第5話 ハルバン家の魔女②
「どうぞ、中へ……」
マリーによって案内されたのは、ハルバン家の屋敷の地下にある独房だった。冷たく、薄暗く、石の壁にはじっとりとした湿気が染み込んでいる。鉄格子の向こうからわずかな灯りが射し込み、床には便所代わりの小さな穴が一つ空いているだけ。椅子も、寝具もない。ただただ、カビ臭さだけが鼻を刺す。
すでに拘束は解かれていた。マリーはセラが抵抗しないと分かっていたのだ。
セラは無言で牢の中へと足を踏み入れる。
「申し訳ございません。これも、私の務めですので……」
そう言ってマリーは一礼し、鉄格子の扉を閉め、鍵をかけて静かに立ち去った。
扉の向こうの足音が遠ざかっていくのを確認すると、セラは肩を回し、首をひとつ鳴らした。関節が小気味よくパキパキと音を立てる。
そのまま両腕を頭の後ろに組むと、石の床にごろりと仰向けに寝転がった。
「……はぁ、疲れたー」
ぽつりと漏れるため息。まるで仕事を終えた労働者のような口調だった
だがその脳裏から、ある一点が離れることはなかった。
エレーネの、あまりにも不自然な死。
セラは確信していた。それは毒ではない
魂が突然抜け落ちるように命を失う。あれは——魔女の魔法によるものだ。
(この家の中に、魔女がいる。……この村の中に、潜んでいる。)
平和だと信じられてきた村。
だが、真に殺すべきそれは、いま、手の届く距離にいる。
魔女の魔法には、主に二つの系統が存在する。一つは《殺しの魔法》、もう一つは《乗っ取りの魔法》だ。
《殺しの魔法》は、対象が術者に対して心を開いているときにのみ発動し、その魂を抜き取るようにして死に至らせる。もし心を開いていない状態で発動すれば、術は不完全となり、対象には悪寒や震えなどの異常が現れるだけで、命までは奪えない。
そして、《乗っ取りの魔法》は、この《殺しの魔法》で魂を抜き取った後の肉体に憑依する術である。だが、刺殺や毒殺などの物理的な損壊による死体を用いた場合、術者は憑依後すぐに肉体の損傷によって命を落とす。
そのため、魔女たちは安全に乗っ取るため、まず《殺しの魔法》で傷一つない死を与えるのが常だ。
魔女はこの二つの魔法を同時に発動し、誰にも気づかれず、ほんの一瞬で乗っ取りを成功させる。
それらの魔女の特性を念頭に置きながら、セラは目を閉じたまま静かに思考を巡らせる。
(……もしエレーネが魔女だったのなら、いま頃誰かの身体を乗っ取っているはず。)
ハルバン家の関係者の中で、可能性のある者は5人——クラリッサ、リディア、マルタ、ユリウス、そして侍女のマリー。
(エレーネの性格からして、あの穏やかさと優しさで多くの者に心を許されていたはず。クラリッサは母として、リディアとマルタは姉妹として……ユリウスは婚約者として。)
だが、少し気になる点がある。
マルタが以前、「ユリウスはエレーネのことを好いていない」「たまにエレーネ姉様を見るとき、すごく怖い顔してる」と話していた。
(……ならば、この二人は心を開いていたとは言い難い。候補から除外できるかもしれない。)
すると、残るはクラリッサ、マルタ、マリーの三名。だが、現時点で決定打となる情報は何一つない。
(今のところは、判断材料が少なすぎる……)
そう考えながら、セラは薄く目を開ける。視界に映るのは、ただの石造りの天井。
暗く、冷たく、どこまでもつまらない独房の景色だった。
この空間では何もすることがなく、何をしても意味がないのかもしれない。そもそも魔女を見つけたとしても、ここから出ることができなければ殺すことすらできない。
「どうやって抜け出そうか……」
ため息まじりに吐き出したその言葉すら、この空間の冷たさに飲まれ、消えていくようだった。
セラが横になった状態でやや窮屈になるこの独房。格子越しに見える右側の景色には、他にも数十近い独房が並んでいた。一介の貴族が、なぜ地下にこれほどの独房を作る必要があったのだろうか?
