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トラウマと逃走

「じゃあペンキ渡してくる」


「光輝くん一人で大丈夫?」


「見くびるな。これくらい余裕だ」


 例え相手が知らない人であろうと、軽い業務事項くらいならコミュ障な僕でもこなすことができる。

 この場合重きが置かれるのは業務そのものであって対人関係ではないからだ。


「いってらっしゃーい!」


 僕は気恥ずかしくて、いってきますの一言も返せず、無言で手を振った。


 それから後方のドアから二組の教室を出て一組に向かう。


 ――いってらっしゃい。


 最後に学校でこの言葉を聞いた日のことは未だに僕の中でトラウマになっている。

 僕が人の目を見ることが怖くなったあの日。奇しくも同じく文化祭準備をしていた時。元友達の彼らは、図らずとも僕を文字通りに送り出してしまえたわけだ。


 しかし、さっき聞いた彩瞳さんのそれは、どことなく“ただいま”を待ってくれることが前提になっていたような含みを感じられて、僕の心が不安に駆られるようなことはなかった。


 彼女の瞳を見ていない以上、それが確定事項なのかどうかなんて分からないけれど、少なくとも僕の心は少し軽くなった気がした。


 チョロい男だと思われるのは心外だが、案外このまま彩瞳さんとの交流を続けていれば、僕の眼が回復する日はそう遠くないのかもしれない。


 そうすればきっと彼女が誇らしげに自慢する宝石の瞳とやらも見ることが――


(……)


 ……想像しようとして、去年の出来事が脳裏をよぎった。

 頭の中で作り上げた彼らのイメージが呪詛の言葉を囁く。誰もお前を必要としない、と。

 どうやらあの迫害の瞳はまだ消えてくれないらしい。


 まあ、もう一度人と目を見て話せるようになることを切望しているわけでもないし、回復しないならしないでも構わないが。

 以前から言っている通り、この目は日常生活のあれこれにおいて逃げ口を作ってくれるから何かと助けになることも多い。

 決して無理をする必要はないのだ。


 とりあえず、今は彩瞳さんの何気ない一言に一喜一憂するための時間ではない。さっさと仕事を終わらせねば。


 塗料缶の取手を握った僕の手のひらは汗ばんで、少し駆け足になった。


「っと」


 廊下は相変わらず中途半端に放置されたカードボード云々が散乱していて、一瞬躓いてしまい、持っていたペンキをこぼしかけた。

 白い滴が一筋、缶の側面を伝っている。


 危ない危ない。余計なこと考えてたからだ。早く終わらせて彩瞳さんのところへ戻ろう。


 一組は階段とトイレを挟んで隔ったところに位置しているから、少し遠く感じられるが、慎重に歩きつつ、無事辿り着くことができた。


 僕は塗料缶の持ち手を変えてドアに手をかける。

 すると、中からいかにもスクールカースト上位に属しているようなガッシリとした低音のよく通る声が聞こえてきて、その手が止まった。


「ペンキまだ使えねえのか聞いてくるわー」


 恐らく僕の配達を待っていた生徒だ。

 ドアの方に足音が近づいてくる気配がする。


 都合がいい。ドアの前で待ち構えて、開いたらすぐに渡してしまおう。


 そして、勢いよくドアが開くと、教室と廊下の境界を挟んで僕たちは対峙した。


「あの、ペンキ持ってきまし――え」


 ――しかし、目の前に立っていたのは、僕がこの学校で一番会いたくない人物だった。


「あれ、白石じゃん」


 瀧内健吾たきうちけんご。去年僕を疎外するような眼差しで見ていた人間の一人、というよりもそのグループのリーダー格だ。

 背丈が高いのもあるが、何よりもその声色で他人を見下しているのが分かる。もっとも、本人は無自覚にやっているのだと思うが。


「ん、ペンキ?」


 持っていた塗料缶に瀧内が気づいた。


 重さに耐えきれないからか、はたまた心理的なストレスによるものか、僕の手は小刻みに震えていた。


「俺らが待ってたやつか。サンキューサンキュー」


 そして彼が微かに身をかがめて塗料缶に手を伸ばす。

 大きな影が覆い被さってくるような圧迫感があった。


 その時、僕はなぜか肉食動物に目をつけられた草食動物のように怯み、反射的に一歩後退って彼を拒絶してしまった。


「さ……」


「ん?」


「触るな……!」


「は?」


 自然と口を突いて出た言葉に自分でも驚いた。

 何を言っているんだ、僕は?


