第18話 菓子作り
その制服は予想以上に、シンプルなデザインだった。
白のワンピースに胸元に黒のリボンがコントラストを持ち、腰には革のベルト。そこに小さな布のポーチがぶら下がっていた。
何より、柔らかい布地に、袖や、スカートはゆとりがあって風通しが良い。
体力をかなり使う菓子作りのための制服としては非常に機能性が高かった。
その服を着たセラは壁際に立てかけられていた姿見を覗き込み、「おおー!」と感嘆の声を漏らす。
「結構似合ってんじゃん!」
ニコは横で新しくなったセラの格好を見ていた。
「いいデザインだろ?これ、あの親方が一つ一つ刺繍してんだ。親方なりのプライドとして、女性用の服には、実用一辺倒にならないよう、ささやかな可愛らしさを残しているらしい」
「へえ……意外ですね。あんな恐ろしい方ですのに」
「そうだな。まぁ、それを着ていれば流石に殺そうとはしたりしないと思うよ」
「そうですね」
セラとニコは、協力して扉を塞いでいた本棚をずらす。先ほどまで、響いていた怒号と扉を叩く音はもうなくなっていた。
セラは胸の奥で一度だけ呼吸を区切り、扉の取っ手に手をかけた。
奥の方にいた親方は、扉の開く音に反応したのか、親方の視線だけが素早くセラを捉え、僅かに遅れて、その丸い顔がゆっくりとこちらを向いた。
「……お?」
丸っこい顔に似つかわしくないほど細く吊り上がったその眼球は鋭く見つめ、声を漏らしている。
「……お?おお?」
セラの足元から、服装、そして顔や髪まで、まるで毛穴の一つひとつを検分するかのように、何往復も行き交い始めた。
先ほどの惨劇を思い出し、緊張したセラはゴクリと固唾を飲んだ。
「……おおん?……おお……」
唸るような声が、次第に熱を帯びていく。
そして——
「お……お、おおおおおおおおおお!!!
最高だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
大砲のような咆哮が工房を震わせた。
煉瓦壁がびりびりと鳴り、セラの鼓膜が悲鳴を上げる。
「素晴らしい!!! 美しい!!! 絢爛!!!
華奢! 容姿端麗!! 絶世の美女!!!
菓子作りのために洗練された装い! まさに芸術!!!」
親方は一息もつかず、唾を飛ばしながら続ける。
「内に秘めた美とは内側に留まらない!!!
いずれ溢れ、姿に現れ、やがて作り出す菓子に宿る!!!
それすなわち!
見た目の美しさとは菓子作りの美学ッ!!!」
親方は両腕を大きく広げ、叫ぶ。
「ようこそォォォォ!!!
菓匠ギルドへぇぇぇぇぇ!!!」
怒涛の賛辞と熱量の洪水。
そのあまりの圧に、セラは思わず物理的に一歩、後ずさっていた。
一方、作業台に張り付いていた弟子たちはというと、どこか諦観した表情で各々作業を続けている。
「名前は!?」
異常なテンションのまま唐突に名前を問われ、セラは一瞬、思考が追いつかず口籠もった。
理性よりも先に体が反応し、さらに追加で二歩、後ろへ後ずさる。
「え……あ、あの……」
「名前だ!名前!はやく!」
「え、えと……セラです!」
「そうか!!」
親方は満足そうに大きく頷いた。
「俺はリーノだ!よろしくよろしく!!
ほんでアイツらが俺の弟子たちだ!!」
そう言って、親方は腕を振り回すようにしながら、工房に並ぶ弟子たちを指差していく。
「セヴェリ!ジーニョ!ヌノ!セリーヌ!クサンドラ!!」
(覚えられるわけがない……)
セラは内心で嘆いた。
「さぁ!セラ!!今から君の菓子作りの力を見定めさせてもらう!!」
「え!?今ですか?いくらなんでも早すぎませんか!?」
「なにを言っている!!」
親方は大きく胸を張り、誇らしげに言い切った。
「君は菓子を作るために、この菓匠ギルドへ来たんだろう!?
君が菓子を作りたい理由は、俺にはすべてわかっている!!!
……菓子を作りたいからだろ!!!」
「…………?」
セラは一瞬、言葉を失った。
疲労感だけが、確実に積み上がっていく。
「さぁ!あそこの奥に向かえ!」
親方が、工房のさらに奥を勢いよく指差した。
そこには、一つの大きめの作業台と、いくつかの器材、そして最低限の食材が並べられている。
かまどは一基だけ配置されていた。
セラは作業台へ歩み寄り、用意された材料を一つずつ視線で確認する。
小麦粉。卵が数個。羊乳。バター。そして、精製度の異なる二種類の砂糖。
(……やけにシンプルね)
だが同時に、セラは気づいていた。
精製度の異なる砂糖が並んでいるということは、甘さそのものではなく、舌触りや層の作り方を重視しているということだ。
——なるほど。ここは、そういう工房らしい。
ふと前方を見ると、親方がズボンのポケットから取り出した、少し湿った布で床を拭いている。
先ほど、興奮して捲し立てた際に飛ばした唾を、今になって処理しているのだろう。
(うわ……めんどくさそうな人!)
