第21話 菓匠ギルドの魔女②
セラはセヴェリの遺体の周囲を確認した。
倉庫の中は、石造りであり涼しく保存性を高めている。
周囲には巨大な木箱が山積みにされている。
セヴェリの遺体を挟むようにして、その反対側の石壁には、小麦粉の紙袋が立てかけられていた。
セヴェリの足元に、小さな布袋がひとつ、その下に一枚の紙が落ちているのに気づく。
袋を開け、指先に少量を乗せると、砂糖に似た細かさだった。それでも、鼻を刺す腐臭を漂わせる部屋の中からでも、甘い香りが立ち上ってくる。
そして、紙の方に視線を送る。誰かが、手書きで書いたような筆跡だった。
『俺は、親方の不正を知ってしまった。
この袋にあるのは毒だ。甘味のある毒だ。
これを砂糖とすり替えて、商業区で、他の障壁となりそうなギルドへ送り、食べさせて殺していた。そうして、独壇場となった商業区で、親方ひとりが勝ち残るつもりだったようだ。
俺は、自分が嫌になった。
心の底から信頼していた親方が、まさか、こんな極悪人だったとは。人生を捧げるつもりだった菓子作りが、こんなにも汚れてしまった。
俺は、もう生きていけない。すまない。
——セヴェリ』
(……ありえない)
セラは、宙吊りになったままのセヴェリの遺体を、もう一度じっと見上げた。
違和感は、はっきりしている。
縄に引かれ、首に深く食い込んでいるはずの皮膚が、黒く変色していなかった。
(……ない)
セラは、過去に見てきた数々の死体を思い出す。
本来、縊死体というものは、自重によって首が圧迫され、内側の太い血管が潰されることで脳への血流が断たれて死に至る。
その過程で必ず内出血が起こり、首元には黒ずんだ痕が残る。
だが、この遺体にはそれがない。
首は締まっている。
だが、死に至るほどの圧迫が、そこにあった痕跡が見当たらない。
(……自殺じゃない)
ロープを輪っかに結んで吊っているのではなく、杭の返しに結び目が引っかかっているだけで、かろうじて吊り下がっている状態だった。
この事件は、どう見ても自殺に見せかけた他殺だった。
セラは、自然と最悪であり、最高の可能性を思い浮かべてしまう。
——魔女。
魔女は、自らの痕跡を残すことを何よりも嫌う。
辿られれば、次に寄生した人間の命が危うくなるからだ。
だから、突然死を自殺に見せかけて遺体を残す。
そんな事例を、セラは一度や二度ではなく見てきた。
(……人間による他殺か、それとも、魔女が乗り移ったあとの抜け殻か)
——判断材料が、まだ足りない。
そう思った瞬間だった。
「きゃあーーーー!!!」
甲高い悲鳴が、セラの思考を一気に引き裂いた。
振り返ると、カーラが宙吊りになったセヴェリの遺体を見上げ、腰を抜かしたまま涙を浮かべている。
(当然ね……)
セラは冷静に理解していた。
自分はこれまで、幾度となく死体を見てきた。
だが、一般の人間にとって、これは耐えがたい光景だ。
——今の自分は、その一般を演じる立場でもある。
セラは意識的に二歩後ずさりし、声を震わせた。
「ひ……ひっ……」
目に涙を溜め、呼吸を乱す。
「わ、私……人を、呼んできます!」
震える足を必死に堪えるような仕草を作り、セラはギルドへ向かって駆け出した。
その、ほんの一瞬。
二階のベランダから——
クサンドラが、じっとこちらを見下ろしていた。
その表情は、距離と影に紛れて、読み取れなかった。
遺体は、ニコの手によって降ろされた。
倉庫の中も、彼が一人で手早く片づけてくれた。
床に散っていた粉や汚れは綺麗に拭き取られ、あの凄惨な光景が嘘だったかのように整えられている。
それぞれの弟子たちは、当然のようにセヴェリの自殺に悲しみに暮れていた。
