第3話 村での1日
村の外れ、小さな一つの家。
春の残雪が屋根の縁にほんのりと佇んでいる。
昨夜焼いた菓子の甘い匂いが、まだ部屋に残っていた。
小さな窓からカーテン越しに差し込む陽射しに、体は自然と目を覚ます。
二度寝を企みかけたが、結局、布団を蹴飛ばして起き上がった。
眠たい目をこすりながら窓を開けると、鳥の囀りが澄んだ空気を震わせていた。
階段を降り、工房の扉を開けると、埃がふわりと舞い上がる。壁には干しぶどうの房がぶら下がり、使い込まれた木製の作業台は、小麦粉と焦げ付いた砂糖の跡でまだらに汚れていた。
朝の光が工房に差し込む。
小麦粉をはたいた台で、パイ生地を薄く伸ばしていく。森で摘んだベリーを鍋で煮詰めると、甘酸っぱい香りが立ち上った。とろりと光るジャムを、小さなタルトの器にそっと注ぎ、オーブンに並べる。
すぐに別の生地をこね始めた。胡椒とシナモンを効かせた硬いクッキー生地だ。型で抜いた星と月が、天板の上に散らばり、小さな星座を描いていた。熱いオーブンに追加で入れると、香ばしい匂いが工房中に広がる。
最後は、貴族も好む白いデザート。水に浸したアーモンドをすり潰し、布で絞ってミルクを作る。できたアーモンドミルクを温め、ゼラチンと蜂蜜で固める。小さなガラスの器に注がれたプリンは、窓の光を受けて白く輝く。それを冷やし固める。
そしてタルトを八等分に切り分け、ひとつずつ紙に包む。クッキーは、湿気を避けるために、蓋付きの木箱へ入れる。
プリンは、素焼きの壺に入れ、木綿の布で蓋をして紐で縛り、液漏れや衝撃で割れないよう、籠の隙間に干し草をしっかりと詰めて固定する。
「よし、完成だ」
一連の行程が終わり、額にうっすらと流れる汗を拭った。
扉を引き、そして、菓子たちを外に置いてある荷車へと詰め込み、荷車を引いて、歩み出す。
昨夜のゆるやかに降った雪が溶け、土の道をぬかるませ、それが靴の裏にじっとりと張り付く。
それでも、朝日が背を押すように暖かく、歩みを軽くしてくれた。
菓子でぎゅうぎゅうに詰まった荷車をガラガラと引きながら、石畳の道を進んでいた。甘い香りが風に混じり、通りすがりの人が思わず鼻をひくつかせる。木製の車輪が陽光を受け、乾いた音を軽やかに響かせた。
「……この辺りでいいかな」
視線の先には、白大理石の噴水が輝く広場。木々が影を落とし、学者たちが書物を広げ、子どもたちは笑いながら追いかけっこに夢中になっている。狙いは、もちろん後者だ。
一度深く息を吸い込み、広場に向かって声を張った。
「《銀のひとくち屋》、開店だよー」
その声に、走り回っていた子どもたちの動きが止まる。
ぱっとこちらを振り返り、彼らの瞳が一斉に輝き出す。
「セラおねーちゃん、今日は何があるの?」
「森の赤実を使った小さなタルトとね、香辛木の粉を練り込んだクッキー、それから——杏仁の乳を固めたプリン」
その声に、子どもたちはポケットを探り、小銭を汗ばんだ掌に握りしめて駆け寄ってきた。
もちろん、子どもの小遣いで買える程度の安価なものだ。
いくら売れたところで、大した儲けにはならない。
昼下がり、太陽が空の高みに弧を描く頃には、荷台の菓子はすっかり売り切れていた。
「ふぅ……今日も完売、っと」
セラは一息ついて荷車の取っ手を握り、村外れの道へと歩き出す。
その道は木々が生い茂り、ほとんど獣道に近い細い小道だった。ぬかるんだ坂道を前に、荷車を押すのは難しいと判断し、彼女は道の脇に荷車を置き、身ひとつで登っていく。
やがて木々の切れ間から広い土地が現れる。そこには黒く焼け崩れた瓦礫が、今もなお灰色の残骸をさらしていた。その周囲を、石造りの古びたアーチが囲っている。
セラはそのアーチをくぐり、瓦礫の前に立つと、静かに手を合わせ目を閉じた。しばしの祈りの時間が流れる。
その背後から、柔らかく年老いた声がした。
「あら、セラちゃんじゃないの? 今日もここに来ていたのね」
振り返ると、散歩中の高齢の女性が、優しい笑みを浮かべてこちらへ近づいていた。
「あれからもう12年になるのね。孤児院が突然燃え上がり、管理人さんと二人の子供が亡くなった、あの悲しい夜から……」
女性の視線が瓦礫に注がれる。セラも同じ方向を見つめ、静かに頷いた。
「ええ。私はここで育ちましたから。忘れないように、こうして祈りを捧げに来ているんです」
12年前、炎に包まれた孤児院の跡地は、いまも荒れたまま残されている。その後、ヴァウドの手によって別の場所に新しい孤児院が建てられ、子どもたちはそちらに移された。
