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「ようこそ、大喜利同好会へ」

僕の心のツッコミが終わらないうちに、例の上級生はためらいなくガチャリとドアノブを回した。


「ほら、言ったろ。面白いモンがある場所だって」


扉が開いた瞬間、むわりとした熱気と、スナック菓子の匂い、そしてインクと古い紙が混じったような匂いが僕の顔にぶつかってきた。


目の前に広がっていたのは、まさに「混沌」という言葉がふさわしい光景だった。 部屋の中央には家庭用のこたつが鎮座し、その周りには使い古されたソファや、誰が積んだのかジェンガみたいに傾いた漫画雑誌のタワー。


壁には『現状維持は、後退である。』という達筆な習字の隣に、なぜかアイドルの水着ポスターが貼られている。ここが学校の中だということを忘れさせる、無秩序なエネルギーに満ちた空間。


そして、その中心に、二人の生徒がいた。 一人は、派手な色のジャージを着た、快活そうな男子生徒。彼はホワイトボードを指差しながら、腹を抱えて笑い転げている。


もう一人は、少し着崩した制服が印象的な女子生徒だった。床に座り込み、膝を抱えながら、彼女もまた楽しそうに肩を揺らしている。その横顔に見覚えがあった。


同じクラスの、いつも品行方正な学級委員長、高橋栞だ。


僕と上級生の登場に、最初に気づいたのはジャージ姿の男子生徒だった。 彼は笑い涙を拭うと、目を丸くして僕を指差した。そして、ニカッと笑い、自己紹介よりも何よりも早く、大声でこう叫んだ。


「うおっ、誰か来た! よっしゃ、お題! 『こんな新入りは嫌だ!』…さあ、どんなやつ?」


シン、と一瞬だけ空気が静まり、すぐに高橋さんが「ぶふっ」と吹き出す声がした。


(『こんな新入りは嫌だ』。…来たか、定番中の定番)


ネットの大喜利サイトでも、部屋の机で広げたノートの上でも、飽きるほど考えさせられたお題だ。頭の中には、瞬時に十個以上の答えが浮かんで、そして消えていく。


でも、違う。今までとは決定的に違う。 目の前に、僕の答えを待っている人間がいる。しかも、皮肉なことに、お題は僕自身だ。 ノートの上なら、なんだって書けるのに。


上級生は、僕の頭がフル回転していることを見透かすように、面白そうに口元を緩めている。高橋さんも、期待に満ちた目で僕を見つめている。


完全に、アウェイだ。


頭の中では、練習用のノートに書き殴った何十もの答えが、猛スピードで明滅している。『嫌われる勇気が、最初からカンストしてる新入り』 『入部届けじゃなくて、退部届けから出してくる新入り』……違う、こんな小賢しい答えじゃない。


もっと、今の僕にしか言えない、正直で、情けない一言。 不意に、すっと頭の中に言葉が降りてきた。


(……入ってきて早々、部屋の隅で体育座りを始める新入り)


これだ。 今の僕が言える、唯一の答え。


面白いかどうかは分からない。


でも、嘘じゃない。 大丈夫だ、言える。


喉がカラカラに乾いている。心臓がうるさい。でも、言うんだ。僕は、ほとんど見えないくらい小さく息を吸って、乾いた唇を、わずかに開いた。


「ぁ……」


その、声にならない音が漏れた、まさにその瞬間だった。


「もう、山田くん。急にそんな無茶振りしちゃダメだよ。びっくりしてるじゃない」


凛とした、よく通る声だった。


高橋さんが、完璧な学級委員長の顔で微笑みながら、僕と山田くんの間に割って入る。その優しさに、全身を縛り付けていた金縛りが解けるように、僕は強張っていた肩の力を、抜いた。


助かった、と心のどこかで思う。


「ごめんね、新入りくん。気にしないで。私は高橋栞。よろしくね」


差し出された救いの手に、安堵する一方で、喉の奥に、言えなかった言葉の塊がずしりと沈んでいくのを感じていた。


あと一歩だったのに。


でも、本当にそうだろうか。 僕に向けられた高橋さんの目は、その優しい言葉とは裏腹に、全く笑っていなかった。


というか、むしろ「ああ、もうちょっとだったのに」と、面白いおもちゃを取り上げられた子供みたいに、少しだけ残念がっているように見えたのは、僕の気のせいだろうか。


高橋さんが割って入ったことで、僕に集中していた視線が少しだけ緩む。その空気を読んだのか、読んでいないのか、ジャージ姿の山田君が「あ!」と声を上げ、ガシガシと頭を掻いた。


「おっと、そうだった! わりぃわりぃ、俺は山田健太! よろしくな!」


太陽みたいに明るい笑顔だった。深く物事を考えない、良くも悪くも裏表のない人間の笑顔だ。彼は僕に手を差し出すでもなく、親しげにグッと親指を立てる。そして、続けた。


「で、お前は?」


一番シンプルで、一番逃げられない質問が来た。 僕は、もう一度、ほとんど見えないくらい小さく息を吸った。


「……さ、桜井です。桜井、誠」


蚊の鳴くような声だった。 自分でも呆れるほど情けない声量だったけれど、言葉は、確かに僕の口から放たれた。 その瞬間、今まで黙って僕たちのやり取りを監督みたいに眺めていた上級生が、満足そうにポン、と一度だけ手を叩いた。


