第20話 菓匠ギルドの魔女①
「ようやく親方が大人しくなりましたよぉ……みなさん」
工房の扉を押し開けたところで、ノッポな弟子が頭を掻きながら柔らかく笑った。
「ヌノ! お疲れ!」
セヴェリが元気よく返す。
セラたちが工房へ戻ると、親方はすでに落ち着いて生地を捏ねていた。戻ってきた気配にすら反応しないほど、深く集中している。
その隣でノッポな弟子——ヌノが、困ったように笑っている。
セヴェリは作業台の端の小柄な影に気づくと、そちらへ歩み寄って肩に手を置いた。
「クサンドラ、まだここにいたんだ。相変わらず過集中だな。気をつけろよ」
「兄ちゃん、今集中しとるから黙っとって……唾が飛ぶ」
小柄な少女——クサンドラは目の下に濃い隈を浮かべ、明らかに不健康そうな顔をしている。セヴェリの妹だ。親方が暴れている間も、彼女だけは黙々と生地を捏ね続けていた。
「うーし、俺たちも菓子作りを再開すっかぁ」
ジーニョが足を引き摺りながら、自分の作業台へ戻っていく。
他の弟子たちも、それぞれの持ち場へ散った。
セラは空き作業台がなかったので、広いセヴェリの作業台の端を借り、静かに手を動かし始めた。
窓から差し込む光が、オレンジ色に切り替わった時、セラはもう夕方であることを知った。
セラにとって、昼過ぎから夕方まで無言で菓子作りに没頭するのは珍しいことではなかった。
だが、ここにいる弟子たちも皆、同じように時間を忘れて作業していたのだと、今さらのように気付かされる。
「今日は!終わりだ!」
集中の中の静寂に包まれた空間を引き裂くような親方の大きな声が響きわたる。
「ういー、疲れたー」
セヴェリは腰に手を当て、笑顔を見せる。
(相変わらず明るい人だ。これはセリーヌが惚れる理由もわかるわね……)
セラは目だけで、セヴェリをちらりと盗み見る。
次の瞬間、視線が合った。
彼がそれに気づいたのか、それとも最初からこちらを見ていたのかは、分からない。
セヴェリは一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、笑顔に変え、セラの方へと近寄る。
「そういえばセラはどうするんだ?」
「どうするって何をですか?」
「部屋だよ部屋。ギルドの2階に部屋があるからどの部屋がいい?ってこと」
セラはその言葉に思わず言葉を失った。
帝都では止まる場所がないからと思い、セラは数週間前に家を買ったばかりなのだ。
ギルドで寝泊まりできるとは思ってもみなかった。
「い、いえ……私には家がありますので、帰ります」
「そうか!」
セヴェリはもう一度ニコッと笑顔を見せ、セラの背中を叩いた。
「そんじゃあな!」
セヴェリはセラに手を振り、そのまま工房を後にした。他の弟子たちも、それぞれ声を掛け合いながら、次々と外へ出ていく。
静けさが戻った工房で、セラは大きく息を吐いた。
今日は、あまりにも色々なことが起きすぎたせいか、気づけば無意識のうちに、何度も息を吐いてしまっている。
(……疲れたわね)
心を落ち着かせるため、セラはポケットに仕舞っていた小さな袋を取り出す。
中からチョコレートを一欠片つまみ、口の中へ放り込んだ。
マルタたちが作ってくれたチョコレートは、甘く、やさしく、張り詰めていた神経をゆっくりと溶かしてくれる。
チョコレートを長く楽しむため、1日に数個までと決めていたはずなのに、それでも確実に、少しずつ減っていってしまうのだから不思議なものだ。
口の中で転がし、溶けていく甘さを堪能していると——
ふと、背筋に刺さるような視線を感じた。
横を見る。
そこにあったのは——肌色の丸。
いや、親方の頭だった。
親方は、目ん玉をひん剥き、セラの手元のチョコレートを凝視していた。
その視線は、菓子を見る職人のものとも、食べ物を見る人間のものとも違う。
ただ、異様だった。
「ひえっ!」
思わず、得体の知れないものを見てしまったような声が、セラの喉から漏れた。
「それは……チョコレートか?」
疑いを孕んだ低い声が、腹の底に響いた。
セラは思わず身を強張らせる。改めて、この親方が恐ろしい存在であることを思い知らされた。
「へ……?」
「おい。それはチョコレートかと聞いている……どうなんだ」
「え、あ、は、はい! チョコレートです……」
「ほぉ……」
親方の視線は、セラの手元にある小さな欠片から一瞬も離れない。
異様な緊張に、セラは唇を意味もなく動かしていた。
次の瞬間。
「なんて! 素晴らしいものだ!!!」
突然の歓喜の叫びに、セラは完全に言葉を失う。
「帝都で流通しているチョコレートは液体で、苦味が強い! だが栄養価が高く、王族には愛されていた!
