第11話 宿屋の魔女①
上部に取り付けられた真鍮のベルが、カラカラと心地よい音を立てる。
だが、その音をすぐにかき消すように、奥のほうから賑やかな喧騒が響いてくる。
中は、外の冷たさを一気に忘れさせるほど、柔らかい暖かさに包まれていた。
木張りの床に、部屋の中央奥には石造りの暖炉があり、勢いよく炎を上げている。
右側の壁には、優しい瞳を持つ、柔らかな笑みの女性の絵画が飾られている。
しかし、そのぬくもりに似つかわしくないほどの騒がしさが、この空間の静けさを完全に壊していた。
扉のすぐ横のカウンターには、男がひとり立っていた。
綺麗に剃り上げられた頭に、もじゃもじゃの髭。
がっしりとした筋肉質の腕を組み、じっとセラを見つめてくる。
その目の圧力に、セラは思わず言葉を失った。
「一泊、銀貨一枚。食事付きなら、追加で銅貨四枚だ」
宿主と思われる男は、必要最低限の言葉だけを短く告げた。
セラも余計な会話をする気力もなく、濡れたポケットから銀貨を一枚取り出し、そっと差し出す。
去ろうとしたその瞬間、男が低い声で呼び止めた。
「お前……濡れてるから、これ使っとけ」
差し出されたのは、粗織りの麻布だった。
「……ありがとうございます」
セラは一言だけお礼を述べ、ややザラつく麻布で髪を押さえながら、暖炉のほうへ歩いていく。
その途中、ふと右側に視線を向ける。
木製の低いテーブルを囲むように、
老人ひとりと若者三人が、丸椅子に腰掛けながら酒盛りをしていた。
セラは、嫌なものを見たように視線をそらし、暖炉のそばへ腰を下ろした。
チュニックのまま、服と身体を乾かすように炎の熱へ身を寄せる。
日中かいてた汗は大雨と一緒に流れ落ちたらしい。
ほっと息をついたのも束の間、背後からしゃがれた大声が飛んできた。
「お……? セラちゃんじゃねぇか!! そんなとこいねぇで、こっち来いよ!」
老人が手を振りながら呼びかけてくるが、セラは背後の異常人たちに目もくれず、無言を貫く。
「おいおい、盛り上がらねぇなぁ……」
気づけば、老人がもうセラの隣に立っていた。
肩に腕を回し、もう片方の手にはガラス瓶。そのまま酒をぐびりと流し込んでいる。
酒臭さと、底に沈んだような汚水みたいな口臭。
鼻をつまむのすら面倒で、セラは視線をぼんやりと老人から逸らす。
「うふぇ~ん、セラちゃんに嫌われちゃったよぉ~」
馬鹿みたいな泣き真似。
セラは心の中で小さく舌打ちする。
(……めんどくさ……)
無視を続けても埒があかないと判断し、セラはようやく重たい口を開いた。
「……お久しぶりです、ガルドさん。
とっととくたばってくれてたら、もっと嬉しい再会になったんですけど……」
チラリと視線を向けると、老人——ガルドは
焦茶色の古びたチュニックを身にまとい、細く、長い五指にそれぞれ金の指輪をぎっしりはめこんでいる。それが不均衡を生み出していた。
黒ずんだ肌には大小のシミが浮かび、
数本だけ残った白髪が、力なく揺れていた。
そして、にやりと笑った口元には——
わずか三本だけ残った歯が、いやに目を引いた。
「ふへへ……ま、俺はそう簡単にゃくたばらねぇのさ……」
そう言いながら、ガルドはセラの目の前に手の甲を突き出した。
金の指輪をこれ見よがしに光らせる。
その指輪は——全部、盗品だ。
ガルド。そして、その家族であるフェンリス家は、村人たちの持ち物を日常的に盗みながら暮らしている。
手癖は悪いが、立証されることは一度もなく、いつも罰を逃れてきた。
働きもせず、人の物を盗んで生きる。
