第24話 菓匠ギルドの魔女⑤
次の日の朝。
クサンドラは、特に何もしていなかった。
その静けさが、かえって不気味だった。
昨晩、彼女が口にした「これからやること」。
その意味は、はっきりとした言葉にならないまま、重たい予感としてセラの頭の中に残り続けていた。
菓子作りに集中しようとするほど、視線は無意識にクサンドラへと向かう。
彼女はいつもと変わらず、淡々と作業をこなしているように見えた。
——見えただけだったのかもしれない。
昼を挟み、無言の修行は続き、やがて工房全体をオレンジ色に染める夕刻が訪れる。
「さて、今日も終わりだ」
親方の声を合図に、弟子たちは道具を置き、言葉少なにそれぞれの部屋へと戻っていった。
だが、クサンドラだけが、しばらくその場を動かなかった。
「おい。どうしたクサンドラ?今日はもう終わりだぞ」
親方が近づく。
——嫌な予感。
それは理屈ではなく、本能だった。
クサンドラは、作業を終えても道具を片付けず、テーブルの陰に手を残したまま立ち尽くしていた。
次の瞬間。
彼女は、そこに隠していた包丁を引き抜いた。
刃が夕日の光を反射し、セラの視界に鋭く突き刺さる。
「な——」
親方が声を上げるより早く、クサンドラは包丁を振り上げていた。
考えるよりも先に、体が動いていた。
セラは二人の間へと踏み込み、半身を無理やり割り込ませる。
クサンドラの目が、一瞬、見開かれた。
だが、そのまま覚悟を決めたように、刃は振り下ろされる。
刃が、セラの肩をかすめる。
焼けるような痛み。
血が、じわりと滲む。
包丁は、そのまま親方の胸へと突き立てられていた。
「……ぐ……」
親方の白い衣が、赤く染まっていく。
クサンドラは、倒れゆく親方を見下ろし、一歩、また一歩と後ずさった。
その顔に浮かんでいたのは、勝利でも、恐怖でもなかった。
ただ、何もない、空白。
そして、振り返ることなく、彼女は走り去っていった。
セラは振り返り、倒れ込む親方の体を抱き留めた。
親方の身体は思った以上に重く、腕にずしりと伝わる。
セラは素早く親方の上着をはだけ、傷口を確認する。
刃は深くは入っていなかった。おそらく包丁は肋骨に阻まれ、内臓までは達していない。
——だが、出血は酷かった。
「……大丈夫、死にはしません」
自分に言い聞かせるように呟きながら、セラは工房の棚へと手を伸ばす。
菓子作り用の酒壜を掴み、ためらいなく傷口へと注ぐ。
親方が小さく呻く。
セラは気にも留めず、肩から下の袖を引き裂き、即席の布として傷口をきつく縛り上げた。
その拍子に、自分の肩の傷が露わになる。血が腕を伝い、白い床を赤く染めていく。
その時だった。
「……さっき、大きい音がしたんですけど……大丈夫ですかぁ……?」
のっそりと、工房の扉が開く。
顔を覗かせたヌノは、状況を一瞬で理解したのか、言葉を失った。
「ヌノ!」
セラは顔を上げ、強い声で叫ぶ。
「軟膏を持ってきてください! あと止血用の布、大量に!」
「わ、わかった!」
ヌノは弾かれたように踵を返し、工房を飛び出していった。
「……セラ……」
親方がかすれた声を出す。視線が、セラの血に染まった肩へと向く。
「お前も……血が……」
「黙っててください」
即座に、低く言い切る。
「私のは軽傷です。今はあなたのことだけ考えてください」
「……はは……」
親方は小さく息を吐き、天井を見つめた。
「クサンドラは……そこまでして、親方になりたかったのか……
あんなに……優しい子だったのにな……」
「今は喋らないでください。血圧が下がります」
「……俺には……分からん……」
それ以上、親方は何も言わなかった。
セラも、言葉を返さなかった。
返す言葉が、見つからなかった。
やがて、慌ただしく扉が開く。
ヌノが、両腕いっぱいに布と軟膏を抱えて戻ってきた。
そのすぐ後ろから、杖を突きながらジーニョも姿を現す。
「ちくしょうめ! アイツ……やりやがったのか!」
ジーニョは怒りを剥き出しにして叫んだ。
セラは、親方の胸に巻いていた布を一度ほどき、軟膏を塗り直す。
新しい布を重ね、きつく縛り直した。
その間に、ヌノがセラの肩へと手を伸ばす。
「セ、セラも……動かないで」
血に濡れた肩を布で拭い、慎重に軟膏を塗る。
その上から、布を巻きつけ、確実に止血していった。
やがて、出血は落ち着いた。
親方は深く息を吐き、そのまま力が抜けるように眠りに落ちた。
ようやく訪れた静けさだった。
セラとヌノは二人がかりで親方を支え、二階へと運ぶ。
親方の部屋のベッドに横たえ、毛布をかける。
「……もう、大丈夫です」
