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幸せと不安

 充実した日々が流れていた。楽しかった。今までの孤独な日々から考えたら天国のような日々だった。やさしいボランティアの仲間がいて、そして、何よりも真理愛がいた。

 そのせいか心の調子もよかった。あれだけ何十年と医者に通って、たくさんの種類の薬を飲んでも全然よくならなかった、というか悪くしかならなかった博史の辛い心の状態が、嘘のようによくなっていた。心が軽く、明るくなっていた。前向きな思考、病気になる前のやる気が戻っていた。まるで世界が違っているようだった。曇天が晴れたような明るく輝く世界。そんな風に、今の博史には世界が見えていた。

 博史は、以前読んだ本の中で一番心に効くのは、友だちだと誰かが言っていたことを思い出す。それは本当だった。しかも、真理愛のようなかわいい女の子までが親しくしてくれている。

 真理愛とはあれからも、映画を見に行ったり食事をしたりと、仲のいい関係が続いていた。幸せだった。信じられないくらい幸せだった。生まれて初めて感じる種類の幸せだった。博史は自分が女の子と仲よくなるなんて、しかも、あんなかわいい子と、さらにデートまでできるなんて夢にも思っていなかった。自分の人生にこんな楽しい日々が来るなんて想像もしていなかった。

 本当に体調までがよくなった。心も体も軽かった。性格まで明るくなった。女の子の力は、なんてすごいんだ。と博史は思った。

「なんだ。最近、なんか楽しそうだな」

 山崎がそんな博史に気づき昼休みの時に声をかける。

「え、ええ、まあ」

 やはり、言わなくても分かるらしい。

「彼女でもできたか?」

 山崎がからかうように言う。

「えっ、そ、そんなことないですよ」

 山崎の鋭さに博史はどもる。

「でも、ほんとなんか明るくなったよな」

「そうですかね」

「ああ」

 山崎が疑わし気に博史を見る。

「ほんと彼女でもできたんじゃないのか」

 山崎が博史の顔を覗き込んでくる。

「ち、違いますよ」

「ほんとかなぁ」

 山崎はさらに博史の顔を覗き込む。

「ほ、ほんとですよ」

 山崎は元警察官だけあって、やはり鋭い。

「なんか妙に幸せそうなんだよなぁ」

「・・・」

 実際、幸せだった。でも、幸せ過ぎて、ふと博史は不安になる。なんだか怖かった。自分の人生がこんなに幸せなはずがない。自分の人生がこんなに順調なはずがない。どうしても博史はそう思ってしまう。博史は、背中に張りつくような言いようのない不安に襲われる。

 これほど人と親密につき合ったこと自体、博史は今まで相手が男でもなかった。真理愛も博史に好意を持っているのか?博史は考える。

 デートしてくれるってことは・・、というか僕たちはつき合っているのか?僕たちはどんな関係なんだ?博史は悩んだ。

 確かに親密な関係ではあった。しかし、真理愛は誰に対してもそんな態度のような気もする。実際に真理愛は誰に対してもやさしい。

「もしかして・・」

 もしかして、彼女は僕がかわいそうだからつき合ってくれているのか・・。やはり、博史はついそんなことを考えてしまう。どうしてもマイナスマイナスな方に物事を考えてしまう。自分みたいな人間を真理愛みたいな子が好きになるはずがない。博史はまったく自分に自信がなかった。

 それに、彼氏がいないとまだ確認したわけではない。それは恐くて訊くことができないでいた。

「・・・」

 博史は、幸せを感じながらも堪らない不安の中で悶えていた。思春期の男子のような、堪らない苦しみの中で博史は苦悩していた。


 いつものように、ボランティアをするために博史が虹の橋の事務所に行くと、そこに見知らぬ若い男がいた。博史は緊張する。見るからに、優秀そうな男だった。博史は、一目見ただけで劣等感を感じてしまう。こういうタイプの男が博史は一番苦手だった。

「高校時代の先輩です」

 その男の隣りにいた真理愛が笑顔で博史に紹介する。

「ど、どうも・・」

 博史はおずおずと頭を下げる。見た目もカッコもよかった。一瞬で堪らない敗北感が湧き上がる。自分と比べるべくもなかった。

「先輩久しぶりですね」

 二人は、気の置けない感じで気さくに話をしている。

「・・・」

 そんな二人を事務所で作業をしながら博史はチラチラと見る。真理愛は、今まで、博史が見たことのない安心し、信頼しきった表情をしている。どういう関係なんだろう。当然、博史は気になった。

