宇宙色の菫
昔から、宇宙が好きだ。
雲が薄くかかっていようと、晴れやかな真っ暗闇だろうと、星の明かりは小さくて夜道を照らすには足りない。そんな頼りなさに一種の儚さを見出し、物思いに耽ける感覚は不思議な程に満たされた時間になっていた。
月明かりの薄い、ある三日月の夜。
足元に暗闇が這い寄るのすら楽しみながら、足音を奏でたあの日。
雲は見えず、幾多の星が優雅に瞬いていたあの日が始まりだったのかも知れない。
何故なら、私は一つの宇宙を見つけたからだ。
綺麗だ。
第一印象は、それに尽きた。
細い輪郭に長く黒い髪。切れ長の一重、濃いめの眉がツウと華やかに伸び、色の淡い唇が街の灯火を柔らかく反射する。口角を僅かに上げて笑う度に艶やかに細くなる瞳に、いとも容易く胸を射抜かれた。
ネオンを反射する黒髪の中にもう一つの宇宙を垣間見た私が、無礼を承知で遠慮がちに手を伸ばした時。くすぐったそうにころころと頬を染めたあの顔が、今も脳裏と瞼の裏と、胸の中を焼け焦がしている。
出会いは些細なことだった。見るからに野蛮な男に、手こそは出されなかったものの言い寄られていたところに、私が女性の姉として一芝居打っただけだ。
それだけのことなのにいたく気に入られ、懐かれ、ありったけの感謝の言葉を浴びせられた上に近くの居酒屋で酒を奢られてしまい、元々酒好きだったのが災いしてあっという間にプライベートな話までしてしまうという体たらくである。
大いに盛り上がって終電を逃してしまい、女性二人で夜道を歩くのは危ないという正義感が働いた私は、相手が不快に思うかどうかを数分に一回は確認しながらホテルへと足を踏み入れた。
入った部屋は比較的広く、二人揃って息を吐いたのも束の間、ダブルベッドが視界に映ってもう赤いのか青いのか分からない顔で悲鳴をあげてしまったのを、宇宙の髪を持つ彼女がこれまでで一番大きな笑い声で吹き飛ばしてくれたのをよく覚えている。
その日は私がソファを譲らずに夜を明かし、寝ぼけなまこのまま頬を膨らませてみせる仕草にざわざわと胸をくすぐられながらホテルの出入り口で別れた。
以降。連絡先を交換していたから、定期的に二人で飲みに出かけることが増えた。仕事の愚痴や人間関係のいざこざ、食事の好みなどなど、全て他愛もない話だ。アルコールが終電逃しの原因にならぬようセーブしつつではあったが、飲みの予定が決まるとその日まで変に浮かれてそわそわしてしまうくらいに彼女は私にとって大きな存在だった。
人通りの少ない、こじんまりとした飲み屋が並ぶ裏通り。その背景の中、数回の飲みのお開き際に、梅の香る琥珀色がもたらした頬の染まりが、揺れる宇宙と重なって何度も目を奪われた。
宇宙に触れた私の手は暖かく熱の篭ったその頬に吸い込まれ、微笑んだ彼女がふわりと淡い花の香りを私の顔に漂わせた後。私の思考は真っ白に静止する。
視界いっぱいの一重の目。
細い両手で固定されて動かせない頭。
熱く柔らかい感触が唇に触れた。
それが何かを理解する前に、心臓が跳ねて跳ねてやかましい。塞がれていた唇からお互いに息が漏れ出て、視界の端が夜闇とは違う暗闇に蝕まれていく。
ああ、成程。私より低い身長を爪先立ちで伸ばしてまで繰り出された不意打ちに、私は物の見事にしてやられたのだ。
軽い酸欠と突然の出来事にくらくらと目眩がしているうちに、宇宙は甘い導きとして私を瞬く間に、二人だけの花園へと攫いあげてしまったのだった。
あれ以来、宇宙に恋焦がれる愚かな人間がここに一人誕生してしまった。しかしそれが、不思議と心地よくて、和やかで、あわよくばずっと続いて欲しいと欲深い願いを真顔で言い放ててしまえるくらいに心酔している。
ああ、もうそろそろ帰ってくる頃合いだろうか。
そう思った矢先、鍵が開く音が聞こえ、その隙間から一重が勢いよく滑り込んで来た。
挨拶も程々に手洗いを終わらせた直後、私の胸に飛び込んでくる宇宙色の黒髪を撫でながら暖かい体温を楽しむのが最近の日課だ。
「こんなに暗いんだから、そろそろ私の迎えの提案を受け入れてくれない?」
「やーだ。そっちも疲れてるのにそんなことさせたくない」
胸に頬を擦り付けながらも我儘に提案を拒否する最愛の宇宙は、パッと私を見上げては爪先立ちをするが、私はわざとそれが届かないよう背筋を伸ばした。
「あー、いじわる」
「お迎えの許可を出してくれたらね?」
「もっといじわる」
「ふふふ」
子供の頃から変わらない自分に安堵する。
私は昔から、宇宙が好きだ。