セラは額の汗を拭った。
「そうか……よかったよ……」
ヌノは心底安堵したように息を吐く。
「くそ……!」
ジーニョが拳を握りしめる。
「セヴェリが死んだ時から、クサンドラを捕まえとくべきだったんだ!最初から怪しいと思ってた!」
その言葉に、セラは何も返さなかった。
ただ、扉へと向かう。
「私、クサンドラを追います」
そう告げて、ドアノブに手をかける。
「おう! そうだな!あんな殺人鬼、野放しにできるか!」
ジーニョの声が背中に投げつけられる。
——だが、セラは振り返らなかった。
自分がクサンドラを追う理由。
それがセラ自身にも、はっきりとは分からなかった。
玄関の扉を乱暴に開け、夜の街へと駆け出す。
冷たい夜風が、肩の傷に鋭く沁みる。
空には、今日も星一つ、浮かんでいなかった。
クサンドラは、小さな公園のベンチに一人、座っていた。
街灯の届かない暗闇の中でも、セラはそれがクサンドラだと自然に分かった。
「……クサンドラ」
セラは声をかけ、その隣に腰を下ろす。
「セラ……なぁ、セラ」
闇の中で表情は見えない。
それでも、かすかな声の震えだけは伝わってきた。
「オラ、成功したよ……
セヴェリは死んだ。親方も死ねば、次期親方はオラだ。
目撃者のセラは黙っててくれる。
——オラは、親方になれるんだ」
その声は、歓喜に歪んでいた。
だが、セラは知っている。親方は生きていることも。
セヴェリを殺し、親方を刺したのがクサンドラであることも。
「……クサンドラ」
セラは、自分でも説明できない感情を胸に押し込めながら、口を開いた。
「セヴェリを殺したのは、クサンドラでしょう」
「……どうやって?」
クサンドラは、子供のように楽しげな声を出す。
「オラ一人じゃ無理だぞ。あの大きな身体を、どうやって吊るした?」
セラは静かに息を吐いた。
「滑車を使ったの」
クサンドラが、ぴたりと動きを止める。
「倉庫の天井に、返しのついた杭を打ち込んだ。そこにロープを通して、簡易的な定滑車を作った。
一方のロープは、首を吊るための輪っかと固い結び目を作り、何重にも重ねた重たい木箱を噛ませて固定。もう一方には、セヴェリが使っていた漁獲用の太い網を繋ぎ、天井付近まで引き上げる。その網の上に、五袋分の小麦粉を積み上げた」
夜風が、二人の間を抜ける。
「セヴェリは毒で殺した。その後、床に這わせたロープの輪に、彼の首を通した。……包丁で木箱側のロープを切れば、反対側の小麦粉の重さで、セヴェリの身体は一気に跳ね上がる。この時、ロープの結び目は勢いよく杭の輪っかを通り抜ける。
最後に、網側のロープを切る。小麦粉が地面に落ちると、今度はセヴェリ自身の重みでロープが逆方向に引き戻される。……でも、結び目はもう輪っかを戻れない。杭に設けた返しに、深く、確実に食い込むから。
一度噛めば二度と外れない。……大男のセヴェリを、小柄なあなた一人の力で吊るし上げた、完璧な偽装自殺の完成よ」
クサンドラは、長く息を吐いた。
「……そうか」
その声には、もう勝利の色はなかった。
「動機は単純よ。次期親方になるため、障壁となるセヴェリを排除する。
そして、親方に罪を被せるつもりだった」
セラはそう言い切った。
「……それが、どうしたんだ」
クサンドラは、低い声で言った。
「え?」
「それがどうしたんだって聞いてるんだ」
短い沈黙。2人の間に吹く風が、公園の木々を揺らす。
「セラは……オラのやったことを全部分かってても、誰にも何も言わなければ……誰にも、バレない……だろ?」
その声には、もう強さはなかった。縋るようない声だった。
「……どうして、私が誰にも言わないとでも思うのですか?」
「え……なんでだ……?」
クサンドラの声が、わずかに震える。
「セラ……どうしてって……」
言葉が詰まり、途切れる。そして、絞り出すように、小さく、弱く呟いた。
「……友達……だろ?」
セラは、言葉を失った。
友達という概念が分からないわけではない。
ただ——その言葉が、自分に向けられる理由が分からなかった。
2人で夕景を眺めただけの関係。
それ以上でも、それ以下でもなかったはずなのに。
「セラは……そっちから、オラに話しかけてくれた」
クサンドラは続ける。
「大抵の人はな……一回話して終わりだ。オラの骸骨みたいな顔を見て、次は避ける」
夜の闇に溶ける声。
「でも、セラは……何回も話しかけてくれただろ……」
セラは、ゆっくりと息を吐いた。クサンドラには聞こえないように。
(私が話しかけていたのは……後々、魔女を見つけるために被っていた、偽りの仮面だったのに)