特にセリーヌは、知らせを聞いた瞬間——
今朝の朝食を思わず床に吐き戻してしまった。
涙を流し、嗚咽を漏らし、声が枯れるほど慟哭する彼女を、セラはずっと抱きしめていた。
「私が……私のせいだわ……」
セリーヌの声は震え、途切れ途切れになる。
「私が……距離なんて取らなければ……
もっと、ちゃんと……セヴェリのこと、わかってあげられたかもしれないのに……」
セラは、ただ静かに背中を撫でることしかできなかった。
——言葉が、見つからなかった。
自分が提案した「距離を置く」という合理的な助言が、結果として彼女の心を深く傷つけている。
(……人の心を、数式みたいに扱った)
セラは、胸の奥で小さく自分を責めていた。
今は理屈ではなく、寄り添うことしか許されない。
セラと、残された4人の弟子、そして親方はロビーに集まっていた。
セラはセリーヌを椅子に座らせ、その傍から離れないようにしている。
水を飲ませ、呼吸を整えさせ、時折、小さく声をかける。
そうしなければ——
セリーヌが、このままセヴェリの後を追いかねないと、直感していたからだ。
——ガチャリ。
ロビーの扉が開く音が響く。
「……掃除は、ある程度終わったよ」
戻ってきたニコの声は、いつもより少し低かった。
「遺体は……後で回収してもらう」
彼の片手には、倉庫に残されていた遺書と、
あの——毒と思われる粉が入った袋が握られている。
「ひっ……」
セリーヌは、遺体という言葉を思い出したかのように、再び泣き崩れた。
セラはすぐに彼女を抱き寄せ、震える肩を包み込む。
「大丈夫……大丈夫です……」
その声が、誰のためのものだったのかは、セラ自身にも分からなかった。
「なぁ……この紙、なんて書いてあるんだ?」
沈黙を破ったのは、ニコだった。
「セヴェリの遺体のそばにあったんだけどさ。
悪い、俺こういう長い文字のやつ苦手なんだ。……誰か読んでくれよ」
空気を読む様子もなく、ニコは遺書をジーニョに差し出した。
セラの背筋に、嫌な予感が走る。
(……それは、今、読むべきじゃない)
だが、声を出すより早く——
ジーニョは杖を脇に抱え込み、両手で遺書を広げていた。
「……え?」
かすれた声が、落ちる。
「親方が……毒を使って、他のギルドを殺してた……?」
その瞬間、ロビーの空気がざわめいた。
「な、なに言ってるんだよ……」
「そんな……じゃあ……」
混乱が、連鎖する。
「じゃあこれって……!」
ジーニョの声が、次第に荒くなる。
「親方のせいで、セヴェリは死んだってことじゃないか!!」
怒りの視線が、一斉に親方へと突き刺さる。
「そ、そんなはずがあるか!!」
親方は声を裏返らせ、両手を振った。
「俺は……俺はそんな毒なんか知らねぇ!!
知ってるはずがないだろ!!」
だが、その否定はあまりにも必死だった。
「知らない、だと?」
ジーニョはよろめくように一歩踏み出し、
ニコの手から袋をひったくる。
「これが、その毒だって書いてあるんだぞ!!」
白い袋を、親方の目前に突きつける。
「どういうことなんだよ!!説明しろよ!!」
親方の喉が、ごくりと鳴る。
額に、汗が浮かんでいた。
——混乱が、暴力的に場を支配していく。
セラは、全員の様子を一歩引いた位置から見ていた。
(……罠だ)
遺書は、あまりにも都合が良すぎる。
感情が荒立つよう、正確に言葉が選ばれている。
だが。
(……彼らに、そんな冷静な判断はできない)
今この場にあるのは、論理ではなく、喪失と怒りだけだ。
そして——
この混乱を、誰かが待っていたとしたら。
セラは、胸の奥で静かに思考を巡らせた。
(……この状況で、誰が得をする?)
