第6話 ハルバン家の魔女③
セラは螺旋階段を上がっていく。
すぐに地上へ出られると思っていたが、どうやら独房は相当深く地下に設けられているようだった。
やがて、目の前に一枚の木製の扉が現れる。セラは両手で押し開ける。
そこは、左右の壁一面に木製の樽が並ぶ空間だった。部屋全体が静謐な香りに満ちている。どうやらここは、ワインセラーのようだ。
木材の香りと、葡萄酒の渋く甘い芳香が鼻をくすぐる。そのどれもが明らかに一級品だと感じられる。
この村の地下水は、標高差と寒暖差に恵まれた帝国南部の段々畑で育てられた葡萄と相性が良く、栄養価も香りも豊潤。
そのため、ここで生まれた葡萄酒は他国との交易でも高値で取引され、帝国でも名産品として知られている。
セラはついゴクリと喉を鳴らしたが、すぐに気を取り直し、部屋の奥にある小さな階段を上る。そして、さらにもう一枚の木製扉を押し開けた。
——そこは、以前セラとマルタがタルトを作った厨房の裏手だった。
セラはそっと廊下に顔を出し、左右を確認する。
……だが、今の自分の姿はマルタなのだから、そこまで慎重になる必要はないのかもしれない。
数回ほど廊下の角を曲がると、中庭へと続く扉が見えた。
外に出ると、広々とした中庭が月光に照らされていた。中央の大きな池には、夜空と月が鏡のように映り込んでいる。
その水面には、いくつもの睡蓮の花が浮かんでいた。おそらく東洋から輸入された品種なのだろう。柔らかな白や淡い桃色が、夜の静けさの中にそっと咲き誇っている。
セラは池の水面を覗き込んだ。
透き通るような水が、月明かりとともに彼女の顔を映し出す。
「おお……これは確かに似てるわね」
マルタに扮したセラの姿は、まるで本人そのものだった。
けれど、細部をよく見れば、やはり幾つかの違いがある。
たとえば、まつ毛。セラの方が幾分か長く、目元に影を落としている。
目の形も微妙に異なり、セラはややジト目気味なのに対して、マルタの瞳は幼子のような大きな丸み。
声に関しても、セラの方がわずかに低く、吐息まじりの響きがあった。
「まつ毛はまあ、この距離じゃバレないわよね……」
問題は目と声だ。
目元はまだ調整できる。無理に見開きすぎない程度に、自然に大きく開く。
(……うん。ちょっと眼球が乾くけど、これなら大丈夫)
次に声。
喉ではなく、腹から通るように響かせる——マルタのあの明るく澄んだ声を真似るため、セラは小さく発声を始める。
「あ、あー……あー……あー……」
少しずつトーンを高くしていく。
「——あーーーー……!」
セラの声が夜の中庭に反響した、その瞬間――
ガラリ、と近くの扉が開く音がした。
「何をされているのですか、マルタ様?」
マリーが顔を覗かせ、心配そうにセラを見つめる。
「えっ、あ……お、お歌の練習をしていたのよ!」
セラは一瞬焦りながらも、マルタの声を完璧に模して軽やかに言い訳する。
「そうですか」
マリーは特に深く詮索する様子もなく、淡々と返す。
「お食事のご準備ができました。食堂へお越しくださいませ」
一礼したマリーは、静かに扉を閉めて立ち去った。
セラは、食堂へと向かった。
食堂の扉を開くと、すでにクラリッサ、リディア、ユリウスの三人が座っていた。一瞬、全員がこちらに視線を向けたが、すぐさま下へと目を落とす。
彼らは一つの長テーブルを囲うように、距離を保ったまま席に着いている。ユリウスの隣には、昼頃そこに座っていたエレーネの席が、空虚なまま残されていた。
