第8話 ハルバン家の魔女⑤
朝の陽光が、ホールの高窓から差し込み、木製の床や食卓を淡く照らしていた。
クラリッサ、ユリウス、リディア、そしてマルタに扮したセラは、四人でひとつのテーブルを囲んでいた。
とはいえ、互いの間にはいくつかの椅子を挟んで、いつも通りの距離感を感じさせる。
朝食は、温められたパンにチーズ、そして薄められた赤ワイン。
セラは、手を動かすふりをしながら、それぞれの表情を一人ずつ静かに観察する。
やがて朝食が終わると、三人はそれぞれ言葉少なに立ち上がり、自室へと戻っていく。
セラも、部屋へ戻るふりをして立ち上がるが、その足はまっすぐ「ひとりの人物」のあとを追っていた。
誰にも気づかれぬように、足音を消し、廊下の影をなぞるように歩を進める。
その人物—— “魔女”が部屋の扉を開き、ゆっくりと中に入り、扉を閉じるのを目で確認する。
セラは、その扉の前で立ち止まり、背を壁につけて静かに息を潜めた。
時間をおくことで、対象がそれを口にするのを待つためだ。
そして数分後、セラは懐からナイフを握り直し、扉の取っ手に手をかける。
ゆっくりと、音を立てぬよう扉を押し開ける。
魔女は、窓から入り込む朝の日差しを浴びながら優雅に手ずから淹れたばかりの茶を何の疑念も持たず、口にしていた。
だが、室内のほんの僅かに変化した温度に、突然の訪問者に気づく。
魔女はわずかに肩を震わせ、手元のカップから数滴の茶を零した。
琥珀色の液体は、音もなく床の絨毯へと染み込んでいく。
「びっ……びっくりした……マルタだったのね……」
動揺した声でそう呟く魔女。
セラは部屋に一歩、足を踏み入れ、静かにその扉を閉める。
ナイフの切っ先が、わずかに陽の光を反射した。
——魔女の正体は、リディアだった。
「ど、どうしたの……マルタ? なにそれ、新しいお遊び? お遊びなら付き合わないわよ?」
リディアは無理に笑みを浮かべ、余裕を装う。
だがその視線は、セラの右手に握られた銀色から離れない。
セラは何も言わずに、ゆっくりと歩を進める。
ヒールの音が絨毯に吸われ、静けさが部屋を支配する。
リディアの喉がひくついた。
目が、わずかに見開かれる。
「……あんた……あんた、マルタじゃないわね……! 一体、何者なの!?」
リディアの声が跳ねるように上ずった。
だがその叫びが助けを呼ぶことはない。この部屋は他の部屋から離れた位置にあり、厨房やワインセラーにいる侍女たちにも届くはずがない。
ましてや、もうすぐ——毒が回る頃だ。
リディアは一歩、後ずさったかと思えば、足元を取られ膝をついた。
持っていたティーカップが手から溢れ、高い音を立てながら割れ落ちる。
「う……っ!」
喉の奥から異音が漏れ、次の瞬間——彼女の口元から鮮血が噴き出す。
それは赤黒く、絨毯の上に生温かく広がっていった。
セラは口元を歪め、ゆっくりとその頭のウィッグを外す。
「私は——魔女よ。……あんたを殺すために現れた、もう一人の魔女」
リディアはセラの姿を見上げたまま、目を大きく見開く。
その顔は青く、血の気が引いていく。
「……セラ? 魔女……? そ、そんなはずは……
そいつは、16年前に死んだはずじゃ……!」
震える唇から漏れたその言葉には、恐怖が混ざっていた。
血で濡れたその口元が、カタカタと震えながらも、セラを正面から見据える。
「まさか……あんたが……」
部屋の空気が、重く、死の気配を帯びて沈黙する。
「さて——質問をしましょうか。」
低く、湿り気を含んだ声だった。
セラはナイフを右手に握り、膝をつき倒れ込むリディアを見下ろしていた。
リディアは喉を詰まらせ、口元から赤黒い血を滴らせている。
だが、その瞳だけは、なお醜い感情に満ちていた。
「……なによ……その顔……」
震え声で言うリディアを無視し、セラは静かに問う。
「どうしてエレーネを殺したのか——聞かせてもらえるかしら?」
その瞬間、リディアの表情が険しく歪む。
噛み締めた唇の隙間から再び血が滲んだ。
「……そんなの……決まってる……!」
声は掠れ、震えながらも——
その奥には、抑えきれない激しい嫉妬の炎。
「憎かったのよ!あの女が!!」
床に手をつき、震える体を無理に支えながら叫ぶ。
「私は……何千年も……乗っ取りを繰り返して……美しい器だけを選んできた!
