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菓子売り少女の魔女殺し  作者: 田川きゆう
第1章

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第4話 ハルバン家の魔女①

ドン——!

頭の中でそんな効果音が鳴り響くほど、眼前に広がるのは途方もなく巨大な屋敷だった。


遠くから見たときには「でかい建物」くらいの印象にすぎなかったが、間近に立ってみれば圧は桁違いだった。


屋根は空に溶け込むほど高くそびえ、石造りの外壁は重厚に積み上げられている。窓枠ひとつ取っても銀細工のように精巧で、正面玄関へと続く大理石の階段は村人の家が三軒ほど並ぶ幅を軽々と超えていた。


まるで村そのものを飲み込み、「ここが支配者の座だ」と誇示しているかのような威圧感。

セラは思わず息を呑み、口をぽかんと開けて見上げた。


「そんな阿呆みたいな顔をするなんて……やっぱりただの阿呆ね」


隣でリディアが、扇で口元を隠しながら小馬鹿にしたように笑う。

だが、この圧倒的な屋敷の前では、そんな挑発すら耳に入らない。


そのとき——。


ガチャリ、と分厚い扉の錠が外れる音が響いた。

ゆっくりと扉が開かれると、漆黒のエプロンドレスに身を包んだ侍女が、影のように姿を現した。


「初めまして、セラ殿。ご用命の件、伺っております。どうぞ中へ……」


侍女は深く一礼する、


「さあ、さっさと入りなさいな、セラ」


リディアは当然のようにセラの背を押し、否応なしに屋敷の内部へと足を踏み入れさせる。


侍女に導かれ、屋敷の中へ足を踏み入れたセラは思わず息を呑んだ。


床には深紅の絨毯が敷かれ、壁には豪奢なタペストリーや金の装飾が並ぶ。天井から吊るされた大きなシャンデリアが光を放ち、廊下全体を明るく照らしていた。


(これが……村の屋敷……?)