セラも、中央の席へと静かに腰を下ろす。
沈黙が続く。誰もが口を閉ざし、重く、冷たい空気が場を支配していた。
やがて、マリーともう一人の使用人が入室し、それぞれの前にトレーを置く。
パンとチーズ、そして薄められたワイン。質素ながらも丁寧な食事が並ぶ。
マリーたちが退室すると、クラリッサが両手を組み、祈るように呟いた。
「……我々に恵みを与えてくださった唯一神に感謝を込めて……」
先ほど聞いた言葉。しかも、同様に、抑揚のない感情を見せないような言葉だった。
食卓には、言葉の代わりに静寂だけが残った。広すぎる空間に、互いの距離が余白となって、空気が質量を持ち重さを加えている。
セラはふと、これは一つの糸口かもしれないと直感した。悲しみを共有できないこの家族は、心のどこかで言葉を吐き出す相手を求めている。その中で、もし感情の表現にわずかな矛盾があるなら——そいつが、魔女かもしれない。
「ねえ、どうして今日はこんなに暗いの?エレーネお姉様がいないから? 私……お姉様がいなくて、すごく怖いの……」
セラは、あえて震えた声でそう口にした。マルタの不安を演じながら、周囲の反応を探る。
最初に反応したのはリディアだった。
「馬鹿なことを言わないで、マルタ。静かに食事をしなさい」
彼女の声の端々に、怒りが感じ取れた。
「でも……でも、こんな空気はエレーネ姉様だって望んでないよ!」
リディアは顔をしかめ、苦しげに唇を噛んだかと思うと——次の瞬間、机を叩いて立ち上がった。
「そんなの、あの菓子売りの……あいつに言いなさいよ!あいつが毒を盛ったから、エレーネ姉様は死んだのよ!」
「セラさんは毒なんて入れてない!私も一緒にお菓子を作ったんだよ!」
「じゃあ、あんたが毒を入れたってことじゃないの!?」
「違うっ!」
口論が次第に激しくなる一方で、クラリッサとユリウスはただ無言で食事を続けていた。
二人の食事の手は止まることなく、表情にも一切の揺らぎがない。
あまりにも、静かすぎた。
ならば、ここは一気に踏み込むべきだとセラは判断した。
「母様も、ユリウス様も……どうして涙のひとつも見せないの? エレーネ姉様がいないのは悲しくても、それを我慢する必要なんてないのに」
セラは静かに、観察するようにふたりの顔を見つめながら問いかけた。
「あんた……人の押し殺した感情にズカズカと入り込むなんて……!」
リディアは椅子を蹴り飛ばし、苛立ちのままマルタのもとへ向かう。
だが、セラはその横顔を視界の端にとどめながらも、クラリッサとユリウスの微細な表情の変化を決して見逃さなかった。
リディアがセラのすぐ前まで歩み寄り、手を伸ばそうとした——その瞬間。
「いいんだ……」
低く、穏やかな声がリディアを静止させた。
「ありがとう……マルタ……」
ユリウスは片手で顔を覆い、震える声を搾り出す。
「私は……貴族たる所以、ヴェルティア家の長男として、気丈に振る舞わなければならなかった。
エレーネがいなくなった後も、感情を吐き出す場所を見つけられなかった……でも……ありがとう、マルタ。
感情を吐き出す場を作ってくれて……」
そう語る彼の目から、大粒の涙が次々と流れ、テーブルの上を濡らしていく。
だが——それが演技であることを、セラは瞬時に見抜いていた。