リディアの体を手に入れたのだって……そのため!
誰よりも美しく……誰よりも愛される存在になるために!!」
こぼれ落ちる涙は、悔しさと怒りの混ざった濁った光。
「それなのに……エレーネは……!
エレーネだけは……私より綺麗で……優しくて……誰からも愛されていた!
私がいくら努力しても、エレーネにはなれない……
そう思ったら……もう我慢できなかったの!!」
血に濡れた指で床を引っかきながら、リディアは続ける。
「だから……殺したのよ!私がなれないほどに美しい存在なんて、許せなかったの!」
セラは黙って聞いていた。
眉一つ動かさず、ただ冷ややかにその告白を受け止める。
それは全てにおいてセラの予想通りだった。
リディアは、菓子売りであったセラをハルバン家に招き入れ、セラが毒を盛ったとして濡れ衣を着せ、エレーネを殺した。
魔女の魔法の本質である《殺しの魔法》と《乗っ取りの魔法》これら二つを使って乗っ取りを成功させるはずが、リディアは、《殺しの魔法》しか使っていなかった。
最初から最後まで、リディアが魔女だった。
そんな、リディアのエレーネ殺害の根本にあったのは魔女の生存の合理性に反する——嫉妬。
だが、それはあまりにも、セラにとっては——
「……くだらない」
リディアは歯を鳴らし、憎悪と恐怖が入り混じった顔をする。
セラは片膝をつき、ナイフをリディアの首元に当てる。
「わ、私を殺したら……今度こそあんた……人殺しで捕まるわ……
ハルバン家に処刑されるのよ……!
私は……負けてない……!」
その稚拙な脅しに、セラは思わず笑った。
「負けていない?面白いことを言うわね。」
セラはゆっくりとウィッグを被り直す。
再びマルタの顔へ。
「セラは今——地下の独房にいるのよ」
リディアは言葉を失い、恐怖が崩壊した表情に浮かぶ。リディアは最後の抵抗として叫ぼうとする。
「クッ……そぉ——ッ」
しかし、その声が廊下に漏れることは決してなかった。
鋭い音を立てて、ナイフが首元を切り裂く。
喉から噴き出した血が、叫びを泡立たせ、くぐもった音に変えていく。
「……っ……ゴボ……ッ……」
床へ流れ落ちる血のしぶき。
リディアの指先が、最後の力を振り絞るように震え——
やがて、静かに力を失っていく。
温かく、赤い血だけが、絨毯の上に残った。
——魔女リディアは、死んだ。
部屋に残るのは、朝の光と鉄の匂い。
そして、セラの深い呼吸だけだった。
セラは、血まみれのナイフをリディアのドレスで乱暴に拭き取り、血まみれの死体を見向きもせず部屋の扉を開く。
「ふぅ……終わった……あとはマルタは助けるだけか」
そう呟き、扉に手をかけ閉じようとしたそのとき——
「そういうことね……」
低く静かな女性の声が、廊下の奥から響いた。
セラは反射的に振り向く。そこにはクラリッサが佇んでいた。表情は変わらず、まるでこの血塗られた現場を特別視していないかのようだった。
「いつの間にいたのですか……?」
「どうでしょう……」
感情を感じさせないその返答に、セラは思わず眉をひそめる。不気味さを覚えながらも、彼女の次の言葉を待った。
「セラ……ついておいで。全部話すわ。嘘偽りなく」
「ですが、マルタは! マルタはまだ独房に——」
「大丈夫よ。朝方、マリーが独房を開けておいたわ。低体温症にもならずに済んだし、今は毛布に包まれて眠っているわ」
その一言に、セラの全身から力が抜けていくのを感じた。緊張と焦燥で張り詰めていた心が、ようやくほんの少し、安堵という形でほどけた。
「さ、こちらにおいで」
クラリッサは振り返り、静かに廊下を歩き出す。その背に、セラは小さく息を吸い、ナイフを懐へ戻しながら後を追った。
招かれたのは、再びクラリッサの部屋だった。
だが、ひとつだけ以前と異なっていた──部屋の壁に掛かっていた男性の肖像画が、跡形もなく消えていたのだ。
セラとクラリッサは向かい合い、再び顔を合わせた。
「昨日……私は、ドグラスは病で亡くなったと言ったわよね。でも、あれは嘘よ」