「こちらへどうぞ」


侍女が恭しく重厚な扉を両手で引き開ける。


その部屋は、あまりにも広すぎた。


食堂であろうその部屋には——

中央には、部屋の端から端へと続く長い装飾テーブル。

その左右に、四人の女性と一人の男性が、均等な距離を保つように座り、静かにセラを見ていた。


セラは、慣れない圧に喉がひゅっと細くなるのを感じながら、そっと息を飲む。


「あなたが、露店で菓子を売っているセラという子ね。どうぞ、好きな席へ」


テーブル最奥、正面にあたる席に座る女性が穏やかそうな笑みでそう言った。

頬に薄い皺が刻まれ始めているが、それでも端正な印象を残す美しい女性だ。


セラは促され、入口に最も近い左端の席に腰を下ろす。


女性は静かに自らを名乗る。


「初めまして。私の名前は——クラリッサ。ハルバン家の主人よ」


濃い緋色と深い緑を基調としたドレス。上質な絹やベルベットの生地。

胸元と袖口には金糸の刺繍が繊細に縫い込まれ、首には品の良いパールが一連揺れている。

髪はきっちりと結い上げられ、微笑んではいるものの、その笑みは口元だけが僅かに形をつくる。


「では——あなた達も名乗りなさい」


クラリッサは静かに視線を横へ滑らせ、他の者たちへ促した。


セラから見て右端に座る女性が穏やかに口を開いた。


「私の名前はエレーネ。この家では長女になります。セラ様のお菓子、とても楽しみにしておりますわ」


落ち着きを湛えた声。

明るい青と白を基調としたドレスは華美すぎず、柔らかな清潔感と育ちの良さを感じさせる。

茶色の髪は小さな花飾りで控えめにまとめられ、その笑顔は春の水面のようにやわらかだった。


次に、その隣の男性が静かに名乗った。


「私はユリウス。帝都の商人貴族——ヴェルティア家の息子だ。エレーネの婚約者でもある」


深い紺色の上着に白いシャツ。飾り立てることなく、誠実さと清潔さが前へ出る服装。

日に焼けた肌と真っ直ぐな黒髪を後ろで軽く束ね、屋敷の煌びやかな空気の中でも妙な浮つきは無い。


ユリウスから二席ほど間を置いた位置で、リディアが横目のまま名乗る。


「リディアよ。この家の次女。まあ……あんたみたいな平民がこの席に混じるなんて普通は有り得ないのだけど?光栄に思っておきなさい」


その傲慢さも、美貌と宝飾で塗り固められた姿の中では不自然さがない。

この家の水源を握る権力は、こういう空気から滲み出る。


最後に、セラから見て右手側に座る少女がぱっと顔を上げた。


「私はマルタ!三女なの。甘いお菓子だいすきだから、すっごく楽しみ!」


淡い黄色や薄桃色のドレスにフリルとリボン。

彼女の髪は、そのドレスの色と馴染むような、非常に淡いブロンドの短いボブに整えられていた。幼い頬と大きな瞳がそれらをさらに無邪気に見せていた。


全員の自己紹介を終えたこの場で、皆のセラに対する興味の目が引かれていた。


「それにしても、珍しいな。菓子を売るとは、ずいぶん若いご婦人のように見えたが」


ユリウスがやや首をかしげるように言った。


「見た目はそうかもしれませんが、これでも21歳です。商売もひと通り経験しています」


ユリウスとマルタは、思わず目を丸くする。他の者たちは、驚いた表情を直接に出すのは無作法だと感じたのか、軽く頷いてごまかしたり、わざとらしく天井のシャンデリアに視線を逸らす者もいた。


セラの背丈は成人女性と比べると一回りも二回りも小さく、何より——

彼女はちらりと下を見やり、自分の腿を見つめる。

視界を遮るようなものは何もない。

セラはわずかに、肩を落とすようにため息をついた。


「それでは、厨房へお向かいなさいませ。あなたのお菓子、楽しみにしておりますわ」


クラリッサがそういうと侍女に視線を送る。


「では、セラ様。厨房までご案内いたします。」




セラは侍女に案内され、厨房へと足を踏み入れた。


そこは、これまで見たどの厨房よりも広く、整然としていた。磨かれた石の床、火の入った薪竈からは香ばしい煙が立ち上り、吊るされた燻製肉や干し草の香りが入り混じって鼻をくすぐる。清潔な空間に漂う温かな空気に、セラの表情も自然と和らぐ。


「食材はこちらから、どうぞご自由に」


侍女が指差した先には、小さな扉があった。開けると、そこは厨房に隣接する食料貯蔵室だった。


棚にはチーズ、乾燥パンが一つひとつ丁寧に並べられ、天井からは肉や魚が吊るされている。北向きの小窓からは冷たい外気が流れ込み、室内の温度を心地よく保っていた。


セラは、その徹底された環境に思わず自分の工房を思い出す。


「……これは敵わないわね」


自分の工房には貯蔵室などなく、清潔とは言いがたい環境だった。見習うべき点が山ほどある、と素直に思えた。


「では、私はこれにて」


侍女は一礼だけを残し、足早にその場を去っていった。


セラは棚に目を走らせると、林檎とプラム、小麦粉、バターを取り出し、息をひとつ整える。


これから始まるのは、貴族の娘たちを相手にしたお菓子作り。


——勝負は、これからだ。


セラは手際よく小麦粉とバターを混ぜ、生地を捏ね上げると、木の作業台に広げて麺棒で丁寧に伸ばしていく。


続いて、林檎とプラムを大ぶりに包丁を入れる。刃を入れた瞬間、果実の香りがふわりと立ち上る。どちらも驚くほど甘やかで濃密な香り。酸味が強く、滴る果汁が光を弾いた。


(これは……かなりの上物ね)


思わず喉が鳴りそうになるのを堪えながら、セラは再び包丁を握った——そのときだった。


「へぇー、そんなふうにお菓子を作るのね?」


「っ、うわっ!」


突然背後からかけられた少女の声に、セラは驚いて小さく跳ね上がる。


「いい匂い~。お菓子って感じ!」


「ああ……マルタ様ですか。驚かさないでください」


手を腰の後ろで組んだマルタが、興味津々といった様子で台の上を覗き込んでくる。


「すごいすごい、私にもやらせて!」


「……包丁は危ないので、お下がりください。お願いします」


ややうんざりした声でセラは言い、マルタの手を軽く制する。だが、彼女は引かない。


「ふん! 私だって、お菓子くらい作れますの!」


小さく頬を膨らませると、勢いよく包丁に手を伸ばそうとした。


セラは慌てて包丁を持ち上げ、刃がマルタの方へ向かぬよう注意深く持ち直す。


「ですから、これだけは本当に危ないんですってば……」


「でも、でも! 私もやりたいのよ!」


さらに大きく膨れた頬に、セラは堪らず深いため息をつく。


「……わかりました。それじゃあ、マルタ様には生地をこねてもらいましょう。果物を切るのは、私がやりますので」


「ほんと!? やったーっ!」


全身を使って喜びを表現するマルタは、すぐさま生地に両手を突っ込み、楽しげにこね始めた。


その様子を見ながら、セラは心の中でひとつ、息を吐く。


(我が儘で無邪気で、まったく……いかにも、お嬢様)