あまりに唐突な涙。喉を震わせる声は過剰で、感情の波が急すぎる。そして何より——手のひらで顔を覆っているように見えて、指先は化粧の崩れを防ぐように目尻を押さえていた。
涙を見せまいとしているのではない。自分の醜い顔を見せないようにしている——そんな見え透いたプライドが、むしろ虚偽の涙を際立たせていた。
まるで素人劇団の芝居のような、安っぽい演技だった。
だが、セラもまた演技をしている身だ。ここで否定すれば、場の流れが崩れてしまう。
彼女は視線を伏せ、静かに涙を浮かべた。一気に流すのではなく、一滴ずつ、慎重にためながら頬を伝わせる。
リディアもそれに釣られるように、誰にも顔を見せず背を向け、肩を震わせていた。
だが——
クラリッサだけは、まったく泣いていなかった。
涙を流さず、視線も動かさず、硬直した表情でただ座っている。
その乾いた空気を切り裂くように、彼女がぽつりと呟いた。
「……マルタ。後で、私の部屋に来なさい」
ただ、それだけだった。
リディアは自分の席に戻り、再び食事を取り始めた。
セラも、頬を伝った涙を袖で拭う。
(貴族なら、本当はハンカチで涙を拭くものかしら……)
袖で拭ってから、ふとそんなことを思うが、すぐに頭を振る。
マルタのような自由奔放な性格の人物であれば、そういった貴族の作法などは気にしないのだろう。
そう思うと、彼女と入れ替わったのはある意味、幸運だったのかもしれない——そんな感覚が胸をよぎった。
(……これを機に、貴族の作法というものを少しは学んでおくのも悪くないわね)
そう考えながら、やや硬めのパンをナイフで割り、チーズを塗って口に運ぶ。
その後、淡く水で薄められたワインで喉を潤した。
やがて、食事を終えた三人は、椅子から立ち上がる。
セラも、クラリッサに言われた通り、彼女の後を静かに追ってホールを出た。
だが、扉を出る直前、セラの目が鋭く一つの光景を捉える。
ユリウスが、リディアの右肩をそっと抱くようにして寄り添い、慰めの言葉を囁いていたのだ。
そのまま、二人は並んでホールを後にしていった。
クラリッサに呼ばれ、セラはその部屋へと足を踏み入れた。
部屋には、重厚な天蓋付きのベッドがひとつ。
棚には装飾の施された花瓶が置かれ、壁には男が鋭い眼差しをこちらに向けるような絵画が飾られている。
整然とした空間には、呼吸すらも息苦しくなるような凛とした気配に満ちていた。
「座りなさい……」
クラリッサは静かに椅子をひとつ引き、セラの前に置いた。
続けて自らも、向かい合う形でもうひとつの椅子に腰を下ろす。
セラは戸惑いながらも、両手を太ももの下にそっと添え、スカートの裾を整えて慎ましく座った。
沈黙が二人の間を満たす。
クラリッサの視線が、じっとセラの顔を見つめる。
そのまっすぐな眼差しに、セラは思わず視線を逸らしてしまった。
やがて、静けさを破るように、クラリッサが溜め息をつきながら口を開く。
「……正義、というものが何か知っているかしら?」
その声に怒気も哀しみもない。
ただ、相手の答えを静かに待つ、そんな問いかけだった。
「お、お母様……何の話を……?」
戸惑いを隠せず、セラは言葉を詰まらせる。
「文字通りの意味よ。正義と悪。唯一神の教えの中でそれはどんな価値を持っているのか……それを、あなたに尋ねているのよ。——セラ」
クラリッサの視線はなおもセラを捉えていた。
だが、その発言に何かが引っかかる。
(……セラ?)