セラもそこで暮らすことになったが、彼女は以前から心を寄せていた菓子作りを始めた。孤児院での生活の傍ら、小さな台所を借りては試作を繰り返した。
そして16歳を迎えたとき、ヴァウドから支援の資金を受け取り、彼女はついに菓子売りとして歩み始めたのである。
「そういえば、セラちゃん……帝都に引っ越して、お菓子を売ろうとしているんですってね」
女性は思い出したように顔を上げ、穏やかに問いかけてきた。
「ええ、そうなんです。帝都の菓子作りを学びながら、いずれは私のお菓子が世界中に広がるのが夢でして」
セラは柔らかく微笑んで答えた。
だが、その言葉の半分は仮面にすぎない。本当の目的は、帝都に潜む魔女たちを狩ることだった。
人が多い帝都は人間関係を築きやすく、また魔女同士が互いに身を隠しつつ交流を持つ場所でもある。だからこそ、そこに潜り込み、確実に魔女を狩る好機をうかがおうとしていたのだ。
「まぁ、素敵な夢じゃないの。応援しているわ。帝都へ行っても、この村からずっと見守っているからね」
女性はそう言って手を振り、ゆっくりと立ち去った。
セラも軽く手を振り返し、再び瓦礫の前で静かに祈りを捧げた。
日がオレンジ色に染まり、村のあたりを柔らかく照らし始めた頃。
セラは、自分の分として残しておいたクッキーを齧りながら、荷車を引いて帰路についた。
帰り道、セラはいつものように村の小道を抜けていた。
小さな丘の向こうの夕陽が家々の屋根を照らし、長い影が土の上に伸びている。
子どもたちは「また明日ねー!」と手を振り合い、父親たちは仕事帰りの疲れた足取りで家路を辿る。
整備された土道を荷車が転がる音が、夕暮れの空気に低く響いた。
この村には豪奢な劇場も遊技場もない。
けれども、人々は自然と共に働き、笑い、慎ましくも温かい暮らしを送っている。
——この村に魔女などいない。今日もまた、変わらぬ一日が終わろうとしていた。
「ちょっとアンタ! 何してんのよ!」
「ち、違うって! 誤解だってば!」
突然、民家の前から男女の言い争う声が飛び込んできた。
振り向くと、ふくよかな女性——エディが、やせた男——マイを指差して怒鳴っている。
村では仲睦まじいことで知られる夫婦だが、喧嘩?というよりは、こうして妻が一方的に怒っている姿も日常の一部だった。
セラは荷車を引きながら、ふたりへ歩み寄る。
「どうかされたんですか、エディさん?」
待ってましたと言わんばかりに、エディが勢いよくセラの方を振り向いた。
「セラちゃん聞いてよ! このマイったらあたしが仕事で家を開けてる間に、他の女をうちに連れてきたのよ!浮気よ!浮気!」
「ちょ、ちょっと! それは違うって、誤解なんだ!」
「まぁまぁ、ちょっとお二人とも落ち着いて」
セラは荷車を脇に寄せ、2人の間に割って入った。
「ちなみに……その浮気って、一体どうしてそう思ったんですか?」
エディは、セラを手招きする。
扉を勢いよく引き、セラを家の中へ通した。
壁は古びた木材で組まれ、ところどころに煤が残っている。
角の暖炉にはまだ火の名残があり、上には鉄鍋と乾かし中のスープ用の匙が吊るされていた。
窓際には、エディが育てている鉢植えのハーブや小さな花が並び、外から射す光が差し込む。
マイはセラの背中に、怯えた表情を隠しながら後に続く。
居間に入ると、床の上に一本の、細く長い白銀色の毛が落ちていた。
エディはそれをつまみ上げて、勝ち誇ったように見せつける。
「ほら、見て! これ! これが浮気の証拠よ!」
エディの髪も、マイの髪も茶色で短い。
どう見ても、この銀色の毛は彼らのものではなかった。
「この髪の毛のツヤ……セラちゃんの髪に似てるわねぇ?」
エディがニヤリと笑い、セラをじろりと見た。
セラは落ち着いて静かに片手を振る。
するとマイが、胸を張って叫んだ。
「セラなもんか! 俺が惚れてるのはエディだけだ! エディ以外の女なんて、ゴミ以下だ!」
セラはどうやらゴミ以下らしい。
しかし、エディの方は頬をほんのり赤らめ、まんざらでもなさそうだ。
「やだもう……そんなこと言って……。
……で、なら何で浮気したのよッ!」
再び声が爆発し、マイの悲鳴が響く。
セラは思わずため息をついた。
セラは、また口論を続ける二人の隙を突いて、エディの手からするりと髪を抜き取った。
エディは気づく様子もなく、マイを睨み続けている。
セラは指先で白銀の髪を持ちながら、家の中を静かに見渡した。
床から壁際まで目を走らせ、光の角度を変えながら髪を近づけたり、そして片膝をつき鼻先で匂いを確かめたりする。
それは異様なほどに細く、まるで糸のような滑らかさを持っていた。
淡く光を返し、匂いは無い。
