「もっと、面白くなりたい」
翌朝、目が覚めて一番最初に感じたのは、いつもと同じ、鉛みたいに重い憂鬱だった。 昨日のできごとは、都合のいい夢だったんじゃないか。
あの熱っぽい空間も、神田部長の言葉も、高橋さんの優しい笑顔も、山田君の温かい背中も、全部。 カーテンの隙間から差し込む光が、今日もまた退屈な一日が始まることを告げている。僕は、深いため息と同時に、ベッドから起き上がった。
でも、何かが少しだけ違った。
いつもの通学電車に揺られ、いつもと同じ窓の外の景色を眺めている時だった。胸の奥に、確かに昨日の温かさが、まだじんわりと残っていることに気づいた。まるで、誰かがこっそり置いていってくれた、小さなカイロみたいに。 夢じゃ、なかった。
僕は、カバンから例の大喜利用のノートを取り出す。パラパラとめくり、自分で考えたお題の一つに目が留まった。
『史上最低の視聴率を記録した音楽番組。司会者がエンディングで何と言った?』
いつもなら、このお題に対して、一人で答えを考え始めるはずだった。
でも、今日の僕は違った。
(このお題、山田君ならなんて答えるかな…。「歌より面白い司会者の話!」とか、元気に言いそうだ) (高橋さんなら、もっと意地悪な答えかもな。「視聴者の皆様、そして出演者の皆様、本日は誠にお疲れ様でした」って、ただ事実を述べて皮肉を言うとか…)
自然と、彼らの顔が思い浮かんでいた。 僕の孤独な遊びだったはずの大喜利に、初めて他人の声が混じり合う。それは、少しだけ不思議で、少しだけ、楽しい感覚だった。
教室のドアを開ける。いつもと同じ、グループで笑い合うクラスメイトたちの声。 一瞬、また元の世界に引き戻されそうになる。僕は、誰にも気づかれないように、自分の席へと向かった。
すると、教室の向こう側で友達と話していた山田君が、僕に気づいた。彼は、ニカッと笑うと「よぉ」とでも言うように、小さく片手を上げた。 驚いて固まっていると、今度は、クラスの中心で女子グループと談笑していた高橋さんと、一瞬だけ、目が合った。
彼女は、周りの友達には気づかれないように、ほんの少しだけ口角を上げて、こっそり僕にだけ微笑んでみせた。それは、昨日の帰り道に見せてくれた、優しい笑顔だった。
心臓が、トクン、と静かに鳴った。 夢じゃなかった。ちゃんと、昨日と今日は繋がっている。
放課後を告げるチャイムが鳴り響く。 いつもなら、僕は誰にも気づかれずに教室を出て、一人でまっすぐ家に帰るだけだった。 でも、今日、僕の足は、自然と、昨日とは逆の方向へ。 旧視聴覚準備室がある、あの特別棟へと向かっていた。
***
古い廊下は、シンと静まり返っている。 突き当たりにある、見慣れてしまった扉。『旧視聴覚準備室』。 僕は、その扉の前で、足を止めた。 心臓が、昨日よりもずっと大きく、そして速く脈打っている。
(本当に、入っていいんだろうか)
昨日は、部長に連れてこられただけだ。自分の意思で来たわけじゃない。 『また明日な』と言われた。教室で、合図もくれた。だから、来ていいはずだ。 頭では分かっている。分かっているのに、足が、指が、動かない。 ドアノブに伸ばしかけた手が、空中で固まる。
(もし、今日、また何も話せなかったら? もし、大喜利をやれと言われて、固まって、昨日よりもっと場の空気を悪くしてしまったら?)
