8
長いような、短いような。
魔王には形容しがたかった時間が過ぎて人の国の勇者が魔王の城へ到達した。
謁見室の椅子に座り、勇者を見下ろす。
金髪に青い瞳。
豪奢な鎧には血の汚れを着けつつも気品さは損なわれる様子はない。
それこそ物語の王子様と称されるに値する勇者は、荒い息を吐きつつも剣を構えなおす。
「魔王陛下、いかがなさいましょうか」
ずっと魔王のそばに控え続けていた異形の従者が魔王へ問いかける。
同胞を屠ってきた相手に対して、いささか暢気すぎる声だ。
勇者も同じことを感じたのか、眉間によっているしわを更に深くする。
それに対して、魔王は椅子の上で指を組みそして微笑んだ。
「もういいわ」
魔王の言葉に、異形の従者は少しだけ驚いたような顔をする。
昔はあまり表情が読めなかったが、こうしてそんな些細な表情の変化を読み取れるようになるほど、魔王はこの従者と共に生きたのかと少しばかり感慨深く思う。
従者の視線に微笑みで返し、ただこちらをいぶかし気な顔をした勇者をに視線を向ける。
「人の国の勇者。よくぞここまでたどり着きました」
まるで友に語りかけるような、そんな軽やかな声で魔王は勇者に声をかけた。
勇者は驚いたようだったが、決して油断せず剣の切っ先を下げることはない。
だが、同時に魔王にとびかかってくるようなこともなかった。
「あなたに一つ問いましょう」
勇者は若干虚を突かれたように目を見開く。
少しだけ幼さを感じさせた顔に、魔王はゆるく微笑む。
「平和とは、いったい何なのでしょうか」
魔王の問いかけに対して、はっとしたように勇者はその眼に力を入れてしっかりと魔王と、そしてその従者をにらみつけた。
「民草が宵闇におびえず、健やかに暮らすことだ」
はっきりとした、朗々とした声。
勇者を勇者たらしめるめる自信に満ちたその声はよく部屋に響いた。
重く、夜によく似た空気が立ち込める魔王の居城にとって、まるで勇者の声は太陽の光のようだ。
まぶしい、とでもいうように魔王はその赤い瞳を眇める。
「我らの国を侵略し、我らが民草を光で脅かすものが良く言う」
喉の奥で笑みを殺しつつ、魔王は勇者のいう平和を嗤う。
それを侮辱と取ったのか、勇者の瞳が怒りで揺れた。
「民草を先に脅かしたのは貴様らではないか!」
鋭く尖った、まるで刃のような声。
魔王を声だけで穿たんとする様子に、それでも魔王は笑みを崩さない。
怒りで震える勇者に対して、従者は蹄を大きく鳴らす。
牽制するようなその音に、勇者は辛うじてとびかかることを抑えたようだ。
警戒したように、じっと二匹の魔物の一挙一動を見据えている。
「かつて、先代の勇者はこの広間にて私の父であり先代の魔王の首を落とした」
ツンと鼻を刺した鉄のにおい。
魔王の目をふさいだ毛むくじゃらの手。
それらを魔王は忘れたことはない。
つらい現実を覆い隠す父の優しさも、少女のために差し伸べられる手ももうない。
「でも、平和は訪れなかった」
「魔王がいる限り我らの国に、否、人に平和は訪れない」
すぐに返された言葉に、魔王ではなく従者が喉を鳴らした。
それを咎めるように魔王は一瞥だけ従者によこし、そして勇者に向き直った。
「そう、私は魔王。畜生の王」
両腕を広げて、魔王と呼ばれ、そう名乗った少女は告げる。
さながら舞台役者の様に。
かつて先代魔王の元に魔物たちが集った広間。
荒れ果ててしまったこの広間は、新たな魔王のために修繕され、新たな舞台になったのだ。
「魔王よ。自らを畜生の王と名乗る者よ。貴様はいったい何が目的で我らが平和を脅かす?」
初めて、勇者から魔王へ問いかけた。
相変わらず切っ先は下げられないが、少しの戸惑いを瞳に乗せている。
表情よりも、瞳で自らの感情を語る勇者に今度は魔王ははっきりと笑みを向けた。
「私は畜生の王。かつて、人の国を追われた奴隷たちの末裔でありその王。それが私」
虚像で塗り固められた、魔物たちに祭り上げられた哀れな一族。
魔王は勇者に微笑みかけてそう告げる。
その言葉に、向けられた切っ先が揺れた。
「昔話をしましょう」
嫣然と微笑み、小首をかしげる魔王。
「かつて、戦に滅びた国がありました。その民は敗戦国の民として奴隷として扱われました。
奴隷商人によって、家畜のように様々な場所へ連れていかれた。そして虐げられ、死んでいった」