粗末な便所であるにもかかわらず、糞尿の不快な匂いはほとんど感じられなかった。セラが入る以前まで、しばらくの間、利用されていなかったのだろうか。
左奥には階段が見える。地下に降りてすぐ手前の独房に入れられたのだろう。
セラは、乏しい情報の中で魔女が誰なのかを考え続けた。暗く閉ざされた冷たい空間で、どうやって脱出すべきかという無駄にも思える思考を何度も反復していた。
すると、階段を下りてくる足音が一つ、微かに響いた。
見回りのマリーかと思ったが、すぐに違和感を覚える。その足音は、まるで音を消そうとするかのように、慎重で、異様に緩やかだった。
セラはゆっくりと身体を起こし、わずかな灯りが差す中、鉄格子越しに階段を見据える。
そこには、階段から顔だけを覗かせた人影があった。だが、灯りが届かず、その輪郭はぼやけている。
その影は、足音を立てまいとするように、ゆっくりと、静かにこちらへと近づいてくる。
やがて、灯りが届き、その姿が明らかになった。
——マルタだった。
マルタは人差し指を唇に当て、囁くように言った。
「セラさん。助けに来たよ」
そう言うと、懐から一つの鍵を取り出し、鉄格子の鍵穴に差し込んで、カチャリと開錠する。
「ど、どうしてここに……?」
思いもよらぬ助けに、セラは驚きと困惑を隠せない。
マルタはしゃがみ込み、小さく微笑んで言った。
「私ね、セラさんがエレーネ姉様を殺すなんて、そんなこと絶対ないって、分かるの」
「……なんで?」
「なんとなく。セラさんは、そういうことをする人じゃないって……思うの」
なんとなく——そのあまりにも曖昧な言葉は、理屈で物事を捉えるセラにとって、普段なら受け入れがたいはずのものだった。
だが、不思議なことに、マルタのその曖昧な確信が、セラの胸の奥に、ふわりと温かく突き刺さる。
「エレーネ姉様は、とても優しいの。わがままな私にも、いつも優しくしてくれて……」
マルタは俯いたまま、小さく声を震わせた。
「エレーネ姉様は健康で、病気ひとつしたことがなかった。だからね、私は……エレーネ姉様は本当に誰かに殺されたんじゃないかって思ってる。もしかしたら、家の誰かが……」
その声が次第にかすれ、マルタは唇を噛んだ。
「突然、家の中の空気が変わったの。みんなが……誰かが、別の誰かになったみたいに……」
灯りはここまで届いているはずなのに、マルタの表情は暗く沈み、目元すら見えなかった。
次の言葉を出そうとしても、声が喉で詰まる。息を呑み、ようやく言葉を絞り出す。
「……エレーネ姉様を殺した人がいるなら……私は、絶対に許さない」
その声は震えていた。
セラは、かつてどこかで聞いたことのある誰かの言葉を思い出す。
それは演技でも虚言でもない、心の底から湧き上がる本物の憎悪。
セラはそっと両手を伸ばし、マルタの手を包み込むように触れた。
マルタは顔を上げる。
その瞳は赤く染まり、涙の膜が光を反射していた。
「マルタ……」
セラは優しく言葉を紡ぐ。
「マルタのその願い、私が叶えてあげる。これは約束よ」
その声は壊れ物を扱うように柔らかく、静かに響く。
「うんっ……」
マルタは、無理やり笑顔を作る。
そして、その片目からは一筋の涙が頬を伝い、落ちていった。
マルタはその涙を袖で拭い、言った。
「願いを叶えるって具体的にどうするのかしら?」
「それに関して少しアイデアがあるのです。かなり危険なのですが……」
セラは、自身の衣服をするり脱ぐ。
自身のやや浮き出た肋骨が冷たい空気に触れ、少し恥ずかしさを感じる。
「お互いの衣服を交換するのですよ。たまたま私たちの体格は似ています。私は、マルタ様として行動し、ハルバン家の内状を解き明かすのです」
マルタは納得したように、頷き、マルタも自身の衣服を脱ぎ始めた。
ドレスというのはやはり複雑なのか、手こずっている。セラはそれを手伝う。
そうして、セラはマルタの着ていた淡い黄色や薄桃色のドレスにフリルを、マルタはセラの着ていた焦茶色のチュニックを着た。