その仮面が、相手の心にここまで深く入り込み、狂気にまで染めてしまうとは——
セラは、想像すらしていなかった。
「セラも……オラを友達だと思っとるよな……」
闇に沈んだクサンドラの顔が、セラを向いた。
光のない夜の中で、その視線だけがやけに重く感じられる。
「……」
セラは、答えられなかった。
嘘をつき生きているセラにとって、嘘をつくことなら、慣れている。
「友達だよ」と言うだけでいい。簡単な嘘。
それだけで、この場は穏便に終わるはずだった。
その言葉は、いつもなら軽い。
だが今は——
「友達」という2文字が、喉の奥で形を持ってしまっていた。
弾力を持ち、異様な密度でつっかえる。
熱を帯びた何かが、内側を這い回り、呼吸を邪魔する。
吐き出してしまえば、きっと楽になる。そう分かっているのに、声が出なかった。
「……そうか」
クサンドラは、小さく息を吐いた。
「あれだな。真の友達ってのはさ、言葉にしなくても友達なんだろ」
笑うような声だった。だが、その笑いはどこか諦めていた。
そして、何かを手放すように立ち上がる。
振り返り、セラを見る。
「セラ……アンタの推理は立派だ。筋も通ってる」
一瞬、セラの胸がざわつく。
「だがな……その推理は、間違ってる……」
星の明かりも、月の明かりもない闇の中では、表情は読めない。
虚勢なのか、真実なのか——判断できなかった。
「それじゃあな……また、会おうな……」
セラは、何も言えず。ただ、その背中が闇に溶けていくのを見送った。
『推理は間違っている』
セラの脳内で、その言葉が何度も反復される。
遠ざかっていくクサンドラの背中を追いかけ、呼び止めることもできたはずだった。
だが、体が動かなかった。
まるでセラ自身が、夜の公園のベンチに縛り付けられているかのように、足も声も、その場から離れようとしない。
(……どこも、間違っていないはず)
そう思いながら、セラはもう一度、頭の中で推理をなぞる。
何度も。そのたびに、「友達」という言葉が、思考の隙間に割り込んでくる。
結局、答えは出なかった。
どれだけ考えても、どこが違うのか分からない。考え続けた末に残ったのは、理由の掴めない疲労感だけだった。
夜の冷え込みを感じ始めた頃、ようやく、体を縛っていた緊張が解ける。
(今回の件は、クサンドラの殺人。魔女は一切関係ない。私は何も関係ない……)
セラは自己暗示のように頭の中で何度もそう思いこむ。
セラはポケットからチョコレートを取り出し、一つ口に入れた。今日は、やけに苦い。
もう一つ。もう一つ。
何かを埋めるように、考える前に噛み砕く。
気づけば、袋の中は空になっていた。
「あっ……」
小さく声を漏らし、セラは額に手を当てる。
ふと、親方の姿が脳裏に浮かんだ。
以前、チョコレートを口にしていた時に向けられた、あの強烈な視線。
「……親方なら、これも……また、作れるのかな……」
セラは、苦く笑う。
「でも、どうやって作るんだろう……」
セラはベンチから立ち上がり、夜の道を帰路へと向かう。
『再現性だ……』
どこからともなく声がした。
いや、違う。セラの頭の中で鳴り響く、あの親方の声だった。
『全ての結果には、必ず理由がある』
何度も、何度も、繰り返される。
(そうだ……今回の件は、クサンドラがセヴェリを殺した、と判断してきた)
それ自体は、結果として間違っていない。
動機も、手段も、状況も揃っている。
——だが。
(それでも……なぜ、こんなにも強烈な違和感が消えない?)
『気温、湿度、衛生状態。混ぜる速度、時間、手の温度。
——すべてが本当に同じかを疑え』
親方の声が、鋭く割り込む。
(同じように見えて……同じじゃなかったもの)
セラは歩きながら、思考を一気に巻き戻す。
セヴェリの死体。自殺偽装。粉塵。ロープ。
そして——魔女が関わっていないという前提。
(一度、最初から見直せ)
頭の中で、点と点が重なり始める。
重なっていたはずの出来事が、わずかにズレていたことに気づく。
(……まさか)
喉が、ひくりと鳴る。
(そんなはずがない。だが、もしそうだとしたら——)
今回の事件に、魔女が関わっていなければ説明がつかない。
セラは、自分が辿り着いてしまった結論に、ぞっとする。
(……あまりにも、残酷で悲惨な真実)
それは、魔女が“真相を隠した”のではない。
推理そのものを、意図的に“正しく見せた”罠だった。
夜の雲が流れ、空が開ける。
星の光が、ようやくセラの顔を照らした。
セラの口角が、ゆっくりと吊り上がる。
——セラは、魔女を見つけた。