その一瞬で、彼女は椅子から身を翻し、数歩後ろへ飛び退いた。
「……いつから気づいていたのですか」
声のトーンは低く、冷ややかだった。
彼女はクラリッサを睨みつけながら、胸ポケットの奥、隠し持ったナイフにそっと手を添える。
「——食事の時からよ。それと、座りなさい」
静かなその声には、なおも怒りや焦り、そんなものではない。ましてや命令でもなく、ただそう言っただけのような、感情それすら消失したような声だった。
しばらくの間、ふたりの視線が交錯する。
やがて、セラは警戒を解かぬまま、再び椅子へと腰を下ろした。
(……なぜだ。変装は完璧だったはず。歩き方、声、表情、食事の所作まで——)
内心では激しく思考を巡らせる。
わずか数時間、いや、それ以下の時間で見抜かれた理由が、まったく思い当たらない。
「さて——もう一度聞くわ。正義というのは、一体何かしら」
クラリッサは、微動だにしない姿勢のままセラを見つめていた。
その目に動揺はない。
自分の娘ではないと知っていながらも、そこにあるのは静かな観察の眼差しを向けていた。
「正義……そんなもの、存在しません」
セラは即答する。声は冷たく、どこか達観していた。
「それは帝国が統治を効率化するために——民を欺くために創り出した、偽りの神のまやかしに過ぎません。
この世の人間は、結局みんな感情のままに動いているだけ。
正義なんてものがあるとすれば、それは己の欲望や行動を正当化するために勝手に名付けているだけです」
クラリッサは一瞬だけ目を閉じた。まるで、その言葉の意味を一つひとつ噛みしめるかのように。
「——それはどうかしら」
彼女はそっと目を開く。
「少し、この村の話をするわね……」
静かな声が、空気の密度を変えるように部屋に広がった。
「十六年ほど前——この村は、とてものどかとは言い難い場所だったわ」
クラリッサはゆっくりと語りはじめる。その声は穏やかでありながらも、どこか過去への澱のようなものが沈んでいるようだ。
「農奴たちは土地に縛られ、過剰な税を課され、飢えと寒さに苦しめられていた。逃げ出そうとすれば、容赦なくこの屋敷の地下にある独房に閉じ込められた。食事も与えられず、餓死させられる者もいたわ」
(あの独房……そういうことだったのね)
セラの脳裏に、あの冷たい石造りの牢が蘇る。
「村をそうしたのは、私の夫——ハルバン=ドグラスよ」
クラリッサの目が、ふと壁に掛けられた一枚の肖像画に向く。
「ドグラスは農奴たちを搾取し、得た金の多くを帝国へは渡さず、私腹を肥やしていたわ。でも、帝国は何も言わなかった。見て見ぬふりをしていたのよ」
「……どうしてですか?」
セラの問いに、クラリッサは鋭く目を細める。
「この村の地下には、特別な水脈があるの。極めて純度が高く、帝都では貴族の飲料水や錬金術の媒介として珍重されていた。ドグラスはそれを独占し、その代わりに帝国に口をつぐませたのよ。帝国も、欲しいのは税ではなく水だったのね」
「でも、そんな統治、長くは続かなかったはずです」
「ええ、長く続かなかったわ」
クラリッサの声が微かに震える。そして、次の瞬間——視線をセラから逸らした。
「ドグラスは病で、ある日突然死んでしまったの」
(……嘘)
セラの直感が、クラリッサの言葉に違和感を覚える。さっきまでの堂々とした語り口から一転、わずかに視線を逸らしたその一瞬——それは嘘の兆候だ。
「それからは、私が村の統治を引き継いだ。農奴を土地から解放し、税を大幅に軽減した。水源の管理はそのままに、帝国には最低限の供給だけを続けたわ」
クラリッサはゆっくりとセラを見つめ直す。
「ねえ、セラ——あなたに問いたいの」
彼女は唇だけで息を吸う。そして吐くように言葉を続ける。
「私は、かつての支配のやり方を捨て、民を解放し、帝国とも距離を取りながら、村を平和に導いた。私腹を肥やすこともできたのに、それを捨てた。正義という名の“慈愛”の心なのよ。これが“正義”でなくて何なの? 誰を殺すこともなく、誰からも何も奪わず、ただ慈しみだけで秩序を築いた。私の選択は間違っていたかしら?」