——いや、今はどうでもいい。
セラは首を軽く振り、余計な思考を切り捨てた。
シンプルな材料だからこそ、誤魔化しは効かない。
何を主役に据え、どこで差をつけるか。
答えは、すでに決まっていた。
まず、生地の仕込みに入る。
バターを練らず、空の容器に入れて押し潰す。
粗い砂糖を先に加え、歯触りの核を作る。
次に、細かい砂糖を重ね、全体をなだらかにまとめる。
卵白を数回に分けて加え、その都度しっかりと乳化を確認する。
続いて、羊乳を少量ずつ注ぎ、粘度が一定になるまで丁寧に調整した。
最後に小麦粉を加え、かき混ぜる。
——生地は完成だ。
「……ほぉ」
気づけば、いつの間にか親方がすぐ背後に立っていた。
先ほどの狂気じみた怒号とは打って変わり、
まるで空気を乱さぬような、異様なほど小さな声だった。
「手際がいいじゃないか……」
「はい、ここに来るまで、村で菓子売りをしておりましたの——」
「喋るな……」
低く、鋭い声が割り込む。
「菓子作りの最中は喋るな。
……どうしても必要な時以外は、最低限の声量にしろ。
食材に、唾が入ってしまう……」
その一言に、工房の空気が張り詰める。
セラは、思わず背筋を伸ばした。
緊張感を胸に、最後の焼きの工程に取り掛かる。
オーブンと天板を、十分に温めておく。
その間に、生地を一つ一つ、空気を潰しすぎないよう注意しながら、丸く丁寧に成形する。
(ここで急いだら、全部台無し)
セラはそう自分に言い聞かせる。
庫内の温度が安定したのを確認し、天板に生地を並べ、オーブンへと滑り込ませた。
焼成中、扉は決して開けない。
開けたい衝動を、何度も指先で抑え込みながら、経験と知識、そして温度計の数値だけを信じ管理する。
やがて、時間が満ちる。
扉を開けると、ふわりと——
濃厚なバターの香りが工房に広がった。
焼き上がった菓子は網の上へ移し、余計な蒸気を逃がしながら自然に冷ます。
完成した。
バターの香りを主役に据えた、バター焼き菓子だ。
「完成しました!どうですか?」
セラは振り返り、親方に声をかける。
「うむ、よく出来た。……では、食べてみろ」
言われた通り、セラは一つ手に取り、一口かじる。
ザクリ、と心地よい歯触り。
二種類の砂糖が明確な食感の差を生み、そこにバターの香りがふわりと重なる。
(美味しい……!我ながら、上出来ね)
思わず二口目に手が伸びる。
——だが。
(二口目……香りが、少し弱い?)
一口目で感じた、あのバターの余韻が、ほんのわずかに薄れている。
原因が、すぐには掴めない。
「……バターの香りに、ムラがある」
親方が静かに言った。
まるで、セラの思考をそのまま口にしたかのようだった。
「そうだろう」
「ええ……ですが、どうして……?」
「全ての結果には理由がある」
親方は、生地でも菓子でもなく、工程そのものを見ている目で言う。
「焼きでも、脂でも、温度でもいい。
結果は変えられん。なら、その結果に至った理由を探せ」
ゆっくりと、言葉を区切る。
「一から、自分の菓子作りを思い返せ。
……香りのムラが生まれた瞬間が、必ずどこかにある」
的確で、逃げ道のない助言だった。
(バターの香りが原因ならば、バターの工程に必ず理由がある)
セラは目を閉じ、仕込みから焼き上がりまでの工程を、頭の中で一つずつなぞり直した。
(バター……温度……扱い方……)
(——あっ)
思考が、一点で弾ける。
「……菓子作りの前に、バターを完全に常温へ戻していませんでした」
セラは顔を上げ、確信を込めて言う。
「固形のまま無理に混ぜたせいで、脂肪分と香りが均一にならず、香りにムラが生まれた。——そうでしょう!」
自信満々の答え。
だが、親方はすぐには頷かなかった。
「……ひとつは正解だ」
胸が少し、軽くなる。
だが、次の言葉は容赦なかった。
「だが、それだけか?
それだけで香りにムラが出たと言い切れるのか?」
さらに畳みかける。
「そして、香りのムラが消えれば完成か?
