無知の幸せ
ぼくの周りで何かが消える。それは人だったり、物だったりと様々だ。ぼくが起きているときでも寝ているときでも関係なくそれは起こる。
――分からない。どうしてこんなことになっているのか、ぼくには全く予想もつかない。ない頭で考えたとて浮かぶ事は何もなくて、早々に考えることを止めた。けれど、見えない何かの恐怖心はいつまで経ってもなくなりはしなかった。
何かが消える現象は度々起きる。それが全部ぼくの近くで起きるものだからとても怖い。だから同じ場所に長い時間留まることが出来ずに各地を転々とした。
路銀を稼いでは町を離れて、それの繰り返し。前より生活に余裕がなくなった。酷使されるからだはもとより弱いのに、ますますボロボロになっていく。心身ともに疲れているのに、何故だか休めなくて、近頃はずっとフラフラしながら動いている。
通りすぎる人がみんな、ぼくを見て嗤う。そんなハズないと思いたいけど、視線が気になって仕方ない。だから前を向いて歩けない。
――ぼくはどうすればいいんだろう?
――ぼくは、何がしたいんだろう?
漠然とした疑問に、ぼくは答えを見いだせないまま、今日を生きる。ただ淡々と、何もない時間だけが過ぎ去る。
後ろから、影が迫って来ていることを知らずに。
刻一刻と近付く終わりに、ぼくは気付くことができなかった。
始まりがあるように、また、終わりもある。
それは必然の事象であり自然の摂理である。
人生という道はどこまでも続いていて何十本何百本にも枝分かれしている。
人は絶えず、未来を選択している。
過去という通り道は振り返ることは出来るけれど、戻ることは出来ない。
だから歩き続けなければならない。
たとえ――選んだ道の先が崖になっていたとしても。
ぼくが次の町に移動するために街道を歩いたときだった。パカラッパカラッと馬の蹄の音が聞こえて、ぼくの隣で音が止まった。
「失礼。ちょっとよろしいですか?」
ぼくは人から話し掛けられるなんて経験がほとんどなかったから驚いて肩が震えた。こわごわと声の方を見れば馬上にいる男の人はぼくを見ている。違っていて欲しいと願っていたけど、やっぱりぼくに話し掛けたようだ。
「一つお尋ねしたいことがあります。最近、この辺りで行方不明者が続出しているのは知っていますか? その事件について、なにか知っていることがあるのならば教えていただきたいのですが」
ヒュっとぼくの喉から引き攣った音が出た。ドクンドクンと心臓が早く脈を打つ。
バレた!? いや、でも……尋ねているからぼくだとはまだ気づかれていない?
焦って、でも頭の冷静な部分ではぼくが原因であるということは理解していた。
いまさら、どうすることもできないけど。
だれど意地悪くどうしようどうしようと焦りだけが募っていく。誤魔化してもっと遠くに逃げようか。いっそのこと、誰もいないところに。そうすれば、誰の迷惑にもならない。
そう思い、口を開こうとしたら――
「首尾はどうだ」
また別の人が来た。その人も馬に乗っていて、ぼくに話し掛けてきた人と同じ服を着ていた。
「はい、カリブラッサ隊長。めぼしい情報は未だ上がらず、捜索は難航しております」
カリブラッサ、その名前を聞いた瞬間、ぼくの心臓はドクンッと一段と高くなった。嫌な汗が次から次へと流れる。きっと、今のぼくの顔色はとても悪いだろう。
気付かれないようにそっと後退してその場を離れる。
けれど、そんな安易なことが上手くいくはずもなく。
「君、どこに行くのですか?」
簡単に気づかれてしまった。小心者のぼくは無視して立ち去る、なんてことができるはずもなく、足を止めた。
…………兄はまだ、ぼくだと気づいてはいない。それもそうだろう。だって、あの家にいたのだって遠い昔。それもずっと閉じ込められていたからまともに対面はしていない。部屋に来たのは奥様方と姉たちだけで兄たちは誰一人として入ってこなかった。そとに出ることを禁止されていたしそもそもぼくあのときの体力では出ることもままならなかったけど。
だけど実は一度だけ、かぞくを遠目に見たことがあった。だけど顔はよく見れなかったし小さいころの記憶だから朧気だ。だから顔を見ても兄だって分からなかった。それは目の前にいる兄も同じだろう。実際ぼくもカリブラッサの名前が出てなかったら気が付かなかったと思う。
ぼくだと気づいて欲しいという願望と、気づかないまま終わってという想いが交差する。
だけどぼくは、カリブラッサを名乗れない。ノウェンと名乗っても忘れられているかもしれない。彼を兄と呼ぶ勇気もない。八方塞がりで結局、何もできない。……何もしない。
最初に話し掛けてきた男の人は馬から降りてぼくに近付く。
「事件のことで何か知っていませんか? 些細なことでもなんでも構いません。我々は少しでも情報が欲しいだけですから」
ことさら優しく声をかけられるもぼくには兄のことしか頭になくて、とにかく離れなきゃってことで頭がいっぱいだった。
「知ら、ないです。なにも……なにも、知らないです。………ごめんなさい」
俯いたまま吃りながらも何とか返した。これで大丈夫だとそそくさとその場を去ろうとした。
