「また明日な」
僕の呟いた「すごいです」という言葉は、夜の静けさが訪れ始めた部室に、思ったよりもはっきりと響いた。 その言葉を合図にするように、神田部長が「よし」と立ち上がる。
「じゃあ今日はここまで。戸締り頼むぞ、山田」 「うっす!」
山田君がこたつから勢いよく飛び出し、高橋さんはスマホで時間をチェックしている。さっきまでの熱狂が嘘のように、彼らは手際よく帰り支度を始めた。それは、僕が今までずっと遠くから眺めてきた、ありふれた「放課後」の光景だった。 僕も慌てて立ち上がり、隅に置いていた自分のカバンを手に取る。
「お先にー」 「お疲れ様でしたー」
カオスだったはずの部室は、あっという間に静まり返る。僕も三人の後を追うように、そっと扉を閉めた。
夜の学校は、昼間とは全く違う生き物みたいだった。 僕たちの足音だけが、月明かりが差し込む長い廊下にやけに大きく響いている。窓の外からは、運動部のかけ声がもう聞こえない。ただ、遠くから吹奏楽部が奏でる、少しだけ寂しげなメロディーが流れてきていた。
僕の少し前を歩く山田君と高橋さんの、弾むような声が聞こえる。
「あー、腹へったー! 大喜利すると頭使うからな! なんか食ってかね?」 「もう、山田くんは食べることばっかり。私はこの後、塾があるからパス」 「えー、マジかよ学級委員長は大変だなー」 「そういう山田くんこそ、明日の小テストの勉強しなくていいの?」 「うっ……」
僕がいつも教室の隅で聞いているような、他愛のない会話。 でも、その会話のすぐ後ろを、今、僕が歩いている。その事実が、なんだか不思議で、少しだけ足がふわふわするような感覚だった。
昇降口に着くと、神田部長が自分の下駄箱の前で立ち止まり、僕の方を振り返った。
「桜井」
「は、はい」
彼は、ニヤリと、何か企んでいる子供のような顔で笑った。そして、僕の肩を一度、強く叩いた。
「また明日な」
それは、入部するかどうかの意思確認でも、ましてや勧誘でもない。 まるで、ずっと前から決まっていたことみたいに、当たり前のトーンで言われた「また明日」。 僕が「あ、はい…」と、反射的に頷くのと、彼が「じゃあな」と昇降口を出ていくのは、ほとんど同時だった。
神田部長の背中が、夜の闇に消えていく。 後に残されたのは、二年生の僕たち三人。山田君と高橋さんの間に、僕が挟まれるような形で、駅へと続く道を歩き始めた。気まずい。気まずすぎる。
(始まった。きっと、僕の知らない芸人か、人気動画クリエイターの話だ。どうしよう、全く分からない…)
僕は、これから始まるであろう会話を予想して、心の中で身構えた。どうやって相槌を打てばいい? 分からないなりに、笑っておけばいいんだろうか。
しかし、沈黙を破った山田君の口から出たのは、全く予想しない言葉だった。
「なあ、高橋さん」 「ん?」 「さっきの部長の『モールス信号』の答えあっじゃん。あれって、なんで面白いんだろうな? 意味わかんねえのに」
その問いに、僕は思わず耳を疑った。 もっと、単純な感想を言い合うのだと思っていた。山田君が、大喜利の答えについて、真剣に分析しようとしている。
高橋さんは、少しだけ考えるように顎に手を当てて、静かに答えた。
「うーん……あれは、『意味』で笑わせるタイプの答えじゃないからじゃないかな」 「意味じゃない?」 「そう。『モールス信号』って言葉の響きの面白さと、口元だけ動かしてツーツートントンってやってるスパイを想像した時の『映像』の面白さ。意味が分かる笑いとは、使ってる回路が違うんだよ、きっと」
「へー、回路ねぇ……。奥が深いんだな、大喜利って! 俺もいつか、ああいうシュールな答え、出してみたいぜ!」
山田君は、心から感心したようにそう言った。
僕は、衝撃を受けていた。 違う。 彼らが話しているのは、流行りのお笑いじゃない。もっと、根本的な、「面白い」の構造についての話だ。 僕が一人で、ノートの上でずっと考え続けてきたこと。その答えを探すように、彼らもまた、真剣に言葉と向き合っている。 太陽みたいに明るい山田君も。完璧な優等生に見える高橋さんも。
ここは、ただ面白いことを言って騒いでいるだけの場所じゃない。 僕がいてもいい場所、なのかもしれない。
初めて、ほんの少しだけ、そう思えた。 僕たちの間に流れる夜の空気は、まだ少しぎこちないけれど、さっきよりずっと、温かく感じられた。
駅の改札が近づき、蛍光灯の白い光が僕たちを照らし出す。そろそろ、この不思議な放課後も終わりだ。そう思った時だった。
「桜井くんって、静かだね」
不意に、隣を歩いていた高橋さんが、僕の顔を覗き込むようにして言った。
「いつも、今日みたいに色々考えてるの?」
それは、からかうでもなく、純粋な興味から発せられたような、まっすぐな質問。 僕の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。 いつもの僕なら、ただ頷くか、「…はい」とだけ答えて、会話という名のシャッターを自分から下ろしてしまっていただろう。その方が楽だからだ。傷つかないで済むからだ。
でも、頭の中に、神田部長の言葉が蘇る。 『世界との対話』 さっき感じた、温かい空気。 僕の中で、何かが、ほんの少しだけ変わろうとしていた。
勇気を振り絞る。喉の奥から、声を絞り出す。
「……考えるのは、好き、です」
一度言葉が途切れる。でも、続けるんだ。
「口に、出すのが……苦手なだけで」
言ってしまった。 自分の内側を、ほんの少しだけ、他人の前に晒してしまった。 高橋さんと山田君の反応が怖くて、僕はキュッと唇を結び、俯いた。何か、変に思われただろうか。
「そっか」
聞こえてきたのは、想像していたよりも、ずっと柔らかい声だった。 おそるおそる顔を上げると、高橋さんが、少し驚いたように目を丸くして、でも、本当に優しく微笑んでいた。それは、教室で見せる完璧な笑顔とは、全く違う顔だった。
「だよな! 俺も口に出す前に忘れちまうこと、よくあるわ!」
山田君が、ニカッと笑って僕の背中を軽く叩く。その手は、思ったよりも温かかった。
ちょうど、改札に着いた。 「じゃあね、桜井くん。山田くんも」 「おう! また明日な!」
高橋さんと山田君が、ごく自然にそう言って、それぞれの方向へ歩いていく。 僕も「…また、明日」と、誰にも聞こえないような声で呟いて、一人、電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、夜の街が流れ始める。 窓に映る自分の顔は、相変わらず冴えない。 でも、空っぽだったはずの胸の奥に、小さなカイロをそっと置かれたような、そんな温かさがあった。