セラの隣で、マルタは夢中になって生地をこねていた。

ひんやりとした感触が面白いのか、指先から腕にかけて力を込めながら、楽しげに手を動かしている。


「マルタ様。ここの生地は、もう少し薄く伸ばして。少し力を込めると良いですよ」


「こ、こう……?」


「ええ、いい感じです」


「えへへ……」


マルタは照れくさそうに笑い、そっとセラの顔をうかがった。

セラはその笑みを横目にとらえると、小さく頷く。2人の身長はほぼ同じ。けれど、どこかマルタの方が、無垢な子供のように見えた。


やがて、生地を型に敷き詰め、指先で縁をつまんで波の形をつくる。多少いびつでも、それは2人で作るタルトだけの、特別な形だった。


煮詰めた果実を、こんもりとのせていく。

煮崩れた果肉の中に、まだ形を保った林檎のかけらがちらほらと見え、蜜のような艶が、天窓からの光を反射して輝いていた。


「よし、あとは焼くだけですね」


セラはタルトをかまどの奥へと滑らせる。

赤々と燃える薪の熱が顔に差し、タルトの生地がかすかに音を立てながら色を変えていく。


2人はかまどの前に並んで腰を下ろし、焼き上がりをじっと見つめた。

やがて甘やかな香りが漂い始め、部屋中を満たしていく。


その匂いだけで、胸の奥までぽかぽかと温まるようだった。


焼き上がりを待つあいだ、自然とお喋りを始めた。


「セラさんって、どうしてお菓子作りを始めたの?」


ふいに向けられた問いに、セラは少しだけ間を置いてから答える。


「……もともと、お菓子を食べるのが好きだったんです。気づいたら、自分でも作るようになっていて」


「へぇ〜っ!いいなぁ、そういうの。……わたしも、なにか好きなこと見つけなきゃ」


そう言ってマルタは俯くように、薪の炎をじっと見つめる。


「……ねぇ、セラさん」


「はい?」


「私、将来は、家を出て、自分の好きなことを仕事にしたいの」


「いい夢ですね。でも、貴族のご令嬢にとって、それは簡単なことではないのでは?」


「……そう。だから、ちゃんと夢を決めなきゃって思ってるの」


マルタの声は少し硬く、言葉が喉の奥でつかえているように聞こえた。


「たとえば……セラさんみたいに、町でお菓子を売ってみたいなって思ってる。甘い匂いに囲まれて、誰かを笑顔にするって、すごく素敵だもの」


「お菓子屋、ですか」


セラは少し驚きながらも、笑みを浮かべる。


「それなら、夢が叶うように、今日のタルト作りも本気でやらないといけませんね」


「うん!」


マルタは無邪気に頷いたが、その笑顔の奥に、不安を押し込めるような薄く暗い影。


「この家にいると、いろいろ縛られるの。お母様は、私をどこかのお家に嫁がせようとするかもしれない。エレーネ姉様みたいに……」


「エレーネ様の婚約者……ユリウス様ですね」


「うん。姉様は、たぶんユリウス様のこと好き。でも、ユリウス様は……そうでもないみたい」


マルタの声は静かになった。


「まるで、戦略結婚みたい。貴族の家と家を繋ぐための。……好きな人と結婚できないなんて、悲しいよね」


セラは言葉を返さず、黙ってかまどの中のタルトを見つめた。そういったことに口を挟む立場ではない。けれど、マルタの言葉が胸に残った。


「最近、家の中もちょっとピリピリしてるし……リディア姉様も、優しいけど、たまにエレーネ姉様を見るとき、すごく怖い顔してるの……たぶん、あの顔って、お菓子を焼く前の、生地を睨む顔に似てるんだ。うまくいくかな?って、ドキドキしてる顔」