けれども、腕を取られて思わず顔を上げてしまった。その拍子に、ぼくの腕を掴んだ兄と目が合った。目が合った瞬間、兄は驚いたように目を見張った。
「その眼……まさか……――」
小さく呟かれた声は不運にも僕の耳に届いた。マズイ、バレた。そう思って腕を振り払おうとした。けれど体格差は歴然で。振りほどけるはずもなく逆にぼくは無様に転んだ。
見ていた男の人が慌ててぼくに怪我はないかと聞くけれど、今なお腕を掴んだままぼくを凝視している兄の視線が気になって仕方がない。
変な体制のまま腕を掴まれた状態だから捻られているようで痛い。呻いていると手の力が弱まった。
その隙をついて腕を振りほどいて逃げる。あの目から逃れなきゃと思った。関わってはいけないから、目の前から去らないといけないから。
そう思って必死に足を動かした。
だけど無情にも、再び掴まった。
「何故、お前がここにいる。いや、質問を変えよう。どうしてまだ生きている」
質問というより尋問。酷く冷たい声で投げかけられた疑問。問いかけというより自分に向けた状況把握に近い響きが含まれていた。
何か言おうとして口を開き、何も言う言葉が見つからず口を閉じる。ハクハクと開閉を繰り返すが喉の奥が詰まっているようで声は出ない。
焦れた兄が口を開く。瞬間、近くの木が消えた。しーんと静寂が訪れる。
ああ、終わった。なんてタイミングが悪い。焦っていた心は諦観して凪いだ。本当に呆気なくて、逆に清々しいまである。
掴まれている手の力が増して更なる痛みに顔が歪む。
「――……今のはなんだ。説明しろ」
掴んでいる手の力がどんどん増していく。ぼくの喉からは呻き声しか漏れない。それに、説明と言われてもぼくだって分からない。
冷たい声。圧をかけるように増す手の力。射抜かんばかりの鋭い眼力。圧倒的力の差。針のような棘で全身を刺されているみたいだ。
痛みと比例するようにぼくの心は凪いでいく。頭の中が冷めていく。心と身体がバラバラになったような不思議な感じ。
「ッ……!」
鋭い痛みが走った。首が熱い。水が滴る感覚がする。緩慢な動きで手を首に持っていくとぬるりとした温かい感触が。その正体を見ると手に赤い血がついている。
その体勢のまま呆然と前を見ると兄の手にナイフが握られていてそこから同じく赤い血が滴り落ちている。あれで切られたんだと頭が冷静に理解する。
「ちょっ、隊長……! それはダメですって」
「知っていることがあるのならさっさと吐け」
ハアハアとぼくの息が荒くなる。痛む首と胸元を押さえて必死に落ち着こうとしてもひどくなる一方だった。からだの力が抜けて膝から崩れ落ちる。視界が霞み意識が遠のく。
――プツンとぼくの中で何かが切れた音がした。
分かってしまった。
理解してしまった。
悟ってしまった。
すべて全て凡て総てスベテ――
「…………ふ、ふふっ……。あっはははは」
突然笑い出したぼくに兄と男の人は怪訝な目を向ける。けれど、それさえもぼくには関係なかった。
「そう、そうだよ。いらないんだ。ぼくは……いらない子なんだ。奥様が言っていた通り、いらない子なんだよ。ああ、ああ、悲しいな。ぼくは、ぼくだって……誰かに必要とされたかっただけなのに。愛して欲しいなんて言わないから、ただ、ぼくがいることを知ってくれるだけでいいのに……。なんでこんなことになっちゃったんだろう。ぼくがなにを! ……ぼくは、なにもしていないのに」
先程とは一転して滑らかに言が紡がれる。朗々とした喋りに二人の男は驚いた表情をする。
涙を流しながら口を歪ませて、泣きながら笑う。さしずめピエロのようだ。
「でも、もう……いいんだ。ぼくはいらない子だから、いなくてもいい……。ううん、いない方がいいんだ。――終わりにしよう、全て」
ふらりと立ち上がり、腕を大きく広げる。
固まっていた男たちは動き出したぼくに対して腰に差していた剣の柄に手をかけ警戒する。
勢いよく手を合わせるとパンっと高い音が鳴った。その瞬間、ぼくはこの世から消滅した。
ノウェン・カリブラッサは能力を与えられなかった。それは大きな間違いだった。能力が無い、のではない。『無』の能力を授かったのだ。
それは全てを無に帰す能力。まさに無かったことにする。
これまでノウェンの周囲で起こった消失は姿を消す『無』。
ノウェンが己に対し行使した『無』は存在すらも無にする。つまり、元からいなかったモノにしたのだ。
誰の記憶にも彼はいない。彼のことを覚えている者はいない。元からいないのだから記憶がある方がおかしいというものだ。
それに例外はなく、もちろん目の前にいた彼らにも当てはまる。
「あれ? 隊長、オレたちは今、何をしていましたっけ」
「何を言っているんだ……ーーーー? ……そうだ、失踪事件の調査の途中だっただろう」
「ああ、そうでした。この辺りは……異常なしですね。それにしても、なかなか手掛かりが掴めませんね」
「ああ、十数人もいなくなってこれ程までに捜査が難航するとは……。長丁場になりそうだ」
こうしてノウェン・カリブラッサの生涯は幕を閉じた。
齢17という寿命の半分も生きぬうちに。
恋も愛も人の温もりすらも知らぬ哀しき少年。
楽しいとも幸せだとも感じたことがないままに。
生きた証を残さず消滅した。