当然、村人たちからは嫌われている——セラも例外ではなかった。
「ま、そんなことよりよ……あっち戻って、みんなで一緒に飲もうや……」
ガルドがテーブルのほうを指差す。
そこでは、三人の孫が酒を飲み交わしながら騒いでいた。
セラはその孫たちの名前すら覚えていない。
セラは視線を戻し、再び暖炉へ体を向ける。
「いえ……結構です。口が臭いので早く離れてください」
「ちぇっ……つまんねぇの……」
ガルドは千鳥足でふらふらとテーブルへ戻っていく。
ほどなくして、喧騒がまた空間を満たし始めた。
セラは暖炉のゆらゆらと揺れる炎を静かに見つめ、ポケットに入れていた干し肉を一口だけ齧った。
やがて、衣服の湿り気がだいぶ引き、肌に貼りつく不快感が薄れてきた頃——
セラは重たくなった身体をゆっくりと起こした。
まだ、喧騒は一向に収まる気配がない。
暖炉の右側へと歩き、二階へ続く階段へ向かう。
踏み板の古い木材が、足を乗せるたびにギシギシと音を鳴らす。
階段も同じように、一段ごとに軋む音を鳴らし、セラの疲れた神経にじわりと響いた。
二階に上がると、四つ並んだ客室がある。
そのうち、一番左奥の扉を開けて中へ入る。
部屋は簡素そのものだった。
皺ひとつない白いシーツが掛けられたベッドが一つ、奥の壁には木枠の鎧戸。
それだけ。
扉を閉めた瞬間、セラは違和感に気づく。
——鍵が、ない。
いや、鍵穴すら存在しなかった。扉を押さえる木棒もない。完全なる無防備。
「……何なのよ、この杜撰な宿は……」
呆れを吐きながら、セラはベッドへと身を投げ出した。
貴重品は、アイツらに取られないように抱き抱える。
しかし——寝付けない。
すぐ下の階から聞こえる、あの騒ぎ声のせいで。
笑い声、怒鳴り声、酒瓶のぶつかる音……
板壁を震わせながら、容赦なく二階へと響き続ける。
セラは枕に顔を埋め、心の底からうめいた。
「……最低……」
暖かな朝日が部屋の中へ差し込み、セラはゆっくりとまぶたを開いた。
あれだけ寝付けないと思っていたのに、意外にも目覚めはすっきりしていた。
全身をぐっと伸ばし、背中を鳴らす。
昨夜の雨はすっかり上がったらしく、窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
……いや、違う。鳴き声ではない。
泣き声だ。
昨晩の喧騒とは別の切羽詰まったような、人間の泣き声が隣から大きく響いている。
「……まぁ、どうでもいいけど」
所詮は他人事だ。
セラは荷物をまとめようと腰を上げた——が。
(……ない)
金貨二十枚と、銀貨・銅貨をまとめた袋が、跡形もなく消えている。
しかも、干し肉とチョコレートの入った食料袋だけ、ご丁寧に残されている。
「……やられた」
セラは歯噛みし、食料袋を握りしめたまま廊下へ出た。
朝の泣き声のする部屋——ガルドの部屋へ一直線に向かう。
ノックなどする気は毛頭ない。勢いよく扉を押し開けた。
その瞬間、セラの足がぴたりと止まった。
そこには、異様な光景が広がっていた。
部屋の中央に、ガルドの二人の孫。昨日、酒盛りで騒いでいた若い男女だ。
男のほうは立ったまま肩を震わせ、涙が頬を伝い落ちている。
女のほうは床に膝をつき、両手で顔を覆い、大声をあげ、咽び泣いている。
二人とも、突然の闖入者にまるで目に入っていない。
そして二人の視線の先。
ベッドの上に、ガルドが横たわっている。
眠っているような表情。毛布を胸までかけ、呼吸も静かで……。
だが、セラは一目で理解した。
ガルドは、死んでいる。




