水浸しの渡り廊下は誰のため
暑い夏の日。学校で不可解な事象が繰り返し起きていた。
校舎の建物と建物をつなぐ渡り廊下。
その狭くもない渡り廊下が、水浸しになっているというのだ。
近くに水道の蛇口こそあれ、もちろん誰も水を撒いたりはしていない。
もしや、この世ならざる者、幽霊の仕業ではないか。
生徒達はそう噂していた。
水浸しの渡り廊下の怪異の噂は、
謎好きの女子生徒である、高山真紀の耳にも届いていた。
「渡り廊下を水浸しにする幽霊って何でしょうね?」
「幽霊って言うより、河童とかの類を私は連想するね。」
そう答えたのは、真紀が親しくしている先生の細田譲。
頼りなさそうな外見をしているが、これがこの手の異変には中々頼りになる。
真紀は水浸しの渡り廊下の謎を調べるべく、細田の元へ来ていた。
熱血な真紀に対して、細田はのんびりと言う。
「だいたい、渡り廊下が水浸しになって、何が困るんだい?
元々あの辺りは、定期的に打ち水、水を撒いているだろう。」
「上履きが水浸しになると危ないんですよ。
打ち水は生徒が通らない授業中にしているはずなんです。」
「そうすると、水浸しの渡り廊下は、学校の人間がやったことではない?」
「と、あたしは思います。幽霊かどうかはともかく。
こんなこと、いたずらにしても地味で面白くないですから。
細田先生、一緒に調べに行ってくださいよ~。」
「私は仕事があるんだが・・・まあ生徒の頼みを無下にはできまい。
よし、ちょっと見に行ってみようか。」
真紀に釣られる形で細田も、水浸しの渡り廊下を見に行くことにした。
件の渡り廊下は、校舎の間にある典型的な渡り廊下の一つだった。
足元にはコンクリート剥き出しの通路。
横には水道の蛇口が並ぶ水飲み場があり、水を飲んだり手を洗ったりできる。
「おや?これは・・・」
細田が蛇口の一つに目を付けた。
その蛇口には、打ち水のためであろう、ホースが取り付けられている。
ホースはぐるぐると撒かれ、水を噴出するノズルに繋がっている。
そのノズルが外れ、水がこぼれてしまっていた。
「このホース、ノズルが外れて水が漏れてしまっているね。」
周囲を見ると、ノズルが外れたせいか、
渡り廊下に水たまりがいくつかできている。
真紀が興奮気味に言う。
「細田先生!これって、水浸しの渡り廊下じゃないですか?
ちょっと水が少ないですけど。」
「そうだね。この暑さだ。水は蒸発してしまったんだろう。」
水浸しの渡り廊下、その怪異の現場を確認したのに、
真紀も細田は何とも無感動な反応しか示していない。
何のことはない。
水浸しの渡り廊下の原因は、
蛇口のホースのノズルが外れていたことが原因だった。
「水が出しっぱなしになっていなかったので、
ホースの中に溜まっている水が撒かれただけで済んだのだろう。
これが、水浸しの渡り廊下の原因だ。」
話を終えようとする細田に、真紀がすがりつく。
「ちょ、ちょっと待ってください!細田先生!
ノズルが外れていた理由がわからないと、
水浸しの渡り廊下の怪異の原因を究明したとは言えませんよ。」
「ノズルが外れた理由?
そんなの、誰かが間違えて外したとか、
取り付け不良で勝手に外れたんじゃないかい?」
「そんな身も蓋もない。
このノズル、放っておいて外れるとは思えませんよ。
それとも誰かがノズルを外してそのまま放って置いたって言うんですか?
