「コミュニケーション」
「もっと、面白くなりたい」 そう思った僕の行動は、自分でも驚くほど早かった。
週明けの月曜日を待てず、僕は土曜日の午前中から、制服ではなくパーカーとジーンズという私服姿で、近所の市立図書館に来ていた。 参考書を広げて受験勉強に励む高校生たちに混じって、僕も机に向かう。しかし、僕が広げているのは、教科書や問題集ではなかった。 ずしりと重い、分厚い『動物図鑑』と、使い込まれた『ことわざ辞典』だ。
(部長の答えは、いつも飛躍している。僕に足りないのは、発想のジャンプ力だ。なら、全く関係ないもの同士を無理やり結びつける練習をすれば、何か掴めるんじゃないか…?)
これは、僕が僕なりに考え出した、真面目で、少しズレた特訓方法だった。 僕は、大喜利用のノートを開き、図鑑の写真と、ことわざを交互に見る。 例えば、ほとんど動かない「ナマケモノ」のページを開きながら、ことわざ辞典で「光陰矢の如し」という言葉を見つける。 そして、ノートに新しいお題を、鉛筆で書き込んだ。
『ナマケモノが「光陰矢の如し」と悟った瞬間とは?』
我ながら、悪くないお題だ。でも、問題は答えだ。 うーん……。 (昨日食べた葉っぱが、もう今日の分だった時…? ダメだ、硬い。僕の答えは、どうしても説明っぽくなってしまう)
神田部長なら、高橋さんなら、もっと面白い答えを出すんだろうな。 そう考えて、小さくため息をついた、その時だった。 不意に、頭上からふわりと影が差す。
「……桜井くん?」
聞き覚えのある、澄んだ声。 僕が弾かれたように顔を上げると、そこには、同じように私服姿の高橋栞が、少し驚いた顔で僕を見下ろしていた。肩からは、いかにも優等生らしい、綺麗なトートバッグが提げられている。
まずい。よりによって、一番観察眼の鋭い高橋さんに……!
彼女の視線が、僕の机の上に広げられた『動物図鑑』と、大喜利のお題が書かれたノートの上を、ゆっくりと往復する。 そして、合点がいったというように、彼女は少しだけ目を細めた。
「何読んでるの、そんなに真剣に……って、え、動物図鑑?」
その声には、からかうような響きはなく、ただ純粋な好奇心が満ちていた。 僕がしどろもどろになっていると、彼女は僕のノートに書かれた文字を覗き込み、ポンと手を叩いた。
「もしかして、お題考えてた?」
(あたらずとも、とおからず…!) 答えを、考えていたんだ。君たちみたいに、面白い答えを。でも、そんなこと、言えるはずもない。
「う、うん……」
僕が蚊の鳴くような声で肯定すると、彼女の目が、キラリと輝いた。それは、教室で見せる優等生の顔とは全く違う、面白いおもちゃを見つけた子供のような、無邪気な光だった。
「へー! どれどれ? なんかお題出してみて!」
彼女はそう言うと、僕の向かい側の席に、当たり前のように腰を下ろした。図書館の静寂の中で、彼女の行動だけが、やけに積極的で、輝いて見えた。 断れるはずもなかった。僕は、おずおずと、さっきまで自分が唸っていたお題を、指差した。
「……こ、これ、だけど…」
高橋さんは、そのお題を声に出さずに読むと、「ふーん」と面白そうに呟き、少しだけ宙を見つめた。 そして、ほんの数秒後。
「はい、できた」
彼女は、悪戯っぽく笑って、こう答えた。
「スマホの充電が、一日で3%しか減ってないことに気づいた時」
僕は、息を呑んだ。 (3%しか、ない…? いや、違う、「3%しか、減っていない」のか…!) その意味に気づいた途端、頭の中に、とてつもなくバカバカしくて、愛おしい映像が流れ込んできた。
一日中、ほとんどスマホに触らないナマケモノ。超スローモーションでSNSのタイムラインを1スクロールするのに、数時間かかってる。だから、バッテリーが全然減らない。完璧な答えだ。
悔しい、とか、恥ずかしい、とか、そういう感情よりも先に、純粋な「面白い」が、僕の思考を完全に支配する。 そして。
「……ふっ」
自分でも気づかないうちに、僕の口から、小さな笑い声が漏れていた。 静かな図書館に、それはあまりにも不釣り合いな音だった。
しまった、と僕は慌てて両手で口を覆う。顔から火が出るほど熱い。 「ご、ごめん! うるさくして……」 必死で謝る僕に、高橋さんは怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに微笑んでいた。
そして、綺麗な指を一本、そっと自分の唇に当てて、「しーっ」と悪戯っぽく笑う。
「ううん、大丈夫」
彼女は、本当に嬉しそうに、目を細めた。
「……そっか。今の、ちゃんと面白かったんだ」
その言葉は、僕が今まで誰かに言われたどんな褒め言葉よりも、深く、温かく、心に染み渡った。 気まずさではない、秘密を共有した共犯者みたいな、心地よい沈黙が僕たちの間に流れた。
やがて、壁の時計に目をやった高橋さんが、「あ」と小さな声を上げた。 「ごめん、もうこんな時間。私、そろそろ行かなきゃ」 彼女はそう言って、慣れた手つきで荷物をまとめ、静かに立ち上がる。
「じゃあ、また月曜日にね」
彼女は、僕にひらひらと手を振って、去り際に、こう付け加えた。
「――部室で」
その最後の言葉が、僕にとっては決定的な一撃だった。 それはもう、僕が来るかどうかを尋ねる言葉じゃない。僕が、当たり前にそこにいることを前提とした、仲間としての「約束」だった。
僕は、高橋さんの後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと動けなかった。 一人になった自習室で、自分のノートに目を落とす。そこには、僕が考えた、たくさんの「答え」が書かれている。
今まで、これは誰にも見せることのない、僕だけのものだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。 大喜利は、孤独な探求じゃなかった。 言葉を使った、コミュニケーションだったんだ。 僕の考えたお題で、誰かが笑う。誰かの答えで、僕が笑う。 その温かさを、僕は、生まれて初めて知った。