片膝をついたまま、セラは髪に視線を逸らさず言葉を落とす。
「もし旦那様が本当に浮気をしていたのなら……こんな目立つ場所に、証拠を残すはずがありません」
その声に、言い争っていた二人の視線が意識と同時にセラへと向く。
静寂が一瞬、部屋を包んだ。
「それに、奥様も旦那様も短髪。女性を連れ込んでいたとしても、こんな分かりやすい場所に髪を落とすなんて、あまりにも不用心です」
セラが淡々と話すと、エディは食い気味に言い返す。
「それは当然よ! マイはポンコツで仕事もできないのよ! 証拠を隠すなんて高尚なこと、できるわけないでしょ!」
「……なるほど、それも一理ありますね」
セラは苦笑しつつも、髪から目を離さない。
「けれど、もしこの髪が本当に人間のものなら、この家のどこかに痕跡が残るはずです。
髪を洗ったり、梳いたり……そんな形跡が。けれど、それが見当たらない」
セラは髪を指で滑らせ、窓の光に透かす。
「それに、この光沢と細さ。どうにも人間の髪とは思えません。
そして無臭です。浮気相手なら、香水の一つでもつけているでしょうに」
セラは一呼吸置き、静かに結論を告げた。
「この髪は……人間のものではありません」
「なら、これは一体なんなんだ?」
マイが首をかしげる。
するとエディが、はっとしたように声を上げた。
「そういえば! どこかで見たことあると思ったら……これ、絹じゃない!」
エディは髪のように見えたそれをひょいとつまみ上げる。
「ハルバン家から絹織物の注文があってね、あたしが糸を編んでたのよ。それが服に引っかかって落ちたんだわ」
セラは穏やかに頷いた。
「なるほど……それなら納得です。つまり、旦那様は浮気をしていないということですね」
エディは太い腕をマイの肩に回し、どっしりとした笑みを浮かべた。
「当然よ! あたしのマイが浮気なんてするはずないでしょ!」
マイは、安堵したように息を吐く。
「僕が愛してるのは、エディだけだよ」
お互いが見つめ合う。
エディの逞しい腕がマイの華奢な体を包み込み、
その温もりが部屋いっぱいに広がる。
だがマイの腕は、彼女の豊かな胴回りに阻まれ、背中には届かない。
彼は彼女の腹にそっと頬を寄せるのが精一杯だった。
そして——2人の顔がゆっくりと近づく。
完全に2人だけの世界。
セラは、そっと視線を逸らし、静かに手を振って家を出た。
外に出ると、空はすでに夕焼けに染まり、
太陽は丘の向こうに沈もうとしていた。
橙から群青へと変わる空の下、影がゆっくりと闇に溶けていく。
「……ほんと、仲がいいな」
セラはそう呟きながら荷車を引き、歩き出した。
違う者同士なのに、どうしてこんなに惹かれ合えるんだろう。
そんなことを考えながら、セラの影も夜の中へ溶けていった。
部屋に戻ると、ランプの温かな橙色の光が狭い空間を満たしていた。
布団の脇の小机には木製の筒が置かれている。セラは袋から小銭を取り出し、からん、とその中へ流し込む。すでに底に溜まっていた硬貨が重なり、わずかに水位が上がるように見えた。
「うーん……まだ足りないなぁ」
セラは拳で顎を押さえ、唸るように呟く。帝都へ行くためには、もっと多くの資金が必要だった。けれど、菓子売りだけで稼ぐには時間がかかる。
「誰か、どーんと大金をくれる依頼でも持ってきてくれないかな……」
ぼやきながらランプの火をふっと吹き消す。
そのまま布団に倒れ込み、身じろぎもせず眠りへ落ちていった。
こうしてセラは、村で菓子売りとしての変わらぬ日々を送っていた。
セラは、今日もいつも通り目を覚まし、菓子を作り、売りに出かける。
いつもと同じ日常——。
ただ、一つを除いては。
広場に現れた女は、赤や紫の鮮やかなドレスをまとい、腰の曲線を強調する仕立てをしていた。
髪には宝石の散りばめられた飾り、首元には光り輝く首飾り。陽の下でその美貌はいっそう際立っている。
見ればわかる。絵に描いたような金持ちだ。
そう思った瞬間、その「金持ち」が自分に声をかけてきた。
「セラ、あなたの噂は聞いているわ。美味しいお菓子を作っているんですってね」
女は艶やかに微笑み、自らをリディアと名乗った。
「うちの家族にも、あなたのお菓子を振る舞ってちょうだいな。どうせ露店で安売りするより、私たちの食卓に並ぶ方が光栄でしょう?」
この村の水源を独占し、村人を見下す態度で知られる地方貴族、ハルバン家——その娘が目の前に立っていた。リディアの言葉尻に、セラの胸に小さな苛立ちが灯る。
「もちろん、報酬は出すわ。金貨30枚でどうかしら?」
次の瞬間、セラの首は条件反射のように縦に動いていた。




