、まるで鉄鎚のように降り下ろされる。
ラピスの背筋を風が通り抜けたように冷たさが走った。
獣の国ウェルダム――獣人族が暮らす、遠く乾いた地。
そこに嫁がされるということは、事実上の追放とほぼ同義だ。
それでも、ラピスは崩れ落ちることはしなかった。
「……承知いたしました」
静かに頭を下げたその声は、震えているはずなのに、どこか透明で澄んでいた。
夜会が続く中、ラピスは音もなく会場を後にした。
王城を出るまでの廊下は長く、窓の外には冷たい夜風が吹きすさんでいる。
だが心は不思議と凪いでいた。
その足で家へ戻ると、すぐに荷物をまとめた。
手伝ってくれたのは、ごく小数の、本当にわずかな味方と言える使用人たちだけだった。
最後に深く頭を下げ、ラピスは小さく息を吸うと、夜の静けさの中へ足を踏み出した。
◆
獣の国ウェルダムの皇城は、石造りでありながら温かな空気に満ちていた。
人族の城とは違い、壁には毛皮や大きな武具が整然と飾られ、力強さと威厳を宿している。
その中央でラピスは、今にも胸が跳ね上がりそうな緊張と、奇妙な安心の入り混じった気持ちで立っていた。
「事情は聞いている。ようこそ獣の国ウェルダムへ」
低く、響くような声が降ってくる。
姿を現した皇太子レオは、近づくだけで空気が揺らぐほど大きな体躯だった。
黄金の瞳は野生の輝きを帯びているのに、不思議と優しい温度を含んでいる。
「まあ、温かく迎えてくださりありがとうございます」
ラピスがそっと差し出した手を、レオの大きな掌が包み込む。
その瞬間、思わず「大きい……もふもふだなぁ……」と胸の内でつぶやいてしまった。
手の甲を覆う柔らかな毛並みの感触に、心の緊張が少しずつ溶けていく。
痛いのは怖い。
それだけがラピスの苦手なことだった。
けれど、この国では概ね好待遇で迎え入れられている。
その事実だけで、胸がじんわりと温かくなる。
今夜はラピスを歓迎するために大きな宴が開かれた。
豪快な肉料理と力強い歌声が響きわたり、獣人たちは陽気に杯を掲げる。
その最中、レオは周囲に負けないほど堂々とした声でラピスを紹介し、その横顔には確固たる覚悟が宿っていた。
突然寄越された花嫁を、きちんと「妻として愛する」覚悟がもう決まっているという。
この数日の間に?
と驚いたが、それが獣人たる豪胆さなのだろうと腑に落ちた。
彼らは強い者が好きだという。
レオの誠意に、ラピスもきちんと応えたい。
妻として振る舞う以上、絶対にレオの好みの女性になるぞ、と静かに拳を握る。
三食昼寝付き。
清潔な寝所。
美しいドレス。
どれもが、人の王族以上の待遇である。
けれどラピスには、「置いてもらっている」という罪悪感もあった。
だから、得意分野で貢献しようと決めた。
幸い、夫婦としてレオとは上手くいっている。
四六時中そばにいることも嫌がられない。
むしろ、レオはつねに嬉しそうに耳と尻尾を揺らしている。
だから、強気に、しかし自然と距離を縮めていけた。
「……レオ様、ここの数字がおかしいです」
書類の束を前に、ラピスは眉を寄せて指先で示した。
「なっ、どれだ?」
レオはあたふたしながら紙をめくり始める。
耳がしゅんと下がっているあたり、どうやら本気で困っているらしい。
どうやらレオは――いや、獣人たちは総じて書類仕事が苦手なようだった。
ラピスはため息ではなく、ためらいのない手つきでペンを取る。
さらさらと走る線。
ウィリアムから押し付けられていたおかげで鍛えられた技術が、今ここで役に立つとは皮肉である。
「ふふ、使われるお金が莫大なのに、これほど管理が杜撰とは驚きですわ」
少し言葉が強かったかもしれない。
だがレオは逆に、ふっと目を細めて笑った。
「はは……っ 初日に見た儚い姫君はどこに行ったのやら」
そんなふうに思っていたのかと驚きつつ、胸の奥が温かくなる。
「どんな私も、あなたのものですよ」
言葉と共にそっとキスを一つ贈る。
レオは一瞬驚いて目を瞬かせ、それから眉尻を下げて軽やかに笑った。
その仕草は、大きな獣のようでいて、なぜかとても愛おしい。
「どうやら私は伴侶に恵まれたようだな」
「ええ、それに関しては癪ですが、ウィリアム様のおかげですね」
その名を出した瞬間、レオの表情がさっと曇った。
「レオ様?」
「……私の前で、他の男の名前を出さないでくれるか?」
その声音には、嫉妬とも独占とも取れる熱が混じっていた。
ラピスは困ったように笑いながら、愛しくなってしまう自分を自覚した。
◆
澄んだ朝の空気が広い演習場を満たしていた。
獣の国ウェルダムの軍事演習は、人族の軍と比べればあまりに迫力が違い、地面そのものがかすかに震えるほどだ。
ラピスはレオの隣で、緊張とわくわくが入り混じる心持ちでその光景を見つめていた。
「本日はレオ様とラピス様がいらっしゃっている!