どうしてですか?」
「面倒だったからじゃないかな。」
「打ち水をするのは用務員さんです。
設備に異常があるのに、面倒で放っておいたりはしないでしょう。
もし生徒なら、意図的に水浸しにしたことになります。
どこの生徒が何のために、そんなことをする必要があるんですか?」
すると細田は関心した様子。
「ほぅ、言われてみれば、そのとおりだ。
水浸しの渡り廊下を作る方法はあれど、
水浸しの渡り廊下を作る理由がある人はいない。
考えてみれば妙な話だ。」
「これがいたずらだとしても、
面白くもないし、かといってすごく困るわけでもなく、
いたずらとして成立していないですよね。」
「ふむ、これは調べてみる必要がありそうだね。」
「ということは、張り込みですね!」
真紀が目を輝かせている。
細田は、はやる真紀の頭を撫でた。
「高山君はまだ授業があるだろう。私も仕事がある。
ここは一旦解散して、放課後にもう一度ここに集まろう。」
「えー、今すぐじゃないんですか。」
「この現象、怪異は、一日に何度も起きている。
そんなに焦る必要はないだろうよ。」
「それもそうですね。
それじゃ細田先生、放課後にまたここで。」
「ああ、わかった。」
こうして真紀と細田は別れた。
去り際に、外れていたホースのノズルを元に戻しておく。
水浸しの渡り廊下、その原因からはまだ遠いところにいた。
時間は過ぎて、授業が終わり、放課後。
掃除係の仕事を手早く終わらせて、真紀は水浸しの渡り廊下へ向かった。
するとそこにはもう細田が来ていて、何やらホースとノズルを調べていた。
「細田先生、遅れました。何か見つかりましたか?」
すると細田は真紀の方を向くこともなく答えた。
「それなんだがね、ちょっと興味深いものを見つけてね。これを見てご覧。」
言われた真紀が、細田が掲げるホースの先とノズルを見た。
一見、なんてことのない普通のホースとノズル。
しかしよく見ると、使い込まれてボロボロになっている。
いや、それどころではない。
他の部分に比べて、ホースの先とノズルはボロボロ過ぎた。
まるで意図的に傷つけたような痕が無数についていた。
真紀は首を傾げた。
「これ、何の傷でしょう。普通に使ってついた傷・・・」
「・・・ではないだろうね。
細かく多くの傷は、使っていて自然についた傷ではなさそうだ。
これはきっと、動物の噛み跡や引っかき傷ではいかな?
動物はホース状の物にじゃれる習性があるものだよ。」
「動物の引っかき傷?なんでそんなものが?」
「それは、実際に見たほうが早いだろうね。
どうだい、今は渡り廊下は濡れていない。
もうそろそろ水浸しの渡り廊下の怪異が起こると思わないかい?」
「なるほど!いよいよ張り込み本番ですね!わっかりました!」
真紀は目を爛々と輝かせると、細田とともに物陰に隠れた。
落ち着きのない真紀が、何度も顔を出そうとするのを、
その度に細田は止めねばならなかった。
そうして夕日が傾き始めた頃。
長く伸びる影が一つ、渡り廊下に現れた。
渡り廊下に現れたのは、小さな影だった。
「あ、あれが、怪異の原因?」
真紀などは、あからさまにがっかりしていたようだった。
現れたのは、猫が一匹だけ。
大きさから見て、大人の猫だろう。
その猫が、姿勢を低くして、渡り廊下に姿を現した。
物陰に隠れている真紀と細田には気がついていないようだ。
猫は渡り廊下に上ると、蛇口のある水飲み場へ向かう。
そして、ホースの先のノズルをガジガジと齧り始めた。
あのホースに付けられたノズルは丈夫なものではない。
猫がいくらか齧ったり引っ掻いたりしていると、
やがてホースの先についていたノズルが外れた。
すると、ホースの中に溜まっていた水が、勢いよく吹き出てきた。
その水で渡り廊下の辺り一面は水浸しになっていく。
「あっ!あれって、水浸しの渡り廊下!」
「うん、そうだね。
今、私達は、水浸しの渡り廊下が再現されるところを確認した。」
猫はまだ真紀と細田には気がついていない。
ホースから吹き出した水でできた水たまりの水を飲み始めた。
それはわかるのだが、次の行動が理解できない。
なんと猫は、水たまりに頭をつっこみ、顔を水浸しにしてしまった。
「あれ?何してるんだろう。水で顔でも洗ってるのかな
猫って水が嫌いなはずなのに。」
「うん、そうだね。何か理由があるんだろう。」
観察を続けると、顔を水浸しにした猫は、どこかへ行ってしまった。
「あっ、待って!ってもう遅いか。」
「今からじゃ、猫の足には追いつけないだろうね。
次を待とうじゃないか。」
「次?あの猫、また来るって、細田先生は言うんですか?」
「ああ、私の予想が正しければね。」
「うーん。」
細田の予想に真紀は半信半疑。
二人は身を隠したままで、いなくなった猫が戻るのを待った。
水浸しの渡り廊下を作った猫は、本当に戻ってくるのか?
