宝石の瞳
決心して、ゆっくりと顔を上げた。
だけど、磁石が同極同士で反発しあうように、僕の瞳は揺れて、思わず目を閉じてしまった。
これはきっと一年間人の目を避け続けたから癖になっているだけだ。
そう自分に言い聞かせてもう一度上を向いた。
それから、思っていたよりも明るかった室内の白い光が瞼の上に差し込んで、少し目が眩んだ。
大丈夫。あと少しだ。
そして僕が強く瞬きをして視界を正し、隣に立っているはずの彼女の顔を覗こうとすると――
彼女は僕をゼロ距離で見つめていて――目の前には宝石の瞳があった。
僕は思わず息を呑んだ。
「これって――」
日本人離れした青い眼。
透き通るように純真な虹彩。
人形の如く静かな瞳孔。
それはまるで人工物――いや、人工物そのものだった。
一目見れば、それが何なのかはすぐに分かる。眼鏡やコンタクトレンズを付けられない理由も。
しかし、特筆すべきなのは右眼だけ。
左眼は命を宿した黒い瞳を持っていた。
「どう? 驚いた?」
初めてちゃんと見る彼女の表情は、思った通り美しかった。
穏やかで丸い輪郭を描く長い睫は彼女の優しさを想起させる。
だけど――
「……そういうことだったんだな」
明らかに非現実的な青い眼は、真っ直ぐに僕を見下ろしているはずなのに、どこか遠くを見つめているようで、人間らしさを欠いた印象を受ける。一瞬目が合ってるのかあっていないのか分からなかった。
左目を隠せば、彩瞳さんの顔は精巧な美術品のようだった。
「うん。光輝くんはずっと見えてなかったみたいだけど、私の右眼は義眼なの」
彼女が右手の指先を頬に当て、語り始める。
「子どもの時にね、目腫瘍っていうのができたんだけど、その手術で片目だけ摘出することになって…… それからずっとこれを付けて生活してるんだ」
どうしようとも揺るがない現実を象徴するのかのように静止した瞳孔が悲しげに光を打ち返す。
僕みたいに都合よく見えたり見えなかったりするようなものではないのだろう。
「……もちろん眼帯って選択肢もあったんだけど、まだ子どもだったからさ、なんか恥ずかしかったんだよね。それで私はお母さんとお父さんに頼んで、私が一番可愛いと思う義眼を使うことにしたの」
どう? 綺麗でしょ?
彼女の生きた方の眼がそう僕に問いかけている気がした。
「……だけど、私が幼稚園に戻ったら、みんなの反応は私が想像しているようなものじゃなかった。――みんな私を気味悪がってたの。怖いとか気持ち悪いとか、いっぱい嫌なことを言われた」
そう言いながら僅かに滲んだ彼女の涙が不自然に片目から一滴零れ落ちる。
義眼を付けていると、うまく涙が流せないようだ。
「普通とは違う、異常な私をみんなは避けるようになった」
そう言うと彼女はさながら囚われのお姫様のように天を仰いだ。
「独りになるのが怖かったから、できるだけ積極的にお話しようとはしてたけど、それから私は誰かを誘って遊んだりすることがほとんどなくなっちゃったの。左眼の方も見え方が不安定だから、あまり無闇に出歩くこともできなかったしね。ましてや雪の日は特に、私の目には白い光が眩しすぎて誰かと手を繋がないとまともに歩くこともできなかった」
そう言われて、僕は吹雪の日のことを思い出していた。
好奇心旺盛な子ども時代に、友達と雪遊びすることもできず部屋に閉じこもる彼女の姿を想像すると胸が痛んだ。
体型が夕空さんや他の子よりもか細く見えるのも、きっと運動する機会があまりなかったからだろう。
「……だから実は、光輝くんに一緒に帰ろって誘うのも結構緊張したんだよ? 危ないからいつもはお母さんに迎えに来てもらってるんだけど、その分の迷惑を光輝くんにもかけることにもなっちゃうわけだし。仲良くなるつもりが嫌われちゃったらどうしようって」
思い返せば歩道をはみ出しかけていたり、際どいことは何度かあった。
だけど、僕はその程度のことが繰り返し起ころうが迷惑だなんて思わないし、そんなことで嫌いにはならない。
彼女を支えるのは友達として当たり前のことだから。
しかし、一つ気になることが。
「……そんな状態で学校に通えるものなのか?」
左は不安定、右は全盲。
普通なら特別支援学校を薦められるはずだ。
「うん。それは先生たちだったりの協力で、色々と配慮してもらったから。それにうちの学校はインクルーシブ教育を導入してるみたいだからね。授業も私みたいな生徒のための対応策を前から考えてくれてたそうなの」
なるほど。
以前授業のことを聞いた際に、隣の子や先生に助けてもらっていると言っていたが、そういうことだったか。
ほんの少し前までは友達がいる人気者だからだと勘違いしていた。
「……でも僕と女子生徒を見分けられないほどの視力じゃ、助けようにも……」
「あ、それね。嘘だよ」
「え?」
「光輝くんと女の子を間違えたのはわざとだよ」
彼女はケロッとした顔で僕を見つめる。
僕は思わず眉を顰めた。
「な、なんでそんなことしたんだ?」
「光輝くん、私と初めて会った時、私の右眼のこと何も言及しなかったでしょ」
「あ、ああそうだな」
「普通、みんな何かしらの反応を見せるから、おかしいなーって思ったの。それで、もしかしたら目を見て話せないんじゃなくて、そもそも目を見られないんじゃないのかなって」
最初からそこまで察せられていたとは……
僕が話すまでもなく全てお見通しだったわけだ。
「だから光輝くんが私の視力について言及せざるを得ないような状況を作って、そこでもし義眼のことについて触れなかったら本当に見えてないことの証拠になるから、試してみたの」
「……それで僕は片目が義眼だったなんて思わず、まんまと単に視力が悪いだけだと思ってしまったと……」
「そういうこと!」
彼女が僕に向かってビシィっと人差し指を突きつけながらウィンクする。
初めはただのバカだと思っていたのに、実は結構な策士だったらしい……
いや、そもそも本当にそこまで視力が悪かったならまともに生活できてないし、疑問を持たなかった僕がバカだったのか。
「あ、ちなみにだけど。私が光輝くんと友達になってすぐの頃、中々会いに来れなかったのは覚えてる?」
「ああ、うん。覚えてるけど。用事とかなんとか言ってたよな。それがどうした?」
「それねー、実は病院で検査してたんだよねー。ちょっと左眼の方に違和感があったから診てもらってたの」
なんと。もし当時問い詰めていたら僕はとっくに彩瞳さんの眼のことを知っていた可能性もあったのか。
僕がもう少し踏み込めるタイプの人間だったら、彼女と向き合うことにも時間がかからなかったんだろうな。
「でね、その時の検査結果は何もないってことになったんだけど…… まさか雪の日あんな見えなくなるとは思わなかったよねぇ」
「……あー」
あの時の彩瞳さんは本当に何も見えないって感じだったもんな。
「ほんと、光輝くんが手繋いでくれなかったら危なかったよー!」
「そ、そうだな」
そういえばそうだった。あの日僕たちは手を繋いで帰ったんだった。
指先がまだあの柔らかい感覚を覚えている。
思い出すだけでも顔から火が出そうだ。
「……でさ、話変わるけど」
「お、おう」
目尻が下がって真剣な双眸が僕を見下ろす。
「……光輝くんはさ、この眼……どう思った……?」