「……そうですか」


「私、あんなふうになりたくない。だから、自分の力で何かをしたいの。……セラさんはすごいね、自分でお金を稼いで、生きてるんだもん」


「……そう見えるなら、嬉しいです。でも、実際は思ったよりもずっと大変ですよ」


セラは、石造りの天井を見上げる。


「それでも、やっぱり私は——好きなことをして生きている。だから、マルタ様がもし本気でそう思うなら、応援したいです」


「……ありがとう、セラさん」


2人の間に、薪の燃える音だけがしばし響いた。


甘い香りの中、タルトはゆっくりと焼き上がりへと近づいていた。


そうして、焼き上がった丸いタルトを大皿にのせ、銀のクロッシュを上から被せる。


「よし、完成だ」


セラがそう声をかけると、かまどの前で待ちきれない様子だったマルタは、嬉しそうに手を叩きながら笑った。




セラは焼き上がったタルトを手に、食堂へと向かう。

隣ではマルタがスキップしながら、鼻歌交じりでご機嫌な様子だった。


左手で大皿を持ち、右手で扉を開ける。


「皆さま、お待たせしました。タルトが完成いたしました」


セラは長テーブルの中央に大皿をそっと置き、クロッシュを外す。

すると、果実の甘みと酸味が香ばしく焼けた香りと混ざり合い、部屋中にふんわりと広がった。

黄金色の生地に映える林檎とプラムの断面が、まるで宝石のように輝いて見える。


「まあ……素晴らしい出来ですわね」


エレーネが微笑みながら、指先で優雅に拍手を送る。


しかし、セラがふと周囲に目をやると、マルタはいつの間にかタルトの目の前に着席していたのに対し、他の面々はやや距離をとるような形で、特にクラリッサは最も遠い席に静かに座っていた。


——マルタの言っていた「最近の家の空気がピリピリしてる」という言葉が、現実味を帯びて肌に感じられる。


セラは、そっと問いかけた。


「……あの、美味しいものをいただくときは、皆さんで近くに集まって召し上がるのが楽しいのではないでしょうか?」


その言葉に、クラリッサは微笑みを浮かべながら応じる。


「……それも、そうですわね」


その一言をきっかけに、皆が徐々に席を移動し始め、やがてタルトを囲むように自然と座った。


セラは、タルトを6つに切り分け、それぞれ小皿に盛り、全員に一つ一つフォークと共に置く。


「あら?タルト、一つだけ余っているわね?」


エレーネがそう言うが、大皿の上に一切れのタルトが一つ残っていた。5等分に切り分けるのが難しかったため、6等分に切り分けたのだ。


「まぁ、これは侍女様が召し上がってくだされば……」


「いえ、私は仕事中ですし、甘いものは苦手ですので、遠慮させていただきます」


侍女はすぐに一歩引き、深く頭を下げた。


「そしたら、あんたが食べればいいでしょ?せっかく作ってくれたのにあたしたちだけが食べるなんてなんか偉そうじゃない?」


リディアがフォークをくるくると回しながら、偉そうな態度でそう言った。


「そうそう!セラさんも一緒に食べようよ!」


マルタがにこやかな笑顔で語りかけてくる。


「で、ではお言葉に甘えて……」


セラはエレーネの隣の席に座った。目の前にはリディアが座っている。彼女はそっとフォークを手に取り、一瞬、マルタの屈託のない笑顔と、エレーネの穏やかな目元を交互に見つめた。


「それでは……我々に恵みを与えてくださった唯一神様に感謝を込めて……」


クラリッサが目を閉じ、祈るように静かに両手を組んだ。それに釣られるように他の人たちも同じように祈り始めた。これは貴族によくあるしきたりなのだろうかと疑問に思ったが、セラだけ祈りをしないのもこの場でういてしまうため、とりあえず祈るフリだけしてみせた。


クラリッサたちは、やがて数十秒ほどの祈りを終え、目を開ける。クラリッサは片手にフォークを持ち、タルトに差し込み一口食べる。


「美味しい……」


呟くように、零れたその一言にセラは頷く。


そしてセラもフォークをタルトに差し込む。サックと軽快な表面の音と共に、柔らかな内部へとフォークを滑り込ませる。内部からは、タルトのバターの香りと甘さと酸味を鼻の奥まで運んでくる。一口サイズに切り分け、それを再びフォークで刺して一口食べる。舌上に香ばしい生地の香り、噛むたびに林檎とプラムのシャキッとした食感が楽しい。ハチミツや砂糖のような甘味料を使わなくても、果実本来の酸味と甘みがしっかりと感じられる。