——それは訴えであり、問いかけであり、そしてある種の告白でもあった。
だが、セラは理解していた。この言葉の中に混じる、たった一つの隠された嘘を。
彼女は夫の死について、何かを隠している。
セラは乾いた喉を震わせながら、無理やり言葉を絞り出した。
「……確かに、それは正義かもしれませんね」
クラリッサの顔には、どこか疲れの色を感じられる。額にはうっすらと汗が浮かび、ゆっくりと椅子から立ち上がると、セラに背を向けたまま、無言でベッドへ腰を下ろした。
「言いたいことは……それだけよ、セラ」
その背中は、先ほどまでの威圧感を失っていた。
セラはしばしその背中を見つめた後、静かに口を開く。
「……私がなぜマルタの格好をしているのか、聞かなくていいんですか?」
「別にいいわ」
クラリッサは吐き捨てるように答えた。まるで、興味を持つことすら無駄だと言わんばかりに。
セラも立ち上がり、部屋の扉へと歩き出す。だが、その背を向けたままのまま、一つの疑問だけはどうしても口にせずにはいられなかった。
「最後に一つだけ……どうして、私がマルタではないと分かったんですか?」
沈黙が落ちた。空気が振るわず、ただじっと。
2人の背中は向き合っているのに、どこまでも遠い。まるで違う世界に立っているかのように。
セラはそれ以上返答を期待せず、ドアノブに手をかけた。
だが、ちょうどそのとき——クラリッサの口がゆっくりと開いた。
「……なんとなくよ」
その声はあまりに小さく、あまりに曖昧だった。
セラはわずかに目を伏せると、静かに扉を開いた。
「そうですか……」
短く呟くと、セラはそのまま部屋を後にした。
「はぁ……」
セラはクラリッサの部屋の扉を背に、深くため息をついた。
(……どうして、私に正義の話なんてしたんだろう)
セラは考える。
確かにクラリッサの言葉は重かったが、それが魔女としての兆候かと問われれば、そうは思えなかった。
魔女を探しているセラにとって、それはただの過去の話に過ぎず、警戒すべき異常性は見られない。
しかし、独房にいるマルタのことを思えば、悠長にはしていられなかった。
あの冷たい石の部屋に、少女がひとり。——できるだけ早く、魔女を見つけ出して殺さなければならない。
セラは、他の候補者——リディアとユリウスを探すため、屋敷の廊下を歩き出した。
この屋敷はあまりにも広い。だがその割には、人の気配が異様に少ない。
どの部屋が誰のものかも分からず、薄暗いシャンデリアの光だけが、静かに廊下を照らしていた。
そのとき、微かに、女性の嬌声のような声が聞こえた。
セラは思わず立ち止まる。——リディアの声に思えた。
(……年頃の女性なら、一人でそういうこともあるかもしれない。でも……)
セラは道徳心を働かせ、その部屋を通り過ぎようとした。
しかし——その声に、ほんの僅かに混じる低い息遣いが耳に引っかかった。
それは、囁くように低く、明らかに——男の声だった。
胸の奥で、嫌な予感が芽を出す。
セラは気配を殺しながら、その部屋に向かって一歩ずつ近づいた。
絨毯が足元でわずかに沈む感触を頼りに、慎重に、無音で。
息さえも殺して、影のように忍び寄る。
そして、扉の前に立つと、背を壁に預け、静かに耳をすませた。
「リディア……」
ユリウスの低い声が聞こえる。
「ユリウス様……でも……」
リディアの声には、かすかな理性の抵抗がにじむ。だがその響きはすぐに官能的な響きを帯びる。それは、次の動作の序章に過ぎないことを予感させた。
その先を確かめるべく、セラはそっと扉の取っ手に手を伸ばした。
冷たい金属の感触が指先を刺す。
ギィ……という軋む音を立てぬよう、息を止め、慎重に、わずかに扉を押し開く。
隙間から片目だけを覗かせる——
部屋の隅。
薄暗い光の中で、ベッドの上に重なる男女の影。