「あ、いや、これはその」


 どうしたんだ僕は。急に。

 彼に疎外されたからといって、別に反抗したかったわけでもないのに。


 半径二メートルに奇妙な静寂が訪れる。

 空気が張り詰めている。


 縮こまった僕をしばらく見下ろすと彼は不機嫌そうに口を開いた。


「……ま、なんでもいいから。さっさとペンキ渡せよ」


「あ、は、はい……」


 そして、何事もなかったかのように塗料缶を手渡そうする。さながら貢物を献上するかのように。


 しかし、この状況に対応することで頭が一杯一杯になってしまっていて、僕は自分の手に全く力が入っていないことに気がついていなかった。


 取手が指から滑り落ちて、右手だけが空を切る。

 胸の高さまで来て、自分の手が何も持っていないことを初めて知った。


 ――ビシャリと液体を撒き散らして、缶が床を転がる耳障りな音がした。

 周囲にいた生徒の注意が一点に集中する。


 辺りを見回すと、そこら中真っ白になっていて、それは僕と瀧内の制服も例外ではなかった。


「は?」


 顔を見なくても分かる。さっきのそれより何倍も威圧的になった感情が伝わってくる。


「おいおいおい最悪なんだけど。マジうぜえ」


 ベタベタになった制服を無意味に手で払いながら彼が声を荒げる。


 一方僕は立ち尽くしたままだった。


「お前なんなんだよ、マジで」


 段々と彼に苛立ちが募る。


 心配して何人かの生徒が駆けつけてきた。


「うわー。健吾大丈夫ー? ベチャベチャじゃん」


「なになに? ペンキ落としたの? この人が?」


 ……やめてくれ。

 僕の周りに群がるな。


「誰か雑巾持ってきてー」


 せかせかと働き蟻のように動き回って、人々が騒めいている。


 その音が徐々に大きくなって、僕の鼓膜を蝕んでいく。


「白石。お前何してんの?」


 そう言われて僕の身体はようやく動き始めた 。


「いや、その、ご、ごめ――」


 僕が咄嗟に謝ろうとした瞬間、瀧内の背後からもう一人見知った人間が姿を現した。


「あれ、光輝?」


 美影照義みかげてるよし

 瀧内と同じく僕を迫害したメンバーの一人だった。

 こちらも背が高くて肩幅が広く、いかにも体育会系という風貌で、圧迫感がより一層強まった。


「二人ともどうしたん?」


「こいつが俺にペンキぶちまけやがってよ」


「光輝が?」


 美影が僕の方を見遣る。


 頼むから僕を見ないでくれ。その瞳を想像するだけで、胃に溜め込んだ不快感を吐き出しそうになる。


「……ま、俺はとりあえずこの缶片付けとくわ。光輝の方は――」


 彼が何か言いかけた時には、僕はもう耐えられなくなってしまい、気づいた時には足が踵を返してこの場から立ち去ろうとしていた。


「お、おい!」


 美影の僕を引き止めようとする声は何の効力も持たなかった。


 冷たい秋風の吹き抜ける廊下を全力疾走する。


 結局僕はその場から逃げ出してしまったのだった。



「……はぁーーーマジでなんなんだよあいつ!!」


 瀧内が壁を蹴る音がした。


「……」


「急に触るなとか言い出すし、ペンキぶちまけるし」


「……」


「制服もだけどこの床どうすんだよ。マジで……」


「……」


「……? どうした、美影?」


「あ、いや……ちょっとな」


 遠くから微かに聞こえる瀧内たちの声に怯えて、僕は耳を塞いだ。

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