セラは、胸の奥でそう問いを立てた。
ふと、昨夜のクサンドラの言葉が蘇る。
『時期親方に……オラが、なりたい……』
確かに、この混乱の中で、最も大きな損失を被るのは親方だ。
信用を失い、他ギルド毒殺疑惑までかけられ、立場は一気に崩れる。
そして、セヴェリは死んだ。
次期親方候補が消えた今、自然と名前が上がるのは——クサンドラ。
(……筋は、通ってしまう)
もし、セヴェリが他殺だったと仮定すれば。
毒を盛り、死因を作り、その後、縄を使って自殺に見せかける。
方法としては、成立する。
——だが。
(……それでも、何かが引っかかる)
答えに辿り着く前に、現実が思考を引き裂いた。
「……お前、許さねぇぞ」
低く、震えた声。
ジーニョが、親方を睨みつけていた。
杖に体を預けながらも、一歩、また一歩と距離を詰める。
「ジーニョ……っ、やめろ!」
親方も構え、空気が張り詰める。
「だ、だめだよ! そんなことしちゃ!」
ヌノが二人の間に割って入る。
だが、ジーニョはヌノの肩を乱暴に掴み、
視線だけは親方から外さず、怒りを吐き出す。
怒声が、飛沫のように飛び交う。
(……このままじゃ、取り返しがつかない)
セラは、静かに息を吐いた。
そしてゆっくりと、立ち上がる。
理性も論理も吹き飛びかけているこの空間で、
彼らを現実へ引き戻せるものは、論理しかなかった。
「皆さん。この遺書が本当であると、今この場で断定することはできません」
セラは、あえて感情を込めず、全員に届くようにはっきりと言葉を投げた。
「ましてや——これは、嘘である可能性の方が高いです」
「どういうことだ!」
ジーニョの怒気を孕んだ視線が、今度はセラへ向けられる。
だが、セラは一切ひるまず、そのまま言葉を重ねた。
「この菓匠ギルドは、ほとんど販売を行っていません。
親方は朝から晩まで工房に張り付き、私たち弟子の作業から一瞬たりとも目を離していない」
セラは、順に弟子たちの顔を見る。
「親方が商業区へ出向き、毒を運び、他ギルドと接触する——
そんな時間は、ここには存在しません」
ヌノとニコは、はっとしたように表情を緩める。
ジーニョも怒りは薄れたが、まだ納得には至っていない。
「……じゃあ、この遺書は誰かが用意したって言いたいのか?」
「断定はしません」
セラは、即座に首を横に振った。
「もちろん、親方による不正や毒殺を完全に否定することもできません。
実害が確認されていない以上、未遂、あるいは隠蔽されている可能性も考えられます」
それはただの推論だった。
だが、感情に呑まれた彼らに必要だったのは、
考えるという行為そのものだった。
——そして、もう一つ。
セラは、静かに視線を巡らせる。
クサンドラの方を見る。
彼女の目は落ち着かず震え、額からは玉のような汗が滲んでいた。
視線が合った瞬間、クサンドラは弾かれたように目を逸らす。
(……やっぱり)
セラは、何も言わず、それを見届けていた。
「……ここで争っていても、死んだセヴェリは、そんなことを望んでいないはずです」
「なんだ、それは……」
ジーニョの声は荒れていた。
「お前の言い方……まるで他殺だって言ってるみたいじゃないか!」
周囲に漂う疑念が、その言葉を引きずり出していた。
「それも断定はしません」
セラは、声の調子を一切変えずに答える。
「ですが、今ここで誰かを責め合っても、得られるものは何一つありません。
ですから——落ち着きましょう」
声を荒らげるでも、慰めるでもなく。
ただ事実と推論だけを並べるその態度に、ジーニョの怒りは次第に勢いを失っていった。
「……すみません」
ジーニョは俯き、力なく呟く。
「親方……感情的になってしまって……」
「……いや」
親方も、重たく息を吐く。
「わかってくれれば、それでいい」
張り詰めていた空気が、ゆっくりと緩んでいく。
——その様子を、クサンドラは露骨に不快そうな顔で見ていた。
舌打ちを一つ響かせると、彼女は何も言わず、足早に工房の奥へと消えていった。
「……それじゃ」
親方が低い声で言う。
「今日も、修行を始めるか……」
いつもの狂気じみた張りはなく、工房に向かう背中はどこか疲れていた。
ヌノとジーニョも黙って頷き、後に続く。
ニコは受付へ戻っていった。
ロビーには、セラとセリーヌだけが残された。
「セリーヌさん……私たちも向かいましょう」
セラが静かに声をかける。
だが、セリーヌは小さく首を横に振った。
(……当然ね)
セラは、それ以上、言葉を重ねなかった。