セラは思わず笑みがこぼれてしまう。


「菓子は苦手だったが、これは、美味いな」


ユリウスは夢中になるように食べている。


「美味しー!」


マルタも嬉しそうに頬をほころばせながら、もぐもぐと食べている。


「ほらほら、口元が汚れてるわよ」


エレーネは椅子から立ち上がると、マルタのもとへ歩み寄り、手にしたハンカチでそっと口元を拭った。

マルタはきれいになった口元で、無邪気にニコッと笑う。


「マルタはもう15歳なんだから、食事の作法くらい身につけなさいな」


「うんっ!」


エレーネは優しく微笑み、マルタの頭を軽く撫でた。

その微笑ましい光景に、周囲の者たちも思わず顔をほころばせる。だが、その中でただ一人——リディアだけは、眉間に皺を寄せていた。


(……高慢な人。あの顔は……差し詰め嫉妬ってところね……)


不機嫌そうな表情を浮かべたリディアだが、タルトを口にした瞬間その表情は和らぐ。


「ふぅん……不味くはないんじゃない……?」


彼女はそう言って、残りのタルトをフォークで乱暴に崩した。


「当然です。私とマルタ様が作ったんですから」


セラは自慢げに胸を張る。


「帝国の林檎は全体的に甘みが強くても、酸味もかなり強いんですよ。だからじっくりと煮詰めて、甘みを更に引き立たせるんです」


セラは、お菓子作りのポイントを得意げに語りながら、タルトをもう一口かじる。そして少しだけ照れたように続けた。


「……それに、美味しいものは、みんなで食べるともっと美味しくなるんですよ」


その言葉に、クラリッサは静かに微笑み、マルタは口いっぱいにタルトを詰め込みながら、元気よく頷いた。エレーネはタルトをゆっくりと味わいながら、隣に座るユリウスの方に、そっと、視線を向けた。


セラは最後の一口を食べ終わり、口の中に広がる甘い香りをゆっくりと飲み込んだ。部屋には平和で甘い余韻が満ちている。


その、あまりにも穏やかで、温かなこのな瞬間に——


悲劇は訪れる——


その穏やかな空間を破るように、カラン——と金属の落ちる音が部屋に響いた。


唐突で、場違いなその金属音に、全員の視線が音の主へと集中する。


そこにいたのは、エレーネ。


エレーネの片手は、今しがたまで握っていたはずのフォークを落とし、虚空を力なくさまよっていた。

天井を見上げるその目は、虚ろで何も映していない。


やがて、その肉体は重たい頭部が前方へ先行し、テーブルの上の一欠片のタルトへと崩れ落ちる。首は力なく横へと傾き、その後、全身の力が抜け、胴体が下方へ引きずり込まれるように床へと滑り落ちる。頭部も胴体に引っ張られ、うつ伏せに床を打った。


その勢いに引きずられるように、皿とタルトも落下し、パリンという乾いた音を立てて砕け散った。


静寂が、部屋のすべてを包み込む。

まるで時間だけが、この空間から取り残されてしまったかのように——


やがて、異様な沈黙を切り裂くように、マルタの甲高い悲鳴がこだまする。


「エレーネお姉様!?」


マルタはすぐに駆け寄り、エレーネの体を揺さぶる。

しかし、その瞳にはすでに、光というものが完全に失われていた。


現実と非現実の境界線が曖昧になる中で、誰もがただ一つだけを理解していた。

それは——エレーネが、もうこの世にいないということ。


マルタは大粒の涙を流す。

握った手から、エレーネの温もりが少しずつ消えていくのを、ただ黙って見つめていた。


クラリッサは顔を伏せたまま、静かにエレーネの元へ歩み寄る。

膝をつき、そっとその頬に触れた。


表情は誰にも見せない。しかし、微かに肩が揺れる。

そして立ち上がると、無言のまま部屋を後にする。


「あんたが、あんたが殺したんだ!」


マルタの泣き声が室内に響くなか、怒りに震える声がそれに重なる。

リディアが椅子を蹴るようにして立ち上がり、セラを鋭く睨みつけた。

その目には、涙が溢れ出ていた。


「あんたが、菓子に毒を入れた! お姉様を殺したのは、あんただ!」


マルタが、否定しようとリディアの元へ駆け寄ろうとするが、リディアはそれを遮るように、さらに声を張り上げる。


「こいつは人殺しよ! マリー、こいつを捕らえて!」


侍女マリーが静かに頷くと、動かずに座っていたセラの腕を取り、両手首を後ろで軽く拘束する。


セラは抵抗せず、ただ目を伏せたまま、マリーとともに部屋を去った。

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