クラリッサはそう言って視線を逸らすことなく、まっすぐにセラを見つめていた。
そこにはもう、嘘も、演技も、なかった。
「本当は……殺したの。私が、ドグラスを」
セラの胸に冷たいものが落ちた。
「どうしてですか?」
静かに問いかけるセラに、クラリッサは深く息を吸い、そして吐く。
「……別人になっていたからよ。ある日、主人が屋敷に帰ってきた。扉を開けたら、そこにいたのは——ドグラスの姿をした、何かだった」
淡々と語られる言葉。それでも、そこに込められた感情は重い。
「理屈じゃなかった。心の奥で、違うってわかったの。それが本当に彼じゃないって。受け入れられなかったの。だから……殺した」
その瞳に、わずかな赤みが差す。
「彼はね、もともとひどい人だった。暴力的で、冷酷で……生まれてきた子供が醜い姿だからその子を捨てたこともあった。だから、たとえ見た目が同じでも、中身が別人になったのなら、それはむしろ良いことだったはずなのに」
クラリッサの声が震え始める。
「でも……それでも……私は、ドグラスのことを……愛していたの。愛していたのよ……」
彼女が瞼を閉じた瞬間、涙が音もなく頬を伝った。
「だから……ドグラスを殺したことへの贖罪のつもりだった。彼を殺してしまった自分を、許せなかった。だから私は正義を名乗り、彼の悪政を正し、慈愛を掲げた。そうすることで、私のしたことを正当化したかった」
彼女は顔を伏せ、ハンカチで目元を押さえる。
それでも、あふれる涙は止まらなかった。
「笑っちゃうわよね……正義だとか慈愛だとか、自分の罪を覆い隠すための言葉だったのよ……あなたの言うとおり……私は、ただ、自分の行いを正当化したかっただけなのよ……」
クラリッサの声に、嗚咽が混じる。
「リディアが別人になっていたことも気づいてた……それでも、私はもう、この手を再び血で染めることができなかった……見て見ぬふりをして、何もしなかった……そしたら、エレーネが殺されてしまった……」
そして、自らの感情を言葉に乗せて、すべて吐き出す。
「全部……全部……!!全部……!!!私が悪いのよ……私が……エレーネも、リディアも殺したの……!!!」
クラリッサは椅子の上で身を縮め、うずくまる。その姿はまるで、ドレスで美しく身を着飾った人間とは思えぬほど、小さく、弱く、ちっぽけだった。
セラは椅子から立ち上がり、冷たく突き放すように言う。
「何を言っているのですか。許しを請えば、罪が消えると思っているのですか?」
セラは、小さくなっているクラリッサの後頭部に言葉をかける。
「小さくうずくまって、それで過去が精算できるとでも? いいえ、決して罪は消えない。償おうと、時が経とうと、それはあなたの魂にずっと貼り付いて離れないのです」
クラリッサがかすかに顔を上げる。濡れた頬には涙と鼻水が混じり、化粧はすっかり落ちていた。 その顔は、必死で過去と向き合おうとする、ひとりの弱い人間のものだった。
「仮面をつけている間は、自分の本当の罪の重さすら見えません。ならば己の魂の底から受け止めるしかないんです。報いを受ける、その瞬間まで」
懐にしまったナイフの感触を確かめるように触れる。
「私も……いずれ、報いを受けることになるのでしょうね」
そう呟くと、彼女はそっとクラリッサの前に膝をつき、彼女の冷たい両手を包み込むように握った。
「だから、その罪に苦しみ、もがき、そして……生き抜いてください。 それが、貴女に残された唯一の贖罪なのです」
少しの沈黙のあと、クラリッサは震える声でかすかに呟いた。
「ありがとう……」
そっとハンカチを目元に当て、あふれる涙をぬぐう。そしてセラのほうへ向き直り、柔らかな笑みを浮かべた。
そっと息を吸い、吐きそれを繰り返し、震える肺をゆっくりと抑えようとする。
そして一言。
「セラ……もしよければ、お昼をご一緒しませんか? 私が、ご馳走しますよ」
セラはその申し出に小さく笑って頷く。
「ええ、じゃあ……たくさんいただきますね」