衣服やネックレスがベッドサイドに無造作に置かれ、茶葉が床に散らばっている。
ユリウスが、リディアのドレスをはだけさせていた。
リディアは頬を紅潮させ、陶然とした表情で目を閉じ、ユリウスの腕に身を委ねている。
ユリウスはその華奢な身体を包み込むように抱き寄せ、むさぼるような激しさで、彼女の唇を貪っていた。
それはまるで、互いの存在を確かめ合うような、熱と執着の交錯。
——ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
セラは息を呑み、思考が止まりかける。
まるで脳の奥で警報が鳴っているかのように、理解を拒む不快感が胸に広がる。
気まずさと、そして言いようのない嫌悪感が、波のように押し寄せてきた。
セラは、そっと扉を閉じる。
音を立てぬよう、自らの精神の奥底に慌てた動作というものすらも無理やり押し込める。
血の気が引く感覚。
心臓が激しく揺れ動き、痛みを感じさせるほど早く打ち続ける。
(——これは、見てはならないものだった)
セラは、トボトボとした足取りで廊下を歩いた。
感じているのは罪悪感でも倫理的な嫌悪でもない。
ただ、脳裏に焼きついたあの光景と、それによって生まれた本能的な拒絶感、そして形容しがたい疲労感が、じわじわと胸の奥に残っていた。
(どうしてこんなことに……ユリウスはエレーネの婚約者のはず。それなのに、なぜ……)
疑念はあった。
だが、今夜が「初めて」だったことは、いくつかの痕跡から明らかだった。
ベッドサイドには、リディアが身につけていたネックレスと指輪が、無造作に投げ出されていた。
もし何度も関係を重ねていたのなら、それらの貴重品は事前にきちんと化粧台に置かれているはずだ。
部屋の空気も異様に香油の匂いが濃く、まるで急いで塗ったかのような印象を与えた。
さらに、来客用の椅子が衣類の山に埋もれ、部屋の隅に押しやられていたこと。
ユリウスの外套が床に脱ぎ捨てられ、少し濡れていたこと——
セラの中で、ユリウスへの疑念がまた一つ深まっていく。
すると廊下の奥でマリーの姿が見えた。
セラは、不安げな表情を浮かべながら、幼子のようにマリーのもとへと歩み寄る。
「どうかされましたか?」
マリーが穏やかな声で問いかける。
「マリー……最近、ユリウス様と、リディア姉様が——なんだか変なの。まるで……恋人みたいに。
でもユリウス様は、エレーネ姉様の婚約者だったはずでしょ?」
マリーは足を止めると、片手でトレーを支えたまま、もう片方の手で顎に触れ、思案するように宙を見上げた。
「それは……難しいことですね。大人には、いろんな関係がございますから」
(マリーの仕草は、過去の記憶から何かを思い出そうとしているようだ。
きっと彼女の言葉に嘘はない……)
セラは、マリーの返答にさほど期待していなかった。
ハルバン家の侍女という立場から、深入りを避けているのだろう。
「……うん。ありがとう、マリー」
セラは小さく頭を下げた。
「それと、マリー? それ……何を運んでるの?」
声色を変える。
今度はいつもの明るく無邪気なマルタのトーンで。
「ああ……これはセラ様へのお食事です」
トレーの中には、パン、白濁したスープ、そして薄めたワインが並んでいた。
「ねえ、それ私が持っていってもいい?」
「え? いえ、これは私の役目ですから……」
セラが身を乗り出して言うと、マリーは少し驚いたように眉をひそめた。
(よし、ならば強行突破だ!)
「やだやだー! セラさんには私がごはん持っていきたいの!」
セラは頬をぷくりと膨らませ、両腕をわざとらしく振って駄々をこねた。
「はぁ……わかりました。では、お願いしますね」
マリーはわかりやすくため息をつき、トレーを手渡すと、マリーは一礼して言った。
「格子の下の方に、四角い穴がありますので、そこから差し入れてください」
そう言い残し、彼女は足音も静かに、廊下の先へと消えていった。