……味を、もう一段階上げるとしたら、どうする?」
容赦のない質問の連打。
だが、セラは理解していた。
この男は意地悪で聞いているのではない。
必ず答えがある問いしか投げていない。
セラはもう一度、工程を掘り下げる。
「……生地を、乱雑に混ぜたから……?」
「その通りだ」
今度は、即答だった。
「生地を回すように混ぜれば、粘度の高い生地は均一にならん。
それに、無駄に空気を潰す。食感も死ぬ」
親方は、まるで目の前で作業を再現するかのように、指先を動かす。
「切るように、底から返す。そうすれば空気は残り、脂も均一に回る」
完璧すぎる答えだった。
セラは、言葉を失う。
だが、親方はまだ終わらせない。
「……だが、もちろんそれだけじゃない。
——再現性だ」
「……再現性?」
「ああ」
親方の目が、異様なほど澄む。
「同じ菓子を、同じ味で、何度作れるか。
それが職人だ」
淡々と続ける。
「気温、湿度、衛生状態。混ぜる速度、時間、手の温度。——すべてが同じかを疑え」
その瞬間、セラは理解した。
親方の狂気じみた潔癖さは、菓子を支配するための執念なのだと。
「さぁ!こっからは俺の時間だ!」
突然、いつもの異様なテンションに戻った親方が叫ぶ。
「セラ!お前は下がれ!見て、俺の技術を盗め!」
親方はセラの肩を軽く押し退け、棚から先ほどと同じ食材を次々と取り出した。
そして、迷いなく生地作りに取りかかる。
その動きは、セラのそれとは、あまりにも隔絶していた。
卵白を殻から分ける指先は一瞬も迷わず、バターを潰す力加減は均一で、生地をまとめる手つきは、速さと正確さが完全に両立している。
無駄がない。だが、機械的でもない。
指の一本一本が、意味を持って動いている。
それは、もはや作業というより技だった。
セラは、思わず息をするのも忘れ、その背中を見つめていた。
——だが。
完成した生地を成形している、その瞬間。
「ぶぇっくしょい!!!」
弟子の一人が、小麦粉を吸い込み、盛大なくしゃみを放った。
一瞬。
本当に僅か一瞬、だった。
「……あ?」
親方の動きが、止まる。
次の瞬間、その視線は確実に音の主を捉えていた。鋭く、冷たく、殺意すら帯びた眼光を突き刺す。
工房の空気が、完全に凍りつく。
「ジーニョ……」
低い声。
「テメェ、今、何を撒き散らした……?」
次の瞬間。
「ぶち殺す!!!」
親方は、成形途中だった生地をひっ掴み、迷いなく投げ放った。
べちゃりと柔らかい音を立てて、生地がジーニョの顔面に張り付く。
恐怖に固まったジーニョは、成す術もなくその場で硬直した。
「ジーニョはダメだ!本当に殺されちまう!!!」
弟子の一人が、悲鳴に近い声を上げた。
視線の先で、ジーニョは必死に逃げようとしていた。
太った体躯に杖を突き、右足を庇うように引きずりながら、懸命に距離を取ろうとする。
だが、その動きはあまりにも遅い。
次の瞬間、一人の女性の弟子が即座に駆け寄った。
「掴まって!ジーニョ!」
肩を抱え重い体を持ち上げる。
ジーニョは成す術なく、担がれる形になった。
「セラ!お前はジーニョを手伝え!ここは俺たちが食い止める!」
大柄な体格の弟子が、前に躍り出る。
セラが親方の方を見ると——
理性の欠片も残っていない瞳が、ただ一点、ジーニョを捉えていた。
片手には包丁。口元は歪み、唇が動く。
「殺す……殺す……殺す……」
呪文のように、同じ言葉を繰り返している。
ノッポな弟子と、大柄な弟子の二人が、即座にその前に立ち、進路を塞いだ。
セラはジーニョのもとへ駆け寄り、どうすればいいかも分からないまま、とりあえず反対側から体重を預かる。
そのまま、一団は工房の出口へ向かう。
ふと振り返る。
二人に拘束されている親方は、なおも包丁を握りしめ、血走った目でこちらを睨み続けていた。
——ただ一人。
その異様な空気をまるで感じ取っていないかのように、小柄な少女だけが、黙々と作業台に張り付き、生地を捏ね続けていた。
ジーニョを担ぐ二人が、扉を押し開ける。
「セラちゃん!早く扉閉めて!」
呼びかけに応じ扉を勢いよく閉める。
「お?俺の出番だな?」
どこか楽しそうな声。
振り向くと、受付にいたニコが、にやりと笑っていた。
彼は慣れた手つきで本棚に手をかけ、セラと一緒に押し動かす。
いつものように、扉は完全に塞がれた。
ジーニョは安心し切ったように重たい体をずしりと鳴らしながら床に座り込む。
息を切らしながら、顔面に張り付いたままだった生地を引き剥がした。
「ふぅー……今日も生きられた……助かったよ二人とも」
ジーニョは、担いでくれたセラと、反対側から支えていた女性を交互に見る。
「ジーニョはもっと痩せてください!」
「あはは、そうだなセリーヌ!でもこの足じゃ無理だな」
ジーニョはふと思い出したように、セラの方を向く。
「あ、自己紹介がまだだったな。俺はジーニョ」
ジーニョの太った体が汗ばみ、白い衣を濡らしていた。
「私の名前はセリーヌよ」
セリーヌの黒く、さらりとした髪が肩を流れ落ちている。
白衣の上からでも分かるほど、胸や腰の曲線ははっきりしていて、口元の小さなほくろが、大人びた色気を漂わせていた。
「あ、私はセラです」
少し遅れて、セラも名乗った。




