第26話 友達
セラは菓匠ギルドへと戻って行った。
道中、遅刻した理由を何にするかを考えていた。
——今日は、何も起こらないはずだった。
だが、菓匠ギルドに近づいた瞬間、違和感を覚える。
どういうわけか、荒れた声が飛び交っていた。
「人殺し!消えろ!」
ジーニョの怒声だった。
息を詰め、セラは足早に建物へ向かう。
玄関前には、二人の衛兵が立ち、その中央でクサンドラが拘束されていた。
その横で、ジーニョが顔を紅潮させ、何度も暴言を吐いている。
ニコと、ヌノは少し離れた場所に立ち、止めることもできず、ただ俯いていた。
衛兵の手には、はっきりとした証拠が握られていた。首吊り偽装に使われた、あのロープ。
セラは、思わず息を呑んだ。
(……クサンドラが、自分から……?)
衝動的に、セラは駆け寄る。
拘束されていたクサンドラが、それに気づき、ゆっくりと顔を上げた。
「あ……よかった、会えた……セラ」
その声は、妙に穏やかだった。
セラが一歩踏み出そうとした瞬間、左右の衛兵が進路を遮る。
「近づくな」
冷たい声が告げられる。
「この者は、実の兄を殺害し、それを自殺と偽装。
さらに、菓匠ギルドの親方に対する殺害未遂を起こした極悪人だ!」
胸の奥が、ぎしりと音を立てた。
(最悪……)
魔女は、もう死んでいる。
目的は、すでに果たされたはずだった。
それなのに——クサンドラが捕まることに、何の意味がある?
これは、あの魔女が望んだ結末そのものだった。
その時、ギルドの扉が、ゆっくりと開いた。
現れたのは、やつれきった顔のセリーヌだった。
目の下には濃い影が落ち、唇は強く噛み締められている。
彼女は、暴言を吐き続けるジーニョを制するように一瞥し、まっすぐに、クサンドラのもとへ歩み寄った。
「……同じ、ギルドの仲間だったの。
最後に、触れさせて……」
セリーヌの言葉に、衛兵たちは一瞬ためらい、互いに視線を交わしたあと、静かに頷いた。
セリーヌは、拘束されたクサンドラの前に立つ。
そして、微笑んだかと思った次の瞬間——
——パシン!
乾いた音が響く。
セリーヌの平手が、クサンドラの頬を打った。
だがその直後、セリーヌは腰を落とし、クサンドラを強く、そして優しく抱きしめた。
「……バカ!クサンドラ……」
震える声。
堪えきれずに溢れた涙と鼻水が、クサンドラの白い衣を濡らしていく。
クサンドラはそれを拒まず、ただ受け入れていた。
やがて、セリーヌは袖で涙を拭い、何も言わず背を向ける。
そのまま、ギルドの中へと戻っていった。
残されたクサンドラの視線が、ゆっくりとセラへ向けられる。
「セラ……アンタは、オラを……友達だと思ってくれるかい?」
その瞳には、はっきりと涙が溜まっていた。
——そんなことは、本当はどうでもよかった。
このまま連れて行かれれば、クサンドラは処刑される。
それが、セラには分かっていた。
衛兵たちはクサンドラの体を反転させ、セラたちに背を向けさせて歩き出す。
(言え。今、言え。
クサンドラは誰も殺していない。
セヴェリを殺したのは魔女で、クサンドラはロープを切っただけだ。
今言わなければ——)
セラは、クサンドラの背中を追って駆け出した。
「待って!」
鋭い声が響き、衛兵たちの足が止まる。
「どうした!」
強く問いかけられる。
(事実を言え。事実を言えば、クサンドラは助かる。)
クサンドラが振り返る。
涙で歪んだ顔が、セラを見つめている。
セラの喉が、震えた。言葉が、出てこない。
大きく息を吸い——
それでも、口から出たのは、たった一言だった。
「……友達だよ!」
それだけだった。
「……そうか」
クサンドラは、力なく呟いた。
だがその顔は、セラが一度も見たことのない、
澄み切った、綺麗な笑顔だった。
再び、衛兵たちが歩き出す。
セラは、その場で拳を強く握りしめる。
爪が食い込むほど、強く。
なぜ、クサンドラが、あの最後の瞬間に、笑っていたのか。
——セラには、理解できなかった。
今日の修行は、親方の不在のまま行われた。
セリーヌも、まだ心の傷が癒えないのか、自室にこもって姿を見せない。
工房にいるのは、ヌノとジーニョ、そしてセラの3人だけだった。
セラは、今日もバター焼き菓子を作る。
親方が口癖のように言っていた、気温、湿度、手の温度、混ぜる速度——それらを一つ一つ意識し、慎重に。
焼き上がった菓子をひと口、かじる。
ふわりと広がる濃厚なバターの香り。
緩やかな甘さが舌に伝わり、2口目も変わらず、香りにムラはなかった。
セラは満足そうに小さく笑みを浮かべ、そのまま、すべて平らげてしまう。
やがて、工房に差し込む光が、ゆっくりとオレンジ色へと染まり、いつもの修行の終わりの時間が訪れる。
親方がいない今日は、3人で声を掛け合い、自然と作業を終えた。
ヌノとジーニョは、軽く言葉を交わしながら二階へと上がり、それぞれの部屋へ戻っていく。
セラもまた階段を上がり、ベランダへと出た。
夕暮れの空は、今日も何事もなかったかのような鮮やかさで広がっている。
風はなく、世界は静かで、すべてが穏やかだった。
やがて空は群青色へと移ろい、完全な夜が訪れる。
太陽の代わりに、星の光が、静かにセラを照らしていた。
何度目になるかわからない満天の星空。
それでも、飽きることはない。
同じ夜空でも、毎日、少しずつ違う表情を見せてくれる。
「……綺麗だな……綺麗だな」
ぽつりと漏れた声に、応える者はいない。
セラは、星を見上げたまま、静かに呟いた。
「こんなに綺麗な星空を……
クサンドラも、どこかで見ているといいな」
夜空は、何も答えず、ただ瞬いていた。