「よし、じゃあ改めて」


凛とした声が、ごちゃごちゃした部室の空気を引き締める。彼は僕の目をまっすぐに見据えて、言った。


「桜井誠、ようこそ。ここは、俺たちが立ち上げた――『大喜利同好会』だ」


「よし、じゃあ改めて」


凛とした声が、ごちゃごちゃした部室の空気を引き締める。彼は僕の目をまっすぐに見据えて、言った。


「桜井誠、ようこそ。ここは、俺たちが立ち上げた――『大喜利同好会』だ」


大喜利同好会。 その言葉が、妙にゆっくりと、僕の耳に届いた。 僕が、部屋の机で、通学電車の中で、誰にも知られず一人で続けてきた、世界で一番面白いと思っている遊び。


その名前が、今、目の前の現実と、音を立てて繋がった。 興味がないわけがない。でも、同時に、強烈な違和感が僕を襲う。


僕にとって大喜利は、一人でやるものだった。ノートの上の自由な世界。スベることを恐れなくていい、完璧な孤独。


それが、僕にとっての聖域だった。


僕がそんな思考の海に沈んでいると、沈黙を破ったのは、やはり彼だった。 彼は、僕の葛藤などすべてお見通しだというように、面白そうに口の端を上げた。


「どうした、桜井。意外だったか? ……大喜利を、一人でやるもんだとでも思ってたか?」


核心を突く言葉に、僕は息を呑んだ。 返事なんて出来るはずがない。ただ、彼のまっすぐな視線から逃げることもできず、僕は幽霊みたいに、小さく、一度だけ頷いた。それが僕にできる、精一杯の肯定だった。 その頷きを、上級生は待っていたかのように受け止めた。


「だよな。お前の気持ちは、少しだけ分かる」


彼の声のトーンが、少しだけ穏やかになる。


「一人きりの大喜利は、自分との対話だ。誰にも邪魔されず、自分の頭の中だけで、どこまでも深く潜れる。面白いよな、あれは」


僕の孤独な聖域を、彼は否定しなかった。そのことに、僕は少しだけ驚く。


「だがな、桜井」


彼の声が、再び鋭さを取り戻す。


「俺たちがここでやっているのは、世界との対話だ」


(始まった。胡散臭い自己啓発セミナーみたいな勧誘だ…)


そう心の中で茶化そうとした、はずだった。 しかし、続く彼の言葉に、僕の思考は完全に動きを止める。


「お前の頭の中だけで完璧だった答えが、誰かの口から『面白い』って言葉に変わる。お前の捻り出した一言が、誰かの腹を抱えさせるほどの『笑い声』に変わる。――その瞬間を、知りたくないか?」


……茶化せない。ツッコミの言葉が、喉の奥で音にならずに消えていく。だって、それは――僕がずっと、心のどこかで夢見ていた光景、そのものだったからだ。


心臓を、鷲掴みにされたような衝撃だった。僕は、何も答えられない。 ただ、彼の言葉が、雷のように頭の中で鳴り響いていた。 僕と彼の間にだけ流れる、重くて、熱い沈黙。


それを破ったのは、意外にも高橋さんの、鈴が鳴るような声だった。 彼女は少し呆れたように、でもどこか楽しそうに呟いた。


「……また神田部長の勧誘トークが炸裂してる」


(部長…? この人が、ここの部長なのか)


その小さな呟きで、僕は初めて彼の名前と役職を知った。 高橋さんは僕がはっとしているのに気づくと、完璧な優等生の笑みを浮かべて続けた。


「桜井くん、だっけ」


僕がはっとして顔を上げると、彼女は完璧な優等生の笑みを浮かべていた。


「……無理にとは言わないけど、一度、私たちの大喜利を見ていかない? それから決めても、遅くないと思うよ」


それは、どこまでも親切で、僕に全ての選択権を委ねるかのような、優しい提案だった。 僕は、まるで操り人形のように、小さく頷いた。


その返事を見て、高橋さんは「よかった」と、今度は心の底から嬉しそうに微笑んだように見えた。彼女はこたつの空いているスペースを、ポンポンと手で叩く。


「さ、こっちに座って。特等席だよ」


(どう見ても、漫画タワーが崩れたら真っ先に下敷きになる一番危険な席だが…)


僕は、ほとんど無意識のまま歩き出し、漫画雑誌のタワーの隣、こたつの隅に、ちょこんと体育座りのようにして腰を下ろした。


すると、待ってましたとばかりに、山田君がホワイトボードの前に立つ。


「よし! じゃあ仕切り直し! 次のお題いくぞー!」


神田部長も、僕が座ったのを確認して、満足そうに頷いている。


目の前で、僕の知らない「放課後」が、始まろうとしていた。 僕はまだ、その輪の中にはいない。 ただの、観客だ。 それでも、そのカオスで、熱っぽい空間から、なぜか目が離せなかった。

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