それをまさか固形化するという発想! なんと素晴らしい!
しかも、この甘い匂い……砂糖を加えているな!
苦味を甘みで包み込みつつ、後に残る苦味が甘さを引き立てている!!」
親方は一息もつかず、捲し立てるように続ける。
「すごいぞ! 素晴らしいぞ、セラ!!!」
一口も食べていないというのに、あまりにも的確な味の分析だった。
親方は構わず喋り続ける。唾が飛び散るのも意に介していない。
「これはセラが作ったのか!?」
「い、いえ……私の知り合いが作ってくださったもので——」
だが、その言葉は最後まで届かなかった。
「そうか! その知り合いさんとやらは、相当な菓子作りの名人なのだろうな!!!」
親方の声は、そこで急に落ち着きを帯びた。
今度はぶつぶつと、独り言のように呟き始める。
「なるほど……なるほどな……。
この俺よりも優れた菓子名人……。
チョコレートは高級品、簡単には手に入らん……だが、他の食材ならいける……」
一人で勝手に納得し、勝手に火が付いた様子だった。
「あー、俺もその知り合いさんに負けていられるか!
今夜は徹夜だ!! 徹夜で菓子研究だ!!!」
そう叫ぶと、親方は勢いそのまま奥の作業台へ向かう。
——が。
途中でぴたりと足を止め、踵を返す。
床に飛び散っていた、自分の唾を丁寧に拭き取り、満足そうに一度頷いてから、再び作業台へ戻っていった。
そして何事もなかったかのように、菓子作りを再開する。
(……これを作ったの、別に名人でもなんでもないのに)
セラは内心でそう呟きつつ、異様な集中状態に入った親方を見なかったことにした。
そっと踵を返し、そのまま工房を後にする。
ロビーに出ると、そこにはすでに誰の姿もなかった。
受付のカウンターにいたはずのニコの姿もなく、どうやらもう帰宅したのだろう。
しんと静まり返ったロビーの中で、セラもこのまま帰ろうとしたが、ふと、ギルドの二階がどんな内装になっているのかが気になった。
ロビーの端にある階段を登る。
最近建て直されたのか、足元の木板は軋む音ひとつ立てなかった。
二階の廊下にはいくつもの扉が並び、どうやらそれぞれが弟子たちの部屋らしかった。
特に変わったものはないが、廊下を進むうち、左手にもう一つ細い通路があることに気づく。
セラはその通路を曲がり、進んだ先にある扉を開いた。
そこは外へと繋がるベランダだった。
暖かな風が吹き抜け、夕焼けに染まった空に、夜の色が少しずつ滲んでいく。
燃えるような橙の中に、群青が静かに混ざり始めている。
ベランダの隅に、一人。
クサンドラがフェンスに体を預け、沈んでいく夕日をじっと見つめていた。
「……綺麗ですね」
セラはそう声をかけ、クサンドラの隣に並ぶ。
同じ景色を見上げながら。
だがクサンドラは、セラがそこにいることなど意識していないかのように、ただ夕日を見続けていた。
2人の間に、言葉はなかった。
ただ、風のさざめく音だけが、静かに響いていた。
「……今日は風が強い」
クサンドラが、ぽつりと呟いた。
「今は晴れとるけど、きっと曇りになる……」
「え?」
クサンドラは細い腕を上げ、空の向こうを指さす。
「ほれ、見てみぃ。向こうの空はオレンジ色やけど、その奥に雲が溜まっとる。じきに太陽を隠して、灰色の空になる……」
セラは、脈絡のない天気の話に、少しだけ困惑する。
「……でもな」
クサンドラは、力のない唇をわずかに動かす。
「それでも、いつか綺麗なもんが見える……」
雲に隠れても、その先に、という含みを残す言い方だった。
セラは少し考えてから、言葉を選ぶ。
「……菓子作りみたいですね。失敗して、失敗して……それでも作り続けたら、きっと形になる」
言った直後、セラは自分で気恥ずかしくなり、頬をかすかに染めた。
——ちょっと、綺麗ごとを言いすぎたかもしれない。
