3
少女の父親は、三年前まで従者のような魔物を統べる王だった。
魔王の証でもある、立派な黒い角を持った立派な王だったと従者はよく少女に語ったものだ。
最期まで人間に勇者呼ばれる男たちと戦い、惜しくも敗れた勇敢な王。
少女が覚えているのは、父の頭から伸びる雄々しい黒い角。
膝の上で絵本を読んでもらうように強請った記憶。
時に低く、時に高く。
登場人物たちを彩る父の声はいつだって隠しきれない優しさであふれていた。
どんな恐ろしい物語だろうと、父の声のせいで少女にとっては少しも怖くなかった。
時折、父の角を触りたいと少女は強請ったものだ。困ったような顔をしては父親は少女に「みんなには秘密だよ」とそっと差し出してくれた。
誰も、従者もいない部屋の中で与えられる特権は少女にとってとても大切な秘密だった。
少女の前で、父親は魔王としての顔を見せたことがなかった。
勇者が魔王場へ向かっているという知らせを受けても、柔らかな空気もその優しい微笑みも陰りを見せたことは一度だってない。
『いいかい、かくれんぼだよ』
その日も父親は、いつも通り柔らかい笑顔で少女に告げた。
いつもとは違う、真紅のマントを肩にかけていた。
少女が父親に連れていかれたのはいつもの父親の部屋ではなく、小さな小さな隠れ家みたいな部屋。
まるで秘密基地みたいとはしゃぐ少女に、父親は少し困ったような顔で唇の前で指を立てる。
『誰にも見つからないように、静かにしてなくちゃだめだよ? もし最後まで見つからなかったら、夕飯は好きな物を作ってあげる』
少女は、当時コックが作ってくれたラズベリーのジャムをたっぷりかけたパンケーキが好きだった。
だからそれを強請ろうと父親の言葉に素直にうなずいて部屋の中でも見つかりにくそうなクローゼットの中に隠れたのだ。
甘酸っぱくて、宝石みたいに輝くラズベリージャムがこれでもかとかけられた、ふわふわなパンケーキ。
絶対にお願いするんだと息を殺して、降参だと父親が迎えに来るのを少女はずっと待っていた。
いつもの夕飯に近い時間になっても父親は少女を迎えには来なかった。
クローゼットの中で転寝をしてしまった少女は目をこすりながら、そっとドアを細く開ける。
柔らかなオレンジ色の光が窓から部屋を染め上げているのが見えた。
少し前にコックがおやつにと作ってくれた、甘く煮込んだアプリコットを思い出させる光に、小さく少女のおなかが音を立てる。
そう言えばずっと隠れていて、おやつの時間も過ぎてしまっている。
おやつを食べ損ねてしまったことが少しばかり惜しいが、きっと今日のかくれんぼは自分の勝ちだ。
だからきっとおいしいパンケーキを焼いてもらえると思い、少女はクローゼットの中から飛び出す。
父の部屋も、いつも父の部下たちが詰めている部屋も、どこもがらんどうとしていた。
みんなまるでどこかへ消えてしまったかのようで、どうしたのかしらと少女は首をかしげながら父が人と会う時にだけ使う大広間へ足を向けることにした。
みんなが会議に使っている部屋にも誰もいなかったから、たぶん大広間に集まっているんだろうと少女は思ったのだ。
いつもはドアを守ってくれている父の部下が開けてくれる大きくて重いドアは、どうしてだか半開きという中途半端な状態になっている。
きっちりとしたがりの部下は、いつだってそう言ったことを嫌う性質で、たまにめんどくさいと父親がこぼしていたことを少女は覚えていた。
ドアに近づいた時だ、つんと金属のにおいが少女の鼻を刺激する。
『おとうさん?』
いつもならばすぐ返ってくる返事がない。
どうしたんだろうとドアの隙間から顔をのぞかせたときだった。
『見てはいけません』
毛むくじゃらな、大きな手が少女の目をふさぐ。
後ろから抱え込まれるように少女の行動を制した者は、やはりつんとした金属のにおいがする。
大きな手が少女の視界をふさぐ前に、ちらりと見えたのは床に倒れる何かだ。
真っ赤な大きいマントに、立派な大きい角。
それからのことを、少女はよく覚えていない。
泣き叫んだのかもしれないし、酷く暴れたのかもしれない。
ただ気づいたらいつもの自分の部屋のベッドの上にいた。
少女が、ただの少女から魔王になる少し前の出来事。