ドライフラワーと化した百合の花
日光は暑く、風は冷たい。街に立ち並ぶ木々も赤く紅葉し、さあ後は風に乗って一瞬だけ空を舞い、ミイラの如く惨たらしく乾燥していくだけの道を残した葉が呑気に揺られる季節。私の元に一つの便りが人の手によって舞い降りてきた。
高校生の頃、友人だった女性の、結婚の報せ。そしてその式の招待だった。
社会人として働き、暦の速さにため息を着いている私の今とは違い、その女性は笑っている。
笑っている。
この便りは、私の失恋に終止符を打ってくれる、ありがたいものであると思うと同時に、どうしても写真の中、女性の隣で同じく笑っている名も知らぬ男性を憎く思ってしまう、私の愚かさを露呈させる力を持った強大な紙切れでもあった。
学生の頃を思い出す。あの橙色の髪が揺れる輝かしい記憶に思いを馳せる。
あれは、そう。まだ私が十八の時だった。
規則正しく陳列した机が空間を支配する、教室という鳥籠の中。私は当時他の恋にやはり失恋していて、弱音や泣き言をぼやく身勝手な私の傍にあの人は居た。
同性に興味を持ってしまうからダメなのね、相手も同性に興味があるとは限らないものね、と力無く呟く私に細かな返事をするでもなく、偶に、へぇ。ふぅん。と言いながら分厚い小説を読んでいた。
他の人から見れば少数派である筈の私の性的趣向を否定するでもなく、肯定するでもなく、ただ私の傍で自分のやりたい事を一人でやっているこの摩訶不思議な空間が、恋に失敗した私の大きな癒しとなったのは言うまでも無い。いつもより遅く登校した時、既に教室で席に座っている姿を見るだけで酷く安心していた暖かな日常だった。
卒業が近づくにつれ、そんな日常が続く訳が無いと現実を突きつけられているような気持ちになってしまい、私の中でどんどん焦りは大きくなっていく。他のクラスメイトは次の学校に合格できるかどうかの話ばかりしていたけれど、私の不安は違う。もう既に決定してしまっている、橙色の彼女と物理的距離が生まれてしまう事への焦りだった。
彼女はそのまま就職の道。私は進学の道を辿る。私と先生と両親の三者面談で成績もこのまま行けば安泰だと先生に言われて、胸を撫で下ろしたのは両親だけ。私は先生のその言葉と両親の安堵に、絶望の闇に叩き落とされたような気持ちになった。
離れてしまう。直接話せなくなってしまう。あの心地よい空間が、傍から消え失せてしまう。その日、布団の中、不安で眠れず涙で夜明けを迎えたのをよく覚えている。
傍に居たい。そう彼女に言えたらどれだけ楽だっただろう。けれどそれを行動に移す事はできなかった。
私のこの感情は、もう恋に変わり果てていた。そして、
彼女は異性愛者だった。
彼女は普通だったのだ。私がおかしかったのだ。だめだ、だめだ、この感情は。この感情は、彼女には隠さなくては。
何度か気が狂いかけて、いっそ伝えてしまおうとした事はあった。それで彼女から拒否され、そしてスッパリ諦めてしまおうと。けれど、もし彼女が私を受け入れてしまったら。そう思うと狂いかけた気が、急に冷静になってしまった。
受け入れられ、私は喜ぶかも知れない。笑顔になるかも知れない。でも、彼女は?
私のせいで彼女の笑顔が曇るのは、私が一番私を許せなくなる。死刑に処すのも馬鹿馬鹿しい、人間の浅ましさを凝縮したような肉塊に成り果てて、私はきっと私を呪いながら生きるのだろう。私はそんな事望んでいないし、彼女も望んではいない筈だ。
彼女は異性愛者なのだから。そういう意味で私の傍に居る事を望む筈が無いのだから。
白状しよう。私は怖かったのだ。離れるよりも、失恋よりも、彼女の笑顔が減る事が、どうしても怖かった。
私は彼女を愛している。だからこそ隠したかった。
しかし、私は知らなかった。私という人間が、恋をした人間が、どれほど愚かなのかを、私はこの身をもって味わう事になる。
卒業間近、私はまだ恋を隠す事ができていた。けれど彼女からのスキンシップが、傍から見れば同性同士の他愛ない掛け合いが、私の心臓をざわつかせて奥底の欲を引っ張り出す。ああ、いやだ。出て来ないで。そう心の中で訴えて抑え込むのに必死で、じゃれ合いの誘いにスキンシップで返せたのは片手で数えられる程だった。
あれよあれよと季節は過ぎ、春が芽吹いた。次の蒸し暑い気温をこの身に迎えるには、私は失恋しなければならない。
好意を伝える事が、階級も何も無いこの平和な世界でも叶う事すら無い。私は充分に、それを受け入れているつもりだった。
そう。所詮つもりだったのだ。
触れてしまった。卒業証書の入った筒を持った彼女が暖かな陽の光を浴びながら私の方を笑顔で振り返るのが、たまらなく綺麗で。愛おしくて。──大好きで。
周りの卒業生やその保護者が居るにも関わらず、私は彼女を抱きしめてしまった。
皮肉にも、女性で良かった。周りは私の一方的な欲が絡んだそれを、ただのじゃれ合いとしか見なかったのだから。
私より一回り小さな身体が腕の中でしなる。柔らかな胸が密着する。彼女は驚いたような声を上げ、それでも私の頭を撫でてくれた。私はその優しさに思わず、
彼女の首筋に口付けてしまったのだ。
密着していた身体を離した後、彼女の顔を見て、しまった、と思った。
限界まで見開いた大きな目。首を抑える手の隙間から見えた、どのソメイヨシノも勝てないような桜色。変わらず日光は暖かで、その美しい景色に比べ自分の行動の汚さに耐えきれなくて、私はわっと泣き出した。
周りはそれを別れを惜しんだ涙だと勝手に解釈して視線を送ったが、全人類、泣いてる女の心の内など探らない方がよろしい。
私は自分の愚かさに泣いていた。浅ましさに泣いていた。欲深さに泣いていた。私が、私自身が、こんなに人間の嫌なところばかり集めて誕生したような、人間と呼ぶのも憚られるような生物だと思わなかった。
ああ。愚かしい。浅ましい。ごめんなさい。ごめんなさい。
そう思うのに泣き声ばかりが口から溢れ出て、謝罪の言葉は心の中で反響するだけだった。
あまりの私の混乱具合に心配が勝ったのか、彼女は私にハンカチをやり、私を抱きしめ、ただ黙っていた。
このまま死ねたら。
あの時以上にそう願う事は、きっともう無いのだと思う。
あの日の別れからずっと、彼女との関わりは時折スマートフォンに来るメッセージのみだった。それがこんな鮮やかで華々しい便りで彼女の近況が知れるとは。
何度も何度も思い描いた理想が、今目の前にある。私は失恋し、彼女は彼女の意思で幸せになっている。嬉しい。悔しい。分からない。今はただ便りを読みながら、ハーブティーを味わっている。
会いに行こう。
会いに行こう。
純白を纏い、幸せの中笑う彼女は、きっとこの世で一番美しい。