ボランティア
惨めだった。まともにご飯が食べられないということは、単純に栄養がとれないとか、お腹が満たされないとか、そういうことだけではなかった。精神的に非常に追い詰められた惨めな気持ちになった。むしろ、そっちの方が辛かった。
自分一人ならまだよかった。粗末なものでも、インスタントなものでも、安売りのものでも、値引き商品でもなんでも、食べられればなんでもよかった。しかし、母に惨めな思いをさせることは辛かった。女で一つで博史を育て、贅沢らしい贅沢もしたことのない母だった。近場の温泉旅行にすらも行かせてあげられていなかった。母のその年齢に似合わない、荒れた手を見ると、いつもその苦労が察せられた。それを見る度、博史は、堪らない気持ちになるのだった。せめて母には、贅沢は無理でも、普通の食事ぐらいは毎食食べさせてあげたかった。
「お米はまだ高くない。小麦に比べればまだまだ安い」
国会議員が、国会答弁で意気軒昂にドヤ顔で叫んでいた。しかも、リベラルを標榜する国民の味方であるはずの側の野党議員である。博史はそれをネットで知り、憤慨する。
博史の母は、戦後の人でやはりパン食は苦手だった。どうしても、お米が必要だった。しかし、その値段は倍以上もしていた。博史は、いつも一番安いお米を買っていたが、それすらが、十キロで六千円を超える。以前なら二十キロは買えていた値段だった。家計には大打撃だった。
買い物の時には十円二十円を気にし、百円単位で節約していた。それでも、家計が回らない状況の中で、数千円の出費は大きかった。しかも、まだまだ米は日々値上がりしていた。今は五キロ四千円でも安い方だった。
「はあ~」
博史は、無意識のうちにため息が漏らしていた。
今日は見切り品の八朔を博史は買っていた。果物など最近高くてバナナくらいしか買えなかったが、今日は、見切り品の棚を見ると、一個五十円になっていて思わず博史は買ってしまった。それでも今の博史の家の経済状況から考えると、贅沢品だった。
それを、博史は食後に出す。それは上半分が少し腐っていた。博史は、それを横半分に切り、下のきれいな方を母に出し、そして、自分は、少し腐った上の方を食べた。上半分も皮は腐っていたが、皮をむいてみると、中身はまだ食べれそうだった。博史は、その少し繊維の壊れた八朔の実を口に入れる。鮮度はないが、久々の柑橘類の果物はおいしかった。母も喜んでいた。しかし、博史は、八朔を食べながら堪らない惨めさを感じた。
その昔、まだ博史が幼かった頃、テレビで、飢えたアフリカの子どもたちが、半分腐ってハエのしきりとたかるミルク粥を食べていた光景を見たことを思い出した。その時は、日本に生まれて本当によかったと心の底から思ったものだった。
「・・・」
しかし、その時は、まさか自分がこんな状況になるなんて夢にも思っていなかった。
「よかったら」
「はい?」
「よかったら、手伝ってもらえません?」
博史が、また、今後のことで話をしに、真理愛のいるNPO法人虹の橋の事務所に行った時だった。話が終わり、一息つこうとしていた博史に、突然、真理愛が言った。
「えっ、何を?」
博史は驚いて真理愛を見る。
「私たち男手が足りないんです。だから、私たちの活動手伝ってもらえないかなって」
「えっ、あ、ああ・・」
博史は、全身に電気が走ったみたいに、舞い上がってしまう。頭が真っ白になって言葉が出て来ない。
博史は人にこんな風に人に何かに誘われたことが初めてで、人に何か必要とされたことも初めてで、しかも女性に、こんな若くてかわいい子に誘われるなんて、想像もしていないくらいあり得ないことで、だから、博史は全身が緊張で固まってしまうくらい舞い上がってしまった。でも、うれしかった。うれしくて何をどうしていいか分からないくらいうれしかった。
「だめですか?」
固まり黙ってしまっている博史に真理愛が再度訊ねる。
「う、うん、いいよ」
喉が詰まりそうになりながら、やっと博史はそれだけを言えた。
「ほんとですか」
真理愛がうれしそうな顔で目を輝かせる。真理愛のそのうれしそうな顔が、博史はさらにうれしかった。自分が真理愛の役に立てる。そのことに、博史は大きな喜びを感じた。
「どうしたんだい?」
その日の夕食時、妙にうれしそうな顔の博史に、母が怪訝な顔で訊ねる。
「ううん」
人から、そして、真理愛に誘ってもらったことが博史はうれしくて堪らなかった。それで、思い出す度に、つい、顔がにやけてしまった。
仕事が休みの日、博史も真理愛たちのNPO、虹の橋での活動を手伝うようになった。思いがけず博史の新しい生活が始まった。腰を痛め、体調不良や精神疾患のある博史にはやれることは限られていた。しかし、みんなそんな博史にもやさしかった。
今まで博史は様々なアルバイトを転々として来たが、そこはどこも、人間関係が殺伐としていて、弱い博史のような人間は、いつもぞんざいに扱われ、いじめられることも多かった。それが当たり前だった。だから、博史の中では人は冷たいものだったし、集団行動は仕事よりもいじめられないことに必死になることが常だった。しかし、ここは違っていた。みんなやさしかった。当たり前みたいにやさしかった。博史をバカにする人間は一人もいないし、いじめる人間もいなかった。
最初はそのことが信じられず、博史はおどおどしていた。むしろ、やさしくされることに違和感すら感じるほどだった。しかし、次第に、人のやさしさに慣れてくると、少しずつではあるが、博史も心を開いていくことができた。
そして、ボランティアを通じて、自分と同じような生活困窮者が、この国にはたくさんいることを博史は知った。自分だけじゃない。やっぱり、この生活苦は自分だけの問題じゃない。博史はそう思えた。
「社会的な問題なんですよ」
真理愛が言った。博史はずっと自分を責めて生きてきた。自分が悪い、自分の努力が足りなかったから、自分がバカだから、自分が弱いから、根性がないから。もちろんそれもある。でも、やっぱりそれだけじゃない何かがある。博史はどこか救われるような気持になった。
次第に、博史はボランティア活動に熱中するようになっていく。ボランティアと言っても、大変なことも多い。しかし、博史は仕事に生まれて初めてやりがいや楽しさを感じていた。
ボランティア。なぜそんな何の益もないタダ働きをするのか、博史は今までまったく理解できなかった。貴重な休みの日、空いた時間になぜタダ働きをするのか意味が分からなかった。それを自分が今していることにもまだ違和感があった。
しかし、今まで人生の中で感じたことのない、充実した感覚があった。やさしい仲間がいる。人から感謝されることもあった。自分が人の役に立っていることの喜び、社会の中で自分の役割がある感覚。それが、博史はうれしかった。
そして、何より真理愛と一緒にいられることがうれしかった。
「・・・」
博史は向かいにいる真理愛を盗み見る。やはりかわいかった。もちろん、真理愛とつき合えるなどとは思っていなかった。自分は社会の底辺の困窮者で、高校中退のもうすぐ四十の男。真理愛は大卒でまだ未来輝く二十代の若者だった。博史には高値の花だった。
でも、一緒にいられるだけで、幸せだった。話ができるだけで幸せだった。同じ空間にいられるだけで幸せだった。博史は、今、幸せだった。