「・・・」

 真理愛は、ずっとその高校時代の先輩と楽しそうに談笑している。博史はまったくその中に入って行けない。

 二人は博史が見てもお似合いだった。

「やっぱり・・」

 やっぱり、真理愛は自分なんかが手の届く人間じゃない。真理愛は自分とは違う世界の人間なのだと、どこか遠い距離と壁を感じた。やさしくはしてくれるが、住んでいる世界が違う。博史は強くそう感じた。

 自信や自己肯定感のない博史はこういう時、すぐに劣等感に沈み、自己卑下してしまう。


「今日晴れてよかったですね」

「うん」

 天気予報では雨マークが出ていたが、この日は、まったく雲のない快晴だった。

「今日はありがとうございます」

「ううん」

 今日は前に真理愛が行きたいと言っていた美術展に、博史がつき合う形でのデートだった。

「あの・・」

「なんですか」

「前に来ていた先輩って・・」

 博史はあれからずっと気になっていた。訊くのが怖かったが、つい訊いてしまう。

「ああ、先輩カッコいいですよね」

「う、うん」

 真理愛は今日も屈託ない。博史の真意などまったく気づいていない。

「先輩はでも、カッコいだけじゃなくて頭もすごくいいんです。スポーツも万能で・・、他の高校からも追っかけが試合を見に来るくらいだったんですよ」

 真理愛は、饒舌に先輩の話をうれしそうにする。それを博史は複雑な気持ちで聞いていた。

「生徒会の役員もやっていたんですよ」

「訊くんじゃなかった」  

 博史は心の中で思った。

 そして、真理愛の先輩は、誰もが知るような東京の有名な大学を出ていた。しかも、推薦。完璧だった。博史の持っていないもの、欲しい要素をすべて持っていた。それでいて、性格もよかった。しかも、年下で健康でまだ若い。何一つ博史の勝てる要素がなかった。

「・・・」

 博史は堪らない劣等感を感じた。しかも、いい人だった。年上の博史にも、やさしく、その立場をおもんばかって接してくれる。いろんな面で、できた人間だった。

 これでまだ、性格が悪ければ、恨むことも、それなりに自分の存在を正当化することもできたかもしれない。でも、彼は、見た目や学歴だけでなく、性格も人格も人間性も立派だった。あの、役所の窓口で相対した佐藤とはまったく人間の質が違っていた。まったくおごったところも、傲慢なところもなかった。

 その一方でそんな人間に、嫉妬し妬んでいる自分がいた。博史は落ち込む。その人間性においてもまったく勝てなかった。

「高田さん、なんか元気ないですね」

 真理愛が博史の顔を覗き込む。

「う、うん・・」

 その原因があなただとは博史は当然言えない。

「私これ見たかったんですよね」

「そうなんだ、よかったね」

「はい」

 無邪気にうれしそうな顔をする真理愛を見て、博史もついうれしくなる。

「・・・」

 しかし、美術展のチケット代も、物価高の影響で値上がりしていた。かなり昔だが博史が美術館で絵を見た時は大人で一人千五百円くらいだった。それが今は二千五百円した。当日だと三千円。今の博史にとって痛い出費だった。チケットは真理愛が前売りを手に入れてくれていて多少安く済んだが、それでも二千五百円の出費は痛かった。

「・・・」

 無理をすれば、月末の支払いでそれだけ、借金が増えた。元々、映画を見たり、美術館に行ったり、外食する余裕など博史の生活の中にはなかった。生活するだけでも、もうお金が回っていないのだ。それが今の博史の現実だった。

 

「また映画行きましょうね」

 美術館からの帰り道、真理愛が横に並ぶ博史を見る。

「なんかおもしろい映画があるみたいなんですよ。今アメリカで大ヒットしてるらしいんですよ。タイトル忘れましたけど。あははは」

 タイトルを忘れる辺りが真理愛らしかった。

「う、うん・・」

 しかし、以前だったら、堪らなくうれしかった真理愛のそんな言葉が、今はなんだか苦しかった。博史は、自分のこれからを思い暗澹とするのだった。


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