見えないから安心する
「おっはよー! 光輝くん!」
翌日の朝。彩瞳さんはいつも通り僕の教室を訪れた。
僕は昨日あった出来事を彩瞳さんに話してはいない。
「昨日はどうしたのー? ペンキ渡しに行ったっきり戻ってこなかったけど」
「あ、ああ……それ……」
正直、これを話してしまうと彩瞳さんに余計な気を遣わせてしまいそうで、言いたくはない。
だから僕は適当に嘘をついて誤魔化す。
「ちょっと寒くなってきたし、腹痛くてさ。トイレにこもってた」
まあ単純な彩瞳さんなら信じてくれるだろう。
「……そう、なんだ」
何か気落ちしているような雰囲気だけれど、もしかしてバレたか?
「確かに最近外寒いもんねー! この辺は特に寒い地域だし、なんなら十一月に雪降ることもあるからね〜」
どうやら僕の嘘には気づいていないみたいだ。よかった。
ま、気づかれたところで本当のことを教えるつもりもなかったけれど。
僕は僕の惨めなトラウマをできる限り誰かに知ってもらいたくはないのだ。
「そういえばさ」
僕がそこはかとなく胸を撫で下ろしていると、彼女はなんだか改まったように姿勢を正すと僕に何かを問いかけるような面持ちで話題を転換した。
纏っている空気がさっきまでと違う。何を聞くつもりだ?
「光輝くんって、一年生の時何組だったの?」
このタイミングでそれを話題に持ってくるか。
うっかり口を滑らさないようにしないと。
僕は動揺しかけて生唾を飲み込んだ。
「い、一組だけど……」
「へーそうだったんだー!」
彼女はわざとらしく関心したような態度を取ってみせた。
彩瞳さんにしては珍しく、何かを隠しているような気がする。
「それで、一年生の時は友達いたの?」
中々失礼な質問だな。
「もちろんいないけど……」
それに対して躊躇いもなくもちろんと答えてしまえる自分がちょっと情けない。
「……そうなんだ」
流石の彩瞳さんもそんな僕に同情しているのか、声のトーンが一つ暗くなった。
「ていうか、なんで急にそんなことを?」
「いやあ、そろそろ慣れてきたけどまだ光輝くんのこと全然知らないなあと思って」
今日の彩瞳さんからはどことなく後ろめたさみたいなものというか、僕の回答から何かを引き出そうとしているような意図を感じられる。
でもそこに悪意はなくて、純粋にただ人の力になりたいと、そう願うような光が彼女の笑みから溢れている。
「ほう。まあ、今の僕も一年の僕も対して変わらないよ。口下手で人付き合い苦手で、つまらない人間。大体そんな感じ」
僕が半ば自虐するように事実を伝えると、彩瞳さんが毅然とした態度で僕に顔を寄せた。
「光輝くんはつまらない人間じゃないよ」
一点の曇りなくそう言い放った彼女に対して僕は正直気圧された。
「そ、そうか?」
「そうだよ! だって私は光輝くんと一緒にいてこーーーんなに楽しいんだよ?」
彩瞳さんが目一杯両腕を高く広げる。
オーバーサイズ気味のブレザーの袖が滑り落ちかけている。
「いや、何が楽しいのかさっぱりなんだが」
いつも彩瞳さんが一人でに盛り上がって僕が巻き込まれるっていうのがセオリーだからな。
「んー。言われてみると具体的に何がどうってことは思いつかないけど……」
「けど?」
「なんていうか、光輝くんは一緒にいて安心するんだよね!」
「安心?」
「そう! 安心!」
自分を形容するのにはあまりに見当違いな言葉が飛び出たので、僕は赤面することもなく、眉を顰めた。
だって、場の空気をぎこちなくさせることは多々あるけれど、誰かに安心感を与えた記憶なんて一度もないから。
「なぜ?」
「うーん……極端なくらい人の目を見て話さないから、かなあ?」
「普通逆じゃないか? 気持ちとかって目を見て話すから伝わるものだし、一切見ないっていうのは気持ち悪くないのか?」
「そう? 前にも言ったけど見えないからこそ良いこともあるというか、心配しなくていいってことにもなると思うんだけど」
「心配?」
「うん。光輝くんはない? 人の目を見て怖くなっちゃったこと」
――ある。
むしろそれこそが今の僕を形作るものだ。
目を見て話すから、瞳が感情を表すから、それが怖くなって僕は目を逸らし続けてきたんだ。
でも、彩瞳さんにそんな経験があるのか?
「目は口ほどに物を言うってことわざがあるでしょ? 私は昔ちょっと“そういうこと”があってね。だから目を見て話さない光輝くんは一緒にいて安心するの」
「……意外だ。いつも全く躊躇せず人に絡みに行くから」
「そう? ま、みんなと仲良くなりたいことに変わりないから積極的に見えるのかもね!」
彩瞳さんは強い。
僕は怖くなったらいつも逃げ出すのに。
彼女は状況を変えようと努力できる人間なんだ。
「だけど――」
一呼吸置くと彩瞳さんの顔が目と鼻の先まで迫ってきた。唇から漏れる温い吐息が僕の顔に触れる。
「こんなにもお近づきになりたいと思えるのは光輝くんだけだからね」
顔の上半分を塞ぐ真っ黒な霧から覗く赤い頬が印象的で、全身が痺れるような感覚に襲われた。
そんな僕の、決して合わない瞳を彩瞳さんは見つめ続ける。
「ふふっ」
「な、なに?」
「光輝くんってすぐ真っ赤になるよね!」
「んな!」
自分の顔を触ってみると、火傷しそうなくらい熱く火照っていることに気がついた。
そ、そりゃあんな間近であんなこと言われたらこうなるだろ……
「あ〜光輝くんってやっぱ面白い!」
彼女は満足気に笑みを浮かべて背筋を伸ばした。
「見えるとか見えないとか関係なく、光輝くん自身が優しくて、面白いから、一緒にいたくなるのかもね!」
「またそんなことを言う……」
「照れてる?」
「照れてない!!」
「ふふっ!」
昨日のこともあって内心学校に来ることすら億劫ではあったけれど、こうして彩瞳さんと話しているだけで気持ちが楽になる。
見えようが見えなかろうが、もう僕には彩瞳さんだけがいればそれでいいのではないだろうかと、そんな風に思えてしまうのは愚かだろうか。
ただでさえ僕は逃げ続けてばかりだというのに、一つの希望に縋って、依存して。
「ねえ、今日は一緒に帰ろうか!」
「……文化祭の準備はいいのか?」
「一日くらい私がいなくたってどうにでもなるよ!」
「そうか……じゃあ、そうしようか」
「うん!!」
僕はまだ、自分の目を塞いだままでいたい。