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腰痛

 博史の腰痛は、抜き差しならないレベルまで来ていた。何とか痛みに耐え、仕事を終え家に帰り着くと、もう、腰はパンパンで座る時に腰をちょっと曲げるだけで痛みで顔が歪むほどだった。

 最近では胃の痛みまで出ていた。多分、ストレスと、時々どうしても腰の痛みに耐えられない時に飲む痛み止めの副作用だろう。その痛みも徐々に耐えきれないものになり始めていた。しかし、医者に行く余裕は博史にはなかった。博史は、医者にすら行けない自分の現状にまた落ち込むのだった。


「あの・・」

「なんだ?」

 魚崎がその瘦せこけた鶴みたいな顔を向け、横柄に博史を見る。魚崎は夜勤や二十四時間勤務の管理主任業務を主にやっているせいで、自律神経がやられているのだろう、いつも冴えないイライラした表情をしていた。それが、博史が話しかけると、さらに険悪な顔になった。

 年は丁度七十。正社員ではなかったが、この道三十年とか四十年とかのベテランだった。魚崎には博史と同じ三十代後半の娘がいる。そのことを暗にその年で結婚していない博史にダメ出しするようにして以前魚崎は博史に話したことがある。

「あの、休憩時間なんですけど・・、十二時間勤務の場合、契約書には二時間てなっていたんですけど・・、昼一時間、夕方一時間て・・」

 博史は日頃思っていたことを、魚崎に思い切って言ってみた。勤務は七時間勤務と十二時間勤務があった。十二時間勤務の場合、休憩は昼一時間、夕方一時間と、契約書には書いてあった。もちろん、その休憩時間を引いた額の分の時給しか給料は支払われない。

「ここは昼に一時間、夕方に三十分。以上だ」

 だが、魚崎はにべもなくそれだけを言った。

「でも・・」

 昼の一時間すらが、緊急対応が合った場合、その対応をしなければならなかった。福祉の総合施設。中には病院もあり、救急車も頻繁にやって来る。それは決して少なくなかった。それでお昼がつぶれてしまうことも博史が以前週に五日勤務出来ていた時も、一度や二度ではなかった。

「嫌ならやめていいぞ」

 博史が何か言おうとすると、魚崎は最後に冷たくそれだけを言った。

「・・・」

 十二時間の立ち仕事。ほぼ、ただ立っているだけとはいえ、腰を痛めている博史には過酷な仕事だった。だからこそ、休憩時間は貴重だったし、絶対に必要なものだった。

「・・・」

 しかし、博史にはそれ以上言う能力も気力もなかった。口下手で気の小さい博史にはこれが限界だった。博史は黙った。

 家に帰ると、今日も腰はパンパンになっていた。休みたかった。仕事を辞めて思いっきり休みたかった。いや、腰が悪くなかったとしても、体調が万全であったとしても、あんな酷い労働条件の職場など今すぐに辞めてしまいたかった。

 しかし、労働条件がどれほど酷くても、当然辞めるわけにはいかなかった。博史のような学歴もない、病気持ちの人間には他に仕事を見つけるのは難しかったし、この職場は家からも近く、そういう職場は他にはなかった。街から離れた郊外、ここ以外に家の近くで仕事を見つけるのは難しかった。 

「・・・」

 博史は、部屋で一人、今日の魚崎とのやり取りを思い出していた。

「人間は理屈やきれいごとではないな・・」

 博史は一人呟く。社会の底辺労働を様々渡り歩いて来て博史は思う。やさしさや思いやり、そういった基本的な社会常識や道徳観念が身につかない人間は身につかない。そういう人間を博史は、様々な労働現場で山のように数々見てきた。そして、そういう世界によくいる、どこか人格に問題のある人間。あの魚崎もそういう人間だった。

 博史は悲しくなった。思えば、真理愛たちに出会うまで、博史はここまでの人生のほとんどを、そんな人間たちの冷たさの中で生きてきた。人間性に欠陥のあるろくでもない人間たちに囲まれ、博史は心を削られ生きてきた。

「・・・」

 博史は自分の人生が堪らなく惨めで悲しくなった。


 あの日以来、博史はあの先輩の存在が頭から離れなくなっていた。二人の楽しそうな姿、真理愛のあの信頼しきった表情。あの時の光景が頭に張りついて離れなかった。思い出す度、博史は不安で不安で堪らなくなった。

「真理愛さん・・」

 真理愛のことばかりを考えるようになっていた。真理愛のことが気になって気になってしょうがなかった。生活苦でそれでころではないはずなのに、博史は真理愛のことばかりを考えていた。

 苦しかった。不甲斐ない自分、苦境の自分が恨めしかった。自分が、健康で、甲斐性もあり、正々堂々と真理愛を愛せる人間であったなら・・。

 今の自分があまりに惨めで情けなかった。そんな自分に、また博史は絶望するのだった。

 

「うっ」

 腰をちょっと変なひねり方をするだけで思わず声が出た。腰の痛みは、骨の芯の方に達するような強い痛みへと変わっていた。本来もう働ける状態ではなかった。それでも仕事を休むわけにも、変えるわけにもいかない。体を引きずるようにして、博史は仕事に行っていた。 

 そして、無理をし続けた結果、ついに博史の腰の痛みは、足にまで広がり始めた。これは、医者でなくても明らかにやばいと分かるレベルのものだった。しかし、借金があり、仕事を休むことも辞めることも出来なかった。無理をしてでも仕事に出る。そして、悪化する。その悪循環に陥り抜け出せなくなっていた。


 腰から来る足の痛みが、足先の痺れにまで広がり始めた。堪らず博史は医者に行く。医療費が気になったがしょうがなかった。

「椎間板ヘルニアですね」

 医者がレントゲンを示しながら言った。

「ヘルニア・・」

「手術ということになります」

「手術・・」

 ある程度覚悟はしていたが実際に医者にその言葉を聞くとやはり博史はショックだった。

「治らないんですか」

「手術以外は難しいですね」

「・・・」

 もちろん手術するお金などなかった。それに仕事を休めない。仕事を休めばそれがそのまま手取りを失うということになる。

「このまま進行していくと、痛みはどんどん強くなって、手や足に痺れが出てきます」

「・・・」

 痺れはもう出ていた。

「最悪、下半身に痺れが出て歩くことができなくなります」

「・・・」

 医者のその言葉は死刑判決のように、強烈に博史の胸を打った。

「手術をすれば治るんですか」

「う~ん」

 医者は渋い顔をした。

「手術をしても、完治するかは分かりません。治ったとしても、再発率はとても高いです。約六割が再発すると言われています」

「・・・」

「まあ、人間の宿命みたいな病気ですからね」

 医者は、そこで笑った。

「・・・」

 博史はその笑顔を茫然と見つめていた。その場にふさわしくないその医者の笑顔に対して怒りを覚えることすら忘れていた。

 博史はその日絶望的な気持ちで、帰って行った。

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