やはり、体格が似ているもの同士だから、服装を入れ替えるだけで、こうも入れ替わりができるのかとセラは思う。しかし、決定的に違うものがあった。
——それは髪だ。
セラの髪は長髪であるのに対して、マルタの髪は短め、しかもお互いの髪色すら異なる。
「……髪は、どうしましょうか……」
致命的な欠点に気づき、セラは苦笑いを浮かべる。
しかし、マルタの方は平然としていた。
「髪は、大丈夫!」
マルタは、左右のもみあげ部分から両手を髪の中へ滑り込ませ、そのまま指を押し上げる。
——ウィッグだった。
ウィッグを外したマルタの髪は、短く整った薄茶色の髪だった。もはや、ウィッグなど必要ないほどに滑らかで美しい。
「ウィッグだったのですね……」
「うん……帝都で人気のファッションなの。
あとはセラさんがこれを被れば…」
マルタは言葉の途中で、セラの髪に視線を向け、ふと口をつぐんだ。
そう、セラの髪は長髪だ。その上からウィッグをかぶっても不自然な髪型が完成するだけだ。
「はぁ……髪は女の命なのに……」
セラはそっとため息を吐く。
セラは長く滑らかな髪を、首筋のところで強固にまとめ上げ、服の袖の縫い目から糸を引き抜き、それを使って髪をきつく縛り上げる。縛った髪の束を片手で押さえ、できる限り圧縮してから、ねじり上げる。
あとは切るだけ。
セラは服の縫い目から、一本の小型のナイフを取り出す。
「ひっ……」
灯りの光を反射する銀色のナイフにマルタは一瞬怯え、声を漏らした。
セラは焦ったように手を振りながら、雑な言い訳を並べる。
「こ、これは護身用よ! 最近、村の治安が悪いから……!」
マルタは目を丸くしていたが、すぐに安心したように頷いた。
(なんとまぁ、純粋なんだろう…)
セラは、格子越しに差し込むわずかな灯りを頼りに、自分の髪をそっと掴んだ。
糸で強く束ねた部分にナイフの刃を当てると、「ギチギチ……」という鈍い切断音が独房の冷たい石壁に反響した。
そして、断ち切られた髪の束は宙を舞い、やがて音もなく、石造りの床へと静かに落ちていく。
束ねていた糸を引き抜くと、残された髪は解き放たれたように、左右へ流れるように広がっ た。
その様子をマルタはポカンと目を開けたまま見ていた。
「……うーん、少し変な髪型になったかも」
即席で切り揃えたセラの後ろ髪は、不揃いに波打っていた。
しかし、マルタは首を振り穏やかな笑みを浮かべる。
「ううん……とっても、綺麗……」
その言葉には、一片の嘘も見当たらなかった。ただただ、まっすぐな気持ちが込められていた。
「そ、そう……?」
セラは照れたように頬を赤く染めた。
彼女はマルタのつけていたウィッグを手に取り、そっと被ると、指先で丁寧に髪型を整える。
その姿を見たマルタは、ぱっと目を見開き、驚きと興奮を隠さずに叫んだ。
「すごい!すごい!ほんと、私にそっくり!」
セラは自分の姿を確認する鏡がないため見られないが、マルタの反応からして、かなり似ているのだろう。
やがてセラはゆっくりと立ち上がり、独房の扉を開いて、一歩外へと踏み出す。そして振り返ると、マルタがセラの服を着てこちらを見ていた。髪は違っても、この薄暗い独房の中では、それもあまり目立たない。
「本当に、いいのですか?……この空間は地獄です。しばらくの間、ここに閉じ込められることになります。下手をすれば、もっと酷いことだって……私がそのまま逃げ出す可能性もありますよ」
セラの問いかけに、マルタは小さく首を横に振った。
「いいの……私は、心の底からセラさんを信じているから」
その言葉に、セラは一瞬だけ目を見開いた後、ゆっくりと息を吐き、静かにうなずいた。
「……わかりました。鍵は開けたままにしておきます。もしもの時は、逃げてくださいね」
セラという名を借りたマルタと、マルタという名を背負ったセラは、お互いに強くうなずき合い——
セラは、静かに独房を後にした。