くれぐれも、情けない姿は晒さないように!!」
「「「「はっ!」」」」
その声は天まで突き抜けるように響き、兵士たちが一斉に背筋を伸ばした。
その動きはまるで一つの大きな獣が息を合わせて動き出したようで、ラピスは思わず感嘆の息を漏らす。
「レオ様、嬉しそうですね」
横目で見れば、レオはまっすぐ視線を前に向け、耳が小さく揺れていた。
それは彼の上機嫌を示す仕草である。
「当たり前だろう?
限定的ではあるが、民の日々の集大成を見ることができるのだ。
ラピスに見せることができて、私は誇らしく思う」
その優しい低音に、すぐ側に控えていた軍人が感極まったように目を潤ませていた。
獣人は素直な生き物だと、ラピスはこの国に来てから何度も知った。
演習が進むにつれ、軍隊長や参謀がラピスに近づき、丁寧に状況を説明してくれる。
ラピスは祖国で得た知識を引っ張り出し、気になった点を提示すると、彼らは耳と尻尾を揺らしながら感心したように頷いた。
――知識を披露しても顔をしかめられない。
むしろ、嬉しそうに質問してくれる。
その事実だけで胸の奥がじんわりと満たされていき、ラピスは自分がこの国で活きているのだと実感する。
しかも皆、もふもふの耳と尻尾がついているのだから目の保養でもある。
「……ラピス、見過ぎじゃないか?」
レオが呆れたような小声で言う。
ラピスは悪戯心と愛情を混ぜた微笑を浮かべた。
「ふふ、私の心の中には愛しのレオ様しかいないのに?」
そう言って軽く撫でてやれば、レオは喉を鳴らし、気持ちよさそうに目を細めた。
本当に嫌なら振りほどける力があるくせに、彼は決してそれをしない。
しかし兵士たちは、微妙に視線を泳がせていた。
あまりにも堂々たる夫婦のいちゃつきに、どう反応していいか困っているのだ。
「ごめんなさいね? 今度お詫びも兼ねて、団にお肉を贈るわ」
ラピスの微笑みに、もはや誰一人として視線を向けてこなかった。
獣人にとって肉は最高の贈り物。誰も逆らえない。
と、その瞬間だった。
「あっ、危ない!!」
鋭い叫びが響き、ラピスの視界が一気に白く染まった。
演習場の奥――そこから、白いエネルギーの塊が線となってこちらに撃ち込まれてくる。
それは一直線で、避ける余裕などなかった。
皇族とその妻がいるこの場所に、魔術砲が飛んでくるなど、本来ありえない。
周囲の獣人たちが一斉に顔を青ざめさせた。
その中でただ一人、レオだけが吠えるような声を上げる。
「……ったく、だから気をつけろと言っただろうが!」
彼は迷いなく腕を前に突き出し、瞬時に魔術を展開した。
光が膜となって広がり、防壁が形成される。
ラピスはその術式を見て――胸が冷たくなった。
――少し強度が足りない。このままじゃ、共々死んでしまう。
レオも分かっている。
だからこそ、苦悶の表情で歯をぎり、と鳴らした。
彼は咄嗟にラピスを突き飛ばそうと腕を伸ばす。
白い光線が迫る。
しかしラピスはその手を振り切り、逆にレオへ駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。
「なっ、離れろ! 死ぬぞ?!」
「いいえ」
共に死ぬのもいい。
だが――ラピスは、レオに生きてほしい。
「──補助魔術」
補助魔術だけは誰にも負けない。
その自負を胸に、ラピスはレオの防壁に重ねる形で魔術を展開した。
強度を上げる。
範囲を広げる。
そして、二人を包む球体の防壁が完成した。
次の瞬間、魔術砲が直撃し――世界が白く弾けた。
轟音と衝撃が過ぎ去ったあと。
「私は、レオ様と生きたいのです。
だから……もう突き放すなんてこと、しないでくださいね?」
粉塵が晴れ、えぐれた地面の真ん中に、ラピスとレオは立っていた。
二人を包んだ防壁だけが、そこに残っている。
祖国で重視されなかったラピス補助魔術――その力が、今まさに示された。
レオは呆けたようにラピスを見つめていた。