だがクサンドラは、特に気にした様子もなく、
「……そう」
と、それだけ答えた。
しばらくして、彼女はぽつりと続ける。
「オラ……なりたい。立派で、力強い菓子職人に……」
「お兄さんみたいに、ですね。きっとなれますよ」
セラがそう言うと、クサンドラは小さく首を振った。
「……兄ちゃんは関係ない」
それきり、風が二人の間を吹き抜ける。
クサンドラの言った通り、オレンジ色だった空は、ゆっくりと灰色へと塗り替えられていった。
「……喋りすぎた。疲れた」
クサンドラはそう言って、扉の方へ向かう。
「先、帰るわ……」
扉が静かに閉まり、ベランダにはセラ一人が残された。
やがて、セラもその場を後にする。
自分の家へと続く道を、静かに歩きながら。
——騒がしく、奇妙で、忘れがたい一日が、こうして終わっていった。
それから一週間。
親方の厳しい指導のもと、セラはひたすら菓子作りに打ち込んでいた。
村では、自分はそれなりの名人だと自認していた。
だが、ここに来て思い知らされる。
まだまだ改善点だらけだ、と。
それでも、村で積み重ねてきた経験は確かに力になっていた。
弟子の中でも頭一つ抜けた仕上がりを見せることが多く、加入から数日で、クサンドラと肩を並べるほどだと周囲から評されるようになっていた。
日に日に手応えが増していく。
その感覚は、素直に嬉しかった。
セヴェリは、やはり別格だった。
噂に違わぬ腕前で、次期親方候補と囁かれる理由が一目で分かる。
指導も的確で、言葉の一つ一つがセラの中に深く残った。
ジーニョは、例の一件以来、口元を布で覆い、粉塵対策を徹底している。
くしゃみ一つで命の危険がある職場だと、身をもって学んだのだろう。
ヌノは相変わらずおおらかでマイペースだが、仕事は驚くほど丁寧で、失敗というものをほとんどしない。
セリーヌはセラの助言通りか、セヴェリと少し距離を取るようになっていた。
それが効果を生んでいるのかどうかは、まだ分からない。
クサンドラは、セヴェリに次いで優秀だった。
健康を顧みず、執念のように菓子作りへ没頭する姿は、周囲が止めても止まらない。
そしてセラは、修行を終えた後、ベランダに出てクサンドラと夕景を眺めるのを日課にしていた。
——そんなある日のこと。
今日も並んで夕日を見ていると、クサンドラがぽつりと口を開いた。
「……今日は、綺麗なもんが見える……」
「綺麗なものって?」
「じきにわかる。今日は、ちょっとだけ長く付き合って……」
二人の間に、沈黙が続いた。
それはいつものことだった。
クサンドラはほとんど喋らない性格で、
セラもまた、疲れた精神を夕景に委ねる時間を必要としていた。
この静けさは、互いにとって都合がよかった。
だが、今日は違った。
二人の沈黙のあいだに、風の音がない。
代わりに、小さく聞こえる子どもたちの笑い声。草木が触れ合うかすかな音。
そして自分のものか、クサンドラのものかも分からない、心臓の鼓動。
そのすべてが、不思議なほど穏やかだった。
やがて空は群青へと沈み、そして完全な闇へと塗り替えられていく。
夕日によって伸びていた人々の影も、その闇に呑み込まれ、形を失っていった。
——代わりに現れたのは、無数の光。
セラは、思わず息を止めていた。
幼い頃、何度も見上げた光景。
そして、どういうわけか心の奥で「なりたい」と願い続けていた景色。
夜空に浮かぶ星々は、海の波のように揺らぎながら、互いに存在を主張するかのように瞬いている。
優しく、けれど抗えないほど強い輝きが、セラを、建物を、そして帝都全体を静かに照らしていた。
「……綺麗だろ」
クサンドラが、ぽつりと言った。
「……そうですね」
セラも、そう答える。
その景色の前では、それ以上の言葉が見つからなかった。
