「発見という武器」
火曜日の朝。僕が目を覚ました時の、心と体にまとわりつく鉛のような憂鬱は、昨日よりもずっと軽くなっていた。 昨日、掴んだ勝利。そして、神田部長がくれた「座布団一枚」という言葉。 その余韻が、僕の心をまだ温めていた。
教室の窓から見える、ありふれた景色。休み時間に聞こえる、クラスメイトたちの他愛のない会話。 数日前まで、僕にとってただの背景でしかなかったそれらが、今は少しだけ解像度を上げて、色づいて見えた。 まるで、世界中が、面白いことのタネで満ちているような、そんな感覚。
授業中も、僕は自然と、いつもとは違う場所に目を向けるようになっていた。 (数学の先生、チョークの持ち方だけ、やけに上品だな…まるで指揮者みたいだ) (前の席の佐藤さん、シャーペンをノックする時に、必ず三回、カチカチカチって鳴らす癖があるな…) 僕の武器は「発見」だ。そう自覚した途端、僕の目は、今まで見過ごしてきた無数のディテールを、次々と拾い集め始めた。
放課後、僕はごく自然に山田君と高橋さんと合流し、三人で部室へ向かう。 昨日までの、どこか借りてきた猫のような心細さは、もうなかった。僕の足取りには、もう迷いがない。
「お疲れ様でーす!」 山田君に続いて部室に入ると、神田部長が、まるで待ち構えていたかのように、ホワイトボードの前に立っていた。
「おう、来たな」 彼は、僕の顔を見て、ニヤリと笑った。全てを見透かすような、挑戦的な笑みだった。 そして、今日のお題をボードに書き出す。
『うちの学校にだけある、誰も知らない校則を教えてください』
そのお題を見た瞬間、僕は息を呑んだ。 これは、まさに僕の武器である「発見」の力が試されるお題だ。ゼロから面白いことを生み出すのではなく、日常の中から面白い「事実(のような嘘)」を見つけ出す力が問われる。 部長は、分かっててこのお題を出したんだ。
「はいはい!俺から!」 いつものように、山田君が勢いよく手を挙げた。 「廊下は走っちゃダメだけど、スキップならギリ、セーフ!」 「それ、ただの願望でしょ」と高橋さんが笑う。
「じゃあ、次は私」と、彼女が続く。 「生徒手帳の最後のページに、すごく小さな文字で『先生にバレなければ、だいたい許される』と書いてある」 「ありそう!」と山田君が手を叩く。確かに、高橋さんらしい、皮肉が効いた答えだ。
そして最後に、神田部長がペンを置いた。 「年に一度、創立記念日にだけ、屋上の女神像が流しそうめんを振る舞ってくれる」
三人の答えに、部室がドッと沸く。 その笑い声が少しだけ落ち着いた頃、全員の視線が、自然と僕に集まった。 昨日とは違う、期待が込められた眼差し。
試されている。 僕の、新しい武器が。
心臓が、早鐘を打っている。でも、不思議と、嫌な感じはしなかった。 (校則…校則…。生徒手帳に載っていることじゃない。この学校の空気の中に、当たり前のように存在しているのに、誰も口にしないルール…) 僕は、自分の記憶の引き出しを、一つ一つ開けていく。 そして、思い出す。いつも、廊下の隅で、楽しそうに話している二人の先生。化学の田中先生と、古典の鈴木先生だ。でも、僕たち生徒や、他の先生が近づくと、二人は、ふっと他人行儀な顔になる。あの、一瞬の、不自然な空気。
――見つけた。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。 そして、静かに、でも、はっきりと口を開いた。
「……七不思議よりも有名なのに、七不思議にはカウントされない校則」
僕のその前置きに、三人が「お?」という顔になる。
「教員同士の恋愛を禁ずる」
僕がそう言うと、部室は一瞬、シンと静まり返った。 スベったのか…? 僕が不安になっていると、最初に声を上げたのは山田君だった。
「え、マジで!? あんの、そんな校則!?」
彼は、僕の答えを、完全な事実として受け止めていた。 それに、高橋さんが、悪戯っぽく笑いながら続く。
「…なんか、あったのかな。昔。化学の田中先生と、古典の鈴木先生とか、怪しいってずっと思ってたんだよね」
高橋さんの言葉に、僕は心臓が跳ね上がった。僕が思っていたことと、全く同じだったからだ。 そして最後に、神田部長が、満足そうに、深く頷いた。
「…面白い。ただの妄想じゃない。お前の『発見』から生まれた、説得力のある物語だ」 彼はそう言うと、少しだけ遠い目をして付け加えた。 「その校則ができたせいで、屋上の女神像は、今も初代校長のことを想い続けているらしいぞ」
部長のシュールな補足に、山田君と高橋さんがどっと笑う。
「見事だ、桜井」 神田部長は、僕に向き直って言った。 「座布団、二枚目」
その言葉に、僕は、今度こそ、胸を張ることができた。 活動が終わる。帰り道。 三人で歩く夜道は、もう、気まずいものではなくなっていた。 山田君と高橋さんの会話は相変わらずで、僕はまだ、聞き役に徹している。 でも、以前のような、見えない壁で隔てられているような感覚は、もうなかった。彼らの会話の隣に、僕の居場所が、ちゃんとある。そんな確かな一体感があった。
一人になって電車に乗り込む。 窓に映る自分の顔は、相変わらず冴えないけれど、その瞳の奥には、今までなかったはずの、静かな光が宿っている気がした。
(昨日の勝利は、偶然だったかもしれない。でも、今日は違う)
僕は、自分の手のひらを、ぎゅっと握りしめた。
(僕の武器は「発見」だ。僕は、僕の戦い方で、ちゃんと戦えたんだ)
それは、誰かに与えられた自信じゃない。僕自身が、自分の力で見つけ、掴み取った、確かな手応えだった。 胸の奥のカイロは、もう誰かに置いてもらったものじゃない。自分自身の熱で、静かに、しかし力強く、燃えているような、そんな感覚があった。 明日、部室の扉を開けるのが、少しだけ楽しみになっていた。