真紀がそう疑い始めた頃、件の猫がやっと戻ってきた。
全身の毛皮は見るからに暑そうで、顔は乾いていた。
真紀は細田に問う。
「細田先生、どうしてあの猫が、また戻って来るってわかったんですか?」
すると細田は微笑んでみせた。
「いや、何ね。あの猫が顔を濡らしたのは、水を運ぶためだと思ったんだ。」
「水を運ぶ?顔を濡らしてですか?」
「そう。その理由なら、水はまだまだ足りないはずだからね。
また水を取りに戻って来ると思ったんだよ。」
「水を運ぶ理由って?」
「それはこれから確認しよう。こっそり猫の後をついていこう。」
「わかりました。距離を取ってついて行きましょう。
それにしてもあたし達、ちゃんと隠れたままでよかったですね。
警戒心が強そうな猫だから、姿を見られたらもう来なかったかも。
見つからないように、気をつけていきましょう。」
こうして真紀と細田の二人は、水浸しの渡り廊下を作った犯人の猫の、
その後を追うべく、こっそり付かず離れず忍び足で移動していった。
猫は雑草林を越え、校舎の建物をくるっと回るように校舎裏に来た。
すると学校の校舎の軒下から、ニャーニャーと、か細い鳴き声が聞こえてきた。
「わっ、子猫ちゃん達!そっか、あの猫、母猫だったんですね。」
「どうやらそのようだね。」
校舎の軒下には、何匹もの子猫達が集まっていた。
母猫は水浸しの顔を子猫達に向ける。
すると子猫達は、母猫の顔を一生懸命に舐め始めた。
それを見て真紀はポンと膝を打った。
「そっか!あの母猫、顔に水を浸して、子猫達に水を飲ませてたんだ。」
「そういうこと。
猫にも収集癖はあるが、水を集める猫など聞いたこともない。
しかも、顔を濡らしても水はいずれ乾いてしまう。
だから、他に顔を濡らすための理由があるのではと考えたんだ。
あの猫はもう大人だから、他の生き物のために行動するなら、
自分の子猫達のために行動するだろうという考えに至ったんだ。」
「へ~、なるほど。それにしてもかわいいなぁ。」
真紀は子猫達に顔を舐め回される猫をうっとりと眺めた。
するとやがて母猫の顔は乾き、母猫はまた移動を始めた。
行く先は調べるまでもない。水浸しの渡り廊下だ。
こうして母猫は、顔を水に浸して子猫達のところを何度も往復した。
真紀は不思議に思った。
「あの猫、どうして子猫を水飲み場に連れて行かないんだろう。
顔を濡らして往復するなんて大変だし、途中で乾いちゃうだろうに。」
「それは多分、他の生き物を警戒してのことだろうね。
ここは学校だ。他の生き物には事欠かない。
渡り廊下は人の行き来も不規則だ。
たくさんの子猫達を連れて外へ出て、もしも外敵に襲われたら、
子猫達を全員守るのは難しい。
だから危険な水飲み場へは母猫が自分一匹だけで通ってるんだろう。」
「ううっ、母のやさしさですね。」
真紀は涙を拭っている。
すると細田は言った。
「それにしても、だ。高山君の言うことも一理ある。
水のためにこんなに手間をかけていては大変だろう。
水以外にも、餌も手に入れてこなければならないのだからね。
あの猫に、もっと簡単に水をあげる方法はないものかな?」
「それは母猫にって意味ですよね?
子猫達に直接水をあげようとしたら、多分逃げちゃうでしょうし。」
「そうだね。高山君は、母猫を助ける方法を何か思いつかないかい?」
「うーん。例えば、お皿に水を入れて置いておくとか?」
「それは単純で確実な方法だ。
母猫はいちいちホースのノズルを外す必要はなくなる。
だけどそれでは、水が温くなってしまう。
この夏の暑さじゃ、皿の水などすぐに温水になる。
だからあの母猫は、
わざわざホースの中の熱くない水を採っていたんだろうし。」
「他の方法が必要ですね。
例えば、子猫達のところまで直接ホースで水を引くとか。」
「それは子猫でなくても警戒するだろうね。」
猫に冷えた水を簡単に与える方法。
何か無いだろうか。
細田には、既にそのアイデアがあるようだった。
「特別な道具はいらないよ。
ただしちょっとした手間は必要だけどね。」
うーむと真紀は考えを巡らせている。
猫に水を運ばせる方法。
猫は頬がないから、口に含ませるのは無理だ。
猫の口は咥えて持ち運ぶしかできない。
真紀の頭は暑さで回ってきた。ギブアップだ。
「先生、降参です~。
母猫に冷たい水を簡単に運ばせる方法って何ですか~。」
「そうか、じゃあこれから実際にやってみようか。」
「どこに行くんですか?」
「そうだね、職員室でもいいが、保健室に行こうか。」
細田の先導の下、真紀はふらふらとついて行く。保健室を目指して。
放課後であることもあって、保健室に保健の先生は不在だった。
「おや、先生はいらっしゃらないのか。
じゃあ仕方がない。私達で勝手に拝借させてもらおう。
何、ほんの少しだけでいいはずだからね。」
「先生、だから何をですか?」
「これだよ。」
バコン!と、細田は扉を開けた。その扉は冷凍庫の扉。
中には氷嚢に使うための氷がいくつも入っている。
氷嚢、氷、と来て、やっと真紀の頭の回転も収まった。
「あーっ!そうだ!氷だ!」
「と、いうわけさ。
母猫に、氷を咥えて運ばせれば良いと私は思ったんだ。
猫に冷たい氷を咥えて運ばせれば、氷はやがて溶ける。
溶けた氷は冷たい水になるからね。
これなら、猫の咥えるだけの口でも運ぶことができるし、
子猫達は、氷が溶けた水を舐めて涼むことができる。
どうだろう?うまくいくかな?」
アイデアには自信があれど、猫に詳しくない細田は、ちょっと自信なさげ。
しかしそれには真紀がドンと胸を叩いて太鼓判を押した。
「細田先生、グッドアイデアですよ!