「……オラな」
クサンドラが、ぽつりと口を開いた。
「遠く、遠くの村から来たんだ。
親が死んじまって……兄ちゃんに連れられて、帝都に来た。それを、親方が拾ってくれた」
「……そうなんですね」
セラは星を見つめたまま、静かに答えた。
「オラはさ……兄ちゃんみたいに、うまく人と喋れねぇ。ずっとここにおるから、訛りも直らねぇし……」
一瞬、言葉が途切れる。
「……でもな」
クサンドラは続けた。
「セラとなら、喋れる。不思議だ……お前は」
その言葉に、セラは思わずクサンドラの方を見ようとした。
だが、どうしても視線が星空から離れない。
まるで、その美しさに縫い止められているようだった。
「オラ……兄ちゃんを超えたい」
その瞬間、早い鼓動の音が、はっきりと聞こえた。セラのものではない。
クサンドラの胸から響いている音だった。
「時期親方に……オラが、なりたい……
だからな……これから、起こること……
セラは、黙っとってほしい」
言葉を探すように、息を吸う。
「オラがやったって、わかっても……
……否定せんでほしい。何も、考えんで……」
言葉は、そこで途切れた。
星空の引力が、ようやく解き放たれ、セラは、クサンドラの顔を見ることができた。
クサンドラは、ずっとこちらを見ていた。
だがしかし、その顔は星の光を一切浴びず、ただ、真っ黒に染まっていた。
「……それだけだ」
クサンドラは、そう言って背を向ける。
足音が遠ざかる。
入れ替わるように、今度はセラ自身の胸が強く、早く鳴り始めていた。
「はーい!今日は早くやってきてしまいましたー!」
次の日の朝。
カーラは珍しく早い時間にやって来ており、ギルドの建物に入ろうとしたセラを、背後からやかましく呼び止めた。
セラは面倒そうに振り返る。
相変わらず、荷車の上には巨大な木箱と、小麦粉の入った紙袋が積まれている。
「……わかりました。セヴェリを呼んできます」
溜息混じりにそう言い、セラは扉を開いた。
「あ、セラ……おはよー」
受付には、眠たそうな目を擦るニコがいた。
「ニコさん。倉庫の鍵を貸してもらえませんか?もうカーラさんが来てしまっていて……」
「カーラ? ああ、流通業ギルドのお姉さんか……」
ニコは少し首を傾げる。
「鍵なら、昨日の夕方にセヴェリが貸してくれって言ってな。
そのまま返ってきてないぞ?」
「……返ってきて、ない?」
「うん。もしかしたら、セヴェリが持ったままかも。倉庫、開けっぱなしだったりしてな」
妙な違和感が胸に残る。
在庫整理なら不自然ではない。だが、セヴェリが鍵を返し忘れるだろうか。
セラはカーラを呼び、二人で荷車を引いて倉庫へ向かった。
「あはは!セラさん、意外と力ありますね!」
返事をせず、セラは歩く。
胸の奥に、理由のわからない不安がじわじわと広がっていた。
昨夜のクサンドラの言葉が、意味もなく脳裏を掠める。
倉庫の前に着く。
セラはカーラより先に荷車から手を離し、
そのまま倉庫のドアノブに手をかけた。
朝の光が、銀色のノブを冷たく反射している。
——鍵は、かかっていなかった。
一度、大きく息を吸い。そして、扉を引いた。
次の瞬間。
粉塵が舞い上がり、肺いっぱいに吸い込んで、セラは激しくむせた。
同時に、鼻を突く異臭。
甘くない。腐敗した、生臭い匂い。
白い粉がその場から逃げるように、外へ流れ出ていき、ゆっくりと視界が晴れていく。
そこにあったのは——
宙に浮いた、何か。
その下には、床に落ちた排泄物。
力なく垂れ下がる、太い両脚と太い両腕、しがみつくように巻き付いた花のブレスレット。
ロープ。
石の天井に打ち込まれた杭から垂れ下がり、
首を通された大きな男の体が、ぶらりと揺れていた。
セラは、無意識に一歩踏み出す。
そして、顔を見る。
——セヴェリだった。




