キャッシング
そして、その月の月末。家賃、カードの支払いと、いつもの逃れられないその日がやって来る。しかし、お金は足りなかった。
「キャッシング・・」
リボ払いでも回らなくなり、ついに生まれて初めて、苦渋の決断で、博史は親以外からお金を借りた。カードのキャッシング。三万円・・。
もう完全に博史の生活は破綻していた。
博史は、日々追い込まれているというその重い圧迫感を感じていた。しかもそれは一方向からだけではなく、ありとあらゆる方向から追い込まれていた。体や心の不調、生活苦、物価高、母の高齢化、孤独、社会的孤立、最後の頼みの綱だった役所に相談してもダメだった。助けて欲しいと思う国からも、助けるどころか増税という形で追い込まれていく。博史は、お先真っ暗な絶望を感じた。
国の困窮者に対する十万円の給付金も、住民税非課税世帯のみという、そのちょっとばかり上の年収である博史は対象外だった。しかし、苦しみは同じかそれ以上だった。
住民税非課税世帯は、様々な税や社会保障費の減免や免除を受けられる。しかし、その枠の年収百万円を超えると途端にその負担は重くなる。だから、ちょっとしかその上ではない博史は、まともに税金や保険料の請求が来るのでほとんど、手取りは住民税非課税世帯とほぼ変わらない。それどころか、下手をするとその下になる。少ない収入から税金や社会補償費を引かれてしまうので、生活保護世帯よりも手取りが低くなってしまうのだ。しかも、生活保護世帯は医療費もかからないし、様々な福祉や補助も受けられる。心身共にボロボロの状態で働いている博史の方が、医療や福祉サービスの補助も受けられず、手取りも低く、そして、税金や社会保障費の減免や免除も受けられず、給付金も受け取れない。博史はやるせない思いに、打ち震えた。しかし、どうしようもなかった。どうすることもできなかった。その生活保護も断られてしまった。
「どうしたんだ。元気ないな」
山崎が呑気に、どこか浮かない顔の博史を見る。今日も昼は山崎と一緒だった。
「ええ、まあ・・」
何もする気が起こらなかった。博史は酷い鬱状態だった。食欲もなく、すべてにおいて興味も感心すらも持てない状態だった。
博史は借金のことを考えるだけで、日々、心が押しつぶされそうだった。お金がないという苦しみが堪らなく、ただでさえ病気で辛い博史の精神を追い込んだ。
「冬のボーナスの平均が八十九万だってよ」
新聞片手に、そんな博史の苦しみも知らず、山崎がまた呑気に言った。
「・・・」
ボーナスなど、人生で一度も正社員になったことのない博史にはまったく関係のない話だった。どこか遠い国のおとぎ話だった。その額はほとんど博史の年収だった。
「大卒初任給が三十万だってさ。すごい時代になったな」
山崎はしきりと感心している。しかし、初任給もずっとアルバイトや非正規の仕事で糊口をしのいできた博史には全然関係ない話だった。月収三十万円など、どんなにがんばって休みなく働いても、手にしたことのない額だった。
「いい時代になったもんだ」
山崎が言う。しかし、そう言った恩恵にあずかれるのは、一部の競争に勝ち上がったエリートか運のいい恵まれた立場の人間だけだ。そのことを、高度経済成長一億総中流の時代を生きた山崎は知らない。多分、説明しても分からないだろう。
「役所の福祉課にですね」
「あの、行きました」
博史は、やはりもうにっちもさっちもいかなくなり、今度はネットで見た生活相談窓口に電話してみた。
しかし、そこで言われるのは、やはり生活保護だった。
「福祉課にもう一度行ってみてください」
「はあ・・」
またあの否定的な扱いをされると分かっていながら、また行くのは勇気のいることだった。
「あなたのケースでしたら生活保護が受けられるはずです」
「はあ・・」
しかし、そう言われても、前回行った時にはけんもほろろに追い返されるようにそれは否定された。理屈と現実は違う。理屈はそうでも、実際の実社会ではまた違う力学が働き、違う現実がある。
「・・・」
だが、他に方法もなく、博史は再び役所の福祉課に向かった。窓口に行くと、偶然また前回と同じ佐藤という職員に当たった。その職員は博史の顔を見ると露骨にまたかという嫌な顔をした。
「あの・・、生活相談窓口に電話したら、あなたは生活保護の対象になるはずだと言われまして・・」
席に座った博史は前に座る佐藤におずおずと言う。
「なるほど、そういうことですね・・」
前回とは違い、一応丁寧な口調ではあるが、佐藤は露骨にめんどくさそうな態度をとる。
「生活保護というのは、本当に困った人のためのものでして・・」
佐藤は、丁寧な口調で説明を始める。しかし、それはまるで小学生に説明してるような言い方だった。そして、その内容は、やはり、博史の生活保護申請を否定するものだった。
「だからね。前回言ったように・・」
そして、話しているうちに、口調が前回よりも露骨にぞんざいになって来た。
「前にも説明したよね?聞いてた?」
ため口率も増していた。まだ二十代後半くらいの博史よりも明らかに年の若い男だった。
「・・・」
博史はここに来たことを早くも後悔し始めていた。
役人は、誰と話しても、話し方は丁寧で愛想はいいが、いつも博史はまったく心を感じなかった。まるで機械かロボット、AIと話しているようだった。いや、AIの方がもっと心を感じる。それが今回は、その丁寧さすらもなくなっていた。
「・・・」
やっぱり気のせいではなかったのではなかったか。博史は思った。前回、わざと博史を追い返すような態度をとったと、博史は思ったが、それは自分の被害妄想だと否定した。しかし・・。
「何度来ても同じですよ」
「でも・・」
「でもじゃないんです。前回もその辺は詳しくお話させていただきましたよね」
かなり強い口調だった。喧嘩腰に近かった。博史は、そのきつい言い方にショックを受ける。
「はあ・・」
しかし、もう、博史の生活は破綻していた。このままでは借金がかさみ、それこそ大変なことになってしまう。生きるか死ぬか。博史はそこまで追い込まれていた。ここで素直に引くわけにはいかなかった。いつもなら気の小さい博史はちょっと何か言われただけで、すぐに自分の意見を引っ込めてしまっていた。しかし、今は生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
「でも、生活保護の対象だって、言われて・・」
博史は食い下がった。
「・・・」
佐藤は、露骨にめんどくさそうな顔をして、わざとらしくため息をついた。そして、しばらく、黙って何かを考えていた。
「・・・」
その沈黙が博史には恐ろしかった。なぜ、役所に助けを求めてこんな思いをしてるのだろうと、博史は今の自分を奇妙に思った。
「支援団体がありますよ」
突然、佐藤が言った。
「えっ、支援団体?」
「はい、困窮者支援をしている団体です」
「・・・」
「そこに行ってみたらどうですか」
「はあ・・」
役所は助けてくれないのか?役所の人間が民間の困窮者支援団体を紹介することを奇妙に思いながらも、これ以上佐藤と話すのも嫌だし、他にあてもなく博史はその場所を聞いた。