声も出せないほどに。
「だ、大丈夫ですか?! 皆、お二人を引き上げろ!」
「医療班! はやく!」
次の瞬間、現場は大混乱になった。
皇族夫妻に魔術砲が直撃したのだ。
騒ぎにならないほうがおかしい。
深い穴のようなくぼみからラピスが引き上げられ、タオルでぐるぐる巻きにされ、手渡された温かい紅茶をようやく一口飲んだ頃だった。
「ラピス様、先ほどの魔術はなんですか?」
「俺も知りたい! お願いしますラピス様!」
ローブを着た獣人の魔術師たちが、興奮で耳をぴこぴこ、尻尾をぶんぶん揺らしながら群がってくる。
「えっと……」
「おい、お前ら」
ずし、とラピスの頭に温かい顎が乗った。
レオだ。
ついさっきまで怒鳴り合いの処理をしていたはずなのに。
「ラピスは疲れている。
こんなこともあったのだし、ゆっくりさせてくれないか?」
優しい声だが、有無を言わせない圧があった。
魔術師たちは一斉にぴたりと動きを止めた。
「レオ様、ありがとうございます」
「ああ、こっちは終わった。そろそろ帰ろうか」
レオが差し出した手を握り返しながら、ラピスは思う。
――今度、術式くらいは教えてあげてもいいかもしれない。
城へ戻る途中。
「……今夜は覚悟しておくように」
耳元をくすぐる低い声。
最近、毎日のように求めてくれる。
熱を帯びた囁きに、ラピスは思わず頬を赤くした。
◆
一方アニスは、焦りで胸を締め付けられていた。
かつては「天才の妹」と呼ばれ、国中が憧れた自分たち。
けれどラピスが獣の国に嫁いで三ヶ月——その間に、アニスが扱える魔術は、驚くほどの速度で落ちていった。
最初は周囲に「姉が心配で……」と白々しい理由を並べていたが、もはや誰も信じない。
それどころか、かつての取り巻きたちは露骨に視線を逸らし、アニスの魔力低下を囁き合う始末だ。
(そんなはずない……。わたしは天才なのよ。
お姉様よりも優れているって、みんな言っていたじゃない……!)
だが、現実は残酷だった。
ラピスがいなくなった途端に魔術が使えなくなった——その事実を認めることが、アニスには何より耐え難い。
だから、アニスは嘘を作った。
必死に、縋り付くための物語を。
◆
「実は先日こんな書物が見つかったのです……」
静かな執務室。
書類の山に囲まれ、疲れた表情のウィリアムが顔を上げる。
アニスの腕の中には、いかにも胡散臭い古書が抱えられていた。
表紙は古びているが、わざとらしいほど清潔で、扱い慣れていない手つきでそっと開かれる。
「『双子の魔術師は互いに必要な存在であり、
片方が欠けると双方の能力が著しく低下する』、と」
アニスは女々しく、甘い声音を作り、ウィリアムの袖にそっと触れる。
いつも彼が好んだ、弱々しくすがりつく仕草だ。
「そ、そうなのか……? 俺はなんてことを」
ウィリアムは驚愕し、青ざめ、額に手を当てる。
彼は今アニスが受けている扱いを知っていた。
アニスは心の中でほくそ笑みながら、しかし表情だけは痛ましげに歪める。
「いいえ、ウィリアム様はわたくしのためにお姉様を追い出してくれたのですもの。
責めることなんてできませんわ」
さも、自分は弱く儚い女だと言わんばかりに。
本当は、家でラピスを泣かせ、暴力を振るっていた本人であるにもかかわらず。
「では連れ戻すか。……もう反省しただろうしな」
「ええ! 臆病な姉のことです。
今頃きっと音を上げているに違いありませんわ」
アニスの脳裏に浮かぶのは、いつも怯えていたラピスの姿。
自分の怒りに震え、声も出せずに耐えていた姉。
ウィリアムは真剣な面持ちで頷いた。
「うむ、では使者を遣わそう」
アニスは勝利を確信していた。
◆
——しかし、一ヶ月後。
城門前に姿を見せた使者たちは、まるで戦場から逃げ帰ってきた兵のようにぼろぼろだった。
衣服は汚れ、額には冷や汗。
獣の国の圧に晒されたのか、今にも倒れそうな怯えた顔。
「俺はラピスを連れ帰れと命じただろう!?」