昨日感じたあの温かい空気は、僕なんかがいなくても、元々あの人たちの間にはあったものなんだ。僕がそれを、壊してしまうかもしれない。 その恐怖が、鉛の足かせみたいに僕をその場に縫い付けていた。
「――何してんの、ドアの前で。地縛霊ごっこ?」
背後から、不意に声をかけられた。 驚いて飛び上がると、呆れたような、でもどこか面白そうな顔をした高橋さんが、僕の後ろに立っていた。
「た、高橋さん…! いや、これは、その……」
しどろもどろになる僕の言い訳を、彼女は聞く気もないようだった。 ふん、と一つ鼻を鳴らすと、僕の横をすり抜ける。
「はいはい、どいてどいて」
そして、僕がためらっていたドアノブを、彼女は一切の躊躇なく掴んだ。
「おじゃましまーす」
軽い挨拶と共に、ガチャリ、と扉が開かれる。 途端に、昨日と同じ、楽しそうな笑い声と熱気が、廊下にあふれ出した。 高橋さんは、さっさと部室の中に消えていく。 僕は、開かれた扉の前で、立ち尽くすしかなかった。
「――お、桜井じゃん! 来たな!」
高橋さんの後ろから、ひょっこりと顔を出したのは山田君だった。彼は僕が固まっているのを見ると、ニッと笑って僕の腕を掴んだ。
「なにしてんだよ、ドアマンのバイトか? ほら、入れ入れ!」
ぐいっと、思ったよりも強い力で引っ張られる。僕は、ほとんど転がり込むような形で、二日連続、このカオスな空間に足を踏み入れてしまった。 神田部長が、部屋の隅から引っ張り出してきたらしい、ほこりをかぶった地球儀をゆっくりと回している。
「…ふむ。やはり、オーストラリア大陸の形は、何度見ても面白いな」 「部長、それ昨日も言ってましたよ」
高橋さんが、呆れたようにツッコミを入れる。 僕がそのやり取りを眺めていると、神田部長が、ふと僕に気づいて、口元に笑みを浮かべた。 彼は地球儀を置くと、今度は棚から、使い古された木製のけん玉を一つ手に取った。 そして、次の瞬間。
「ほい」
そのけん玉が、僕に向かって、ふわりと投げられた。
「うわっ!」
僕は慌てて、両手でそれを受け止める。ずしりとした木の感触が、手のひらに伝わってきた。 神田部長は、面白くてたまらないという顔で、僕に言った。
「桜井。ウォーミングアップだ。そのけん玉に、お前が全く新しい名前をつけてやれ」
手のひらの、けん玉が急に重くなった気がした。 三人の視線が、僕に突き刺さる。 何か、何か面白いことを言わなければ。僕がここにいてもいい理由を、この一言で示さなければ。 昨日の夜、ほんの少しだけ手に入れた、あの温かい感覚を失いたくない。
頭の中を、言葉が嵐のように駆け巡る。 『孤独なボクサー』『無口な木魚』『三段ロケットの失敗作』… 違う、もっと気の利いた、もっと彼らが驚くような名前を。
焦れば焦るほど、思考は空回りしていく。 早くしないと、また沈黙が場を支配してしまう。また、高橋さんに助けられるのを待つだけになってしまう。 それは、嫌だ。
パニックになった僕の口から、ほとんど悲鳴のように、一つの言葉が飛び出した。
「…………じゅ、重心移動観測機……一号」
言ってしまった。最悪だ。なんで、こんなに硬くて、面白くもなんともない言葉が出てくるんだ…! 気まずい沈黙に、僕は俯いて、床の木目を見つめることしかできなかった。
「じゅーしん? なんだそりゃ、かっけえな!」 「…ふふ。真面目だね、桜井くんは」
山田君の純粋な感心と、高橋さんの楽しそうな笑い声。 そして、神田部長が、僕の手からそっとけん玉を取った。彼は、その「重心移動観測機」を、愛おしそうに眺めながら言った。
「悪くない。お前らしい、良い名前だ。……まあ、初めはそんなもんだ。少し、力みすぎなんだよ」
その言葉は、僕がずっと欲しかった答えそのものみたいに、まっすぐ心に届いた。 神田部長は、けん玉の玉の部分を指でそっと撫でた。
「……俺なら、こう名付けるかな。『孤独な宇宙飛行士の、唯一の友達』ってな」
雷に打たれたような衝撃だった。 僕が必死に探していたのは、クイズの「正解」。でも、部長がやったのは、世界を創り出す「創作」だった。
「よし、じゃあ今日はここまで」
神田部長がパン、と手を叩く音で、僕は我に返った。 帰り道、僕は一人、自分の手のひらをじっと見つめていた。 胸の中には、昨日の「温かさ」に加えて、自分の不甲斐なさへの「悔しさ」と、神田部長が見せてくれた圧倒的な世界への「憧れ」が渦巻いていた。
(もっと、面白くなりたい)
初めて、心の底から、そう思った。 昨日よりも少しだけ冷たい夜風が、火照った僕の頬に心地よかった。