友達
今日は文化祭当日。
結局、彩瞳さんは一度も僕を見舞いに来なかった。
時刻は午前十時過ぎ。
今頃文化祭が始まってみんなが忙しく働いている頃だ。
僕らのクラス、二年一組と、彩瞳さんたちのクラス、二年二組は合同でメイド/執事喫茶。
彼女はメイドと執事、どっちを選んだのだろうか。
こういうことには興味ないふりをしてきたけれど、できることなら見てみたかったかもしれない。
あとほんの少しでも退院が早まっていれば、彼女の目を見て話して、全部片付いた上で、全力で文化祭を楽しむことができたかもしれないのに。
彩瞳さんだって何も気にせず没頭できたかもしれないのに。
せっかく覚悟ができたというのに、僕はただ嘆くことしかできないのか。
「はあ……」
どうにもならないもどかしさを深いため息に乗せて、外に向かって