愚かしいこと、と魔王は鈴を転がすような笑い声をあげる。
「この国に、交易に訪れた奴隷商人から逃げ出した奴隷がいたのですよ。同胞たちと力を合わせて、奴隷商人から命からがら逃げだした一族。
ですが、彼らには奴隷の身分しか持っていない。当然、逃げ出したところで新しい主人に飼われるだけの哀れな物でしかなかった。
だからこそ、彼らは誰も足を踏み入れない場所へ逃げたのです。どうせ殺されるのならば、物としてではなく人として死にたいと」
勇者は魔王の語りに聞き入っているのか、目を大きく開いたまま動きを止めてしまっている。
険の取れた顔は、魔王とさして歳の変わらない幼さが見え隠れしていた。
「魔物たちの生きる国。そこへたどり着いた奴隷たちは、魔物を統べる王と偶然にも邂逅を果たした。
魔物は退屈を嫌い、争いを好んだ。けれど、繰り返される単調なそれに飽き飽きしていたのです。だから、魔物を統べる王は奴隷たちに契約を持ちかけたのです」
この地で交わされた密約。
残酷なまでに無邪気な幼さと凶暴性を湛えた魔物と、物として死ぬはずだった奴隷たちの間に交わされた契約。
「魔物は奴隷たちをその強靭な力で守る。代わりに、彼らは人との戦争の真似事を始めたのです」
この国の歴史を、歌うようにそらんじる魔王。
誰にも知られない、もう誰にも語り継がれることも凪いだろう歴史だ。
信じられないのだろう。
大きなその瞳を揺らす勇者。
哀れな人間だと、魔王は内心で独り言ちる。
魔王の祖先は魔物が作り上げた舞台で踊る駒だった。
そして、この勇者もまた人が作り上げた舞台で踊る駒なのだろう。
人間の側に立つか、魔物の側に立つか。
それだけの違いが決定的な深い溝を両者の間に横たわらせていた。
「私は一族最後の生き残り。最後の魔王」
きっと先代魔王は――父は己の代ですべてを終わらせるつもりだったのだろう。
そう言った意図の遺言らしきものを告げられてもなお少女は魔王をあえて引き継いだ。
終わりが決まった物語を、舞台を、美しく踊りきることを決めた。
ゆっくりと魔王は豪奢な椅子から立ち上がる。
魔王を象徴するかのような血のような赤いマントのすそを払い、ゆっくりと段を降りる。
かつて、父の腕に抱かれ、何度も登り降りたその階段を。
傍に控えていた従者は、静かにそのあとをついてくる。
幼い頃、どうしてもすそをひっかけてしまい引きずらないように持ってもらったことを思い出してしまった。
一段降りるごとに、魔王はかつての思い出を脳裏に描き出す。
厳しい戦況に、消えて行った魔物たちとの別れを惜しんだ日を。
自らの采配で魔物たちを死地へ向かわせたと怯えた日を。
魔物を集め、舞台の幕を開ける宣言をしたあの日を。
お飾りの王だと嘯きながらも、首を垂れた気高い魔物たちの前に初めて立った日を。
何も知らなかった少女に知識を、正しいふるまいを教えてくれた従者との勉学の日を。
先代魔王との――父との別れに涙した日を。
父の腕に抱かれ、絵本を読んでもらった日を。
最後の段を降りる。
勇者と同じ場所に降り立った。
もう威厳を示す必要がない、同じ目線の場所に。
魔王は大きく長い角に手を駆ける。
代々魔王に引き継がれてきた、本物の魔物を統べる王により渡された契約の証。
それを外したのだ。
勇者は動かない――否、動けなかったのだろう。
気づけば剣を持っていた腕は垂れ下がり、ただ茫然と少女を見ていた。
「私の首の代わりに、これを持っていけばいい。魔王を打倒した証だと」
差し出した角を、だが勇者は受け取らない。
「貴方も、舞台に上がったならばそれを全うしなさい」
勇者という役を受けたのならば、それを全うすべきだと少女は諭す。
その言葉に、ぎこちない動作で剣を鞘に納めて少女の腕の中から角をそっと受け取った。
かつて、幼い頃に従者から差し出されたそれをおっかなびっくり抱えた、自らの幻影を見るようで少女は懐かしさに瞳をすがめる。
「さぁ、幕引きよ」
舞台は終わった。
魔王であった少女は、役柄を演じきった。
晴れやかに笑って、少女は両腕を広げて無邪気な子供のように笑う。
舞台の終わりに響く拍手もなければ、役者を労う花束ももない。
それでも、確かにここが少女の幕引きの時だった。
目を見開く勇者に鮮やかな笑みを残して、少女は胸を貫いた従者の爪をただ受け入れた。