絶対うまく行きますって!
猫が氷を咥えるところ、あたし見たことありますもん。」
「そうかい?じゃあ早速やってみよう。」
冷凍庫の中の氷、そのうちのいくつかを、細田は手に取った。
真紀は楽しそうに細田の手を取って、
怪異の現場である水浸しの渡り廊下へと戻っていった。
水浸しの渡り廊下では、相変わらず母猫が顔を水に浸していた。
母猫が子猫達の方へ行ったのを確認して、真紀と細田は頷き合った。
保健室の冷凍庫から持ってきたいくつかの氷を、渡り廊下に置く。
真夏のコンクリートの上に置かれた氷は、すぐにじわじわ水になっていく。
「はやく・・・はやく・・・!」
氷が溶けてしまう前に母猫が帰ってこなければ・・・来た!
またあの母猫が、小走りで水を求めて渡り廊下に戻ってきた。
母猫は警戒しつつ渡り廊下に上がり、氷を見つけて飛び上がった。
体を横に向け、尻尾の先まで毛を逆立てている。警戒のポーズだ。
「お願い、怖がらないで。あたしたちの気持ち、届いて・・・!」
真紀が祈っていると、やがて母猫は警戒を徐々に解き、氷に近づいた。
すんすんと鼻で匂いを嗅ぎ、表面を軽く舐めて顔をキーン!と固まらせた。
しかし氷水は美味しかったようで、顔を引き攣らせては氷を舐めている。
やがて自分の本分を思い出したのか、母猫は氷を一つ咥えて去っていった。
「やった!意図が通じてくれた!細田先生、やったよ!」
「ああ、高山君。上手くいったね。後は子猫達の様子を見るだけだ。」
前と同じように、そっと子猫達のいる軒下へ行く。
するとそこでは、母猫と同じく、
氷の冷たさに顔をキーン!と固まらせている子猫達の姿があった。
こうして、水浸しの渡り廊下の原因と理由は解明された。
学校の校舎の軒下で育てている子猫達に水をあげるため、
母猫が少しでも冷たい水を求めてやっていたことだった。
今、水浸しの渡り廊下の舞台になった渡り廊下では、
定期的に氷が置かれるようになった。
もちろん、母猫に冷たい水を届けさせてあげるために。
しかし事情を知らない生徒達などは、
「涼を取るためにおいてあるのかな?」
などと思ったりしているのだった。
毎日氷を用意するのは細田の、氷を渡り廊下に運ぶのは真紀の役目。
そのお役目の約得か、真紀はあの母猫と少しは打ち解けた仲になった。
氷も地面におかず、手渡しで受け取ってくれるようになった。
「ほら、氷だよ。気を付けて持っていってね。」
母猫は真紀から氷を受け取る度、氷の冷たさに顔をキーン!と固めていた。
その姿が面白かったので、真紀と細田は放課後、一緒にかき氷屋に行くと、
あの猫達と同じように氷を頬張って顔をキーン!とさせて笑っていた。
終わり。
梅雨も終わりに近づき、涼が取りたくなる季節。
夏のホラー2025企画に合わせて、水を使った話にしました。
水はいつでも液体というわけではありません。
温めれば細かくなるし、冷やせば固まる。
その性質を使って、猫にも涼を取ってあげられるようにしました。
ただし猫は、冷たいものを一度に口にするとどうなるか知らないので、
顔をキーンとさせて痛い目に遭うのでした。でも一時的だけのことです。
冷えた水は猫にもありがたいことでしょう。
お読み頂きありがとうございました。