ウィリアムの怒号が、広い執務室に響き渡った。
使者は震え上がりながら膝をつき、声を裏返らせた。
「ひっ……その、レオ皇太子殿下とラピス様からは、
書状を持たされた後すぐ追い出されたのです!」
情けなく喚き、命乞いするように弁明する使者を、アニスは心の中で冷たく切り捨てた。
(無能ね……本当に何の役にも立たない)
しかし、その手元へ差し出された書状を開いた瞬間、アニスの表情は固まった。
「……なんですって?」
そこには、力強い筆致でこう書かれていた。
『我が妻ラピスは現在体調が悪く貴国に赴くことができない。
それ以前に、礼儀もなっていない貴国にラピスを返そうなど、我々は毛頭考えない。
しかし最低限の礼儀を弁えさえすれば、ラピスはお前たちに会っても良いと言っている。
我が妻の心の広さに感謝するんだな』
アニスの喉がひゅっと閉じる。
屈辱。
これはつまり——会いたければお前たちが来い、と書いてあるのだ。
「なんでお姉様が来ないのっ?! ちゃんとお願いしてるじゃない!」
怒りに声を震わせるアニス。
しかしウィリアムは書状を読み返し、突然手を叩いた。
「しかし……。
あぁ、そうだ! 赴く際は、俺たちの新婚旅行と考えればいいのではないか?」
その言葉に、アニスは弾かれたように顔を上げる。
「いいのですか! わたくし、オアシスでウィリアム様と泳ぎたいです!」
「いいだろう。新しい水着も買っていこうか」
アニスの顔は一気に輝き、ウィリアムも満足そうに微笑む。
二人は世界の中心に自分たちがいるかのように、幸福そうに旅行の計画を練り始めた。
——その横で、ぼろぼろの使者は悲哀のこもった視線を送っていた。
しかし、アニスもウィリアムも、その哀れな目に気づくことすらなかった。
◆
「大丈夫か? やはりあいつらとの面会は日を改めて……」
レオの低い声が、謁見の間の静寂をやわらかく揺らした。
ラピスは深く呼吸しながら、豪奢な背もたれのついた大きな椅子に身体を預けている。
外の強い日差しがステンドグラス越しに差し込み、ラピスの淡い髪を優しい色で包み込んでいた。
「いいえ、これでも今日は調子がいいのですよ?」
かすかに微笑むラピスの表情は穏やかだが、その瞳は鋼のように冷たく澄んでいた。
今日の面会がどれほど荒れるか、そしてどれほど醜態が晒されるか、彼女には完全に予想がついていた。
それでも——レオの隣で、毅然と向き合う覚悟はできている。
すでに指定の時間はとっくに過ぎていた。
それが余計にレオの怒りに火をつけている。
玉座の手前、控える近衛たちでさえ、獣人特有の鋭い耳と尻尾を揺らし、彼らを迎え撃つ準備を整えていた。
ラピスとレオは、この場の張りつめた空気とは対照的に、静かに談笑していた。
ふと見やる周囲の部下たちが、微笑ましいとでも言うように目元を緩める。
この国では、ラピスがどれだけ大切にされているか、誰もが知っているのだ。
――そのとき。
「──ウィリアム第三王子殿下とその婚約者、アニス様がご到着されました」
場を震わせる宣言とともに、謁見の間の空気が一瞬で変貌した。
冷たく、鋭く、まるで百獣が牙を剥く瞬間のように。
部下たちの視線が一斉に入口へ向けられた。
そうして現れたのは、腕を絡め合い、互いに酔いしれるような姿を晒しながら歩くウィリアムとアニス。
この国の礼儀をまるで無視するその態度に、ラピスは一瞬だけ目を細めた。
二人が目の前に立った瞬間、ラピスは緩やかに口を開いた。
「ようこそおいでくださいました。本日は何用で……」
「せっかく来てやったのになんだその態度は!」
ウィリアムの怒鳴り声が、鼓膜を刺すようにラピスへ降りかかる。
その瞬間、レオの耳がぴくりと痙攣した。
怒りを堪えている証拠だ。
「そんなんだから魔術もからっきしで、アニスに追いつけないのだ……。
しかし喜べ! 我が天使アニスは心を痛め、貴様に帰ってきてほしいと!
更にはこの俺の愛妾にしてやればいいと提案してくれたのだ!」
この期に及んでの身勝手な台詞。
ラピスの胸に広がるのは、怒りではなく——深い嫌悪と諦念だった。
(……私、こんな人たちに縛られていたのね)
アニスも負けじと続ける。
「そうよお姉様、ここでも酷い扱いを受けているのでしょう?
辛かったわね……。でももう大丈夫! これからはずっと一緒だから!」
謁見の間の空気はさらに冷え込み、近衛兵たちの拳は震えるほど握られていた。
荒事を好む獣人の国でさえ、礼節を重んじるこの場での暴言は許されない。
ラピスは、限界を悟り、小さく息を吸い込んだ。
「……申し訳ありませんが、私は貴国に帰れません。今後も、ずっと」
「なぜだ?!」
怒りと困惑を滲ませるウィリアムへ、ラピスは静かに答えを告げる。
「皇太子殿下……レオ様との御子が、お腹にいるのです」
ラピスがそっと腹を撫でると、レオは視線を柔らかく落とした。
最近の体調不良の原因は、まさに新しい命のためだった。
しかし——
「ははは! 獣と致したのか?
ラピス、お前も堕ちるところまで堕ちたものだなぁ!」
「汚らわし……。いえ、可哀想なお姉様……」
笑い声。嘲り。
子を侮辱された瞬間、ラピスの心に張りつめていた糸がきしむ。
だが彼女は怒りを見せなかった。
アニスの、あの言葉が飛び出すまでは。
「あ、じゃあお腹の子がいなくなったら、お姉様は帰ってきてくれるわよね?」
その言葉の意味を理解するまでに、一瞬の間があった。
だが次の瞬間、アニスは氷の刃を生み出し、ラピスへと飛びかかった。
謁見の間の空気が、裂けた。
──瞬間。
「……無事か? ラピス」
「えぇ。信じていました、レオ様」
レオの展開した強固な防御魔術が、氷を砕き消し去っていた。
ラピスは補助魔術を重ね、二人の魔力は完璧に噛み合っている。
正直、アニスの稚拙な魔術にそこまでする必要はなかったが……これが、この国の皇太子の威厳だった。
「衛兵、その者たちを捕らえよ」
レオはラピスの前に立ち、怒りを全身にまとった獣そのものだった。
「なっ、なんで?! いやっ……お姉様!」
「レオ様は来年戴冠される身。それは各国に発表しているわ。
だから、私のお腹にいるのは次期皇帝の御子なのよ? 当然じゃない」
アニスの伸ばした手は、兵に踏みつけられ、逃げ道は断たれた。
ウィリアムは焦りで顔を歪め、しどろもどろに叫ぶ。
「たっ、たすけ……。ラピス!
お前を愛妾に……いや第二王子妃にしよう! だからっ」
「そろそろ黙らないか?」
レオの声が、氷より冷たく落ちた。
気づけば彼はウィリアムの目の前に立っていた。
「ふむ……これがラピスを虐げていた第三王子か。思っていたより考えが浅いな」
ウィリアムの髪を掴み、顔を覗き込んで吐き捨てる。
そして——べしゃ、と地面に放り捨てた。
「こいつも連れて行け」
阿鼻叫喚が響く中、無様に引きずられていく。
叫び声は、獣人兵たちの重い足音にかき消された。
「ふふ、祖国の王にはどう説明しましょう?
まさか、バカンスに行った息子が問題を起こしているなんて、夢にも思わないでしょうね」
「あぁ、まったくだ」
アニスとウィリアムが消えていった扉を見送り、ラピスはほっと息をついた。
次の瞬間、レオに抱き上げられ、その膝へ優しく乗せられる。
「ウェルダムには世界屈指の軍隊がある。
もしラピスが望むなら、あの国に宣戦布告をすることも可能だぞ?」
「あら、それは楽しそうね」
ラピスは曖昧に微笑む。
獣人たちは血の気が多く、放っておけば本当に侵攻しかねない。
だがレオは外交も理解している。
最終的には、身柄の引き渡しと、関税の優遇あたりで交渉をまとめるだろう。
国はさらに豊かになるはずだ。
「……あっ、動いた」
小さく震える腹に手を当て、ラピスは驚きの声を漏らした。
振り返った瞬間、レオがそっとキスを落としてくる。
ラピスは息を呑んだ。
離れたレオの表情は、やさしく、熱く、真剣そのものだった。
「お腹の子ばかりずるいぞ」
そんな可愛いことを言うレオに、ラピスの胸は幸福で満たされていく。
「ふふ。もちろんレオ様のことも、愛していますわ」
ラピスの心に灼きつくキスは——これから先、いくらでも新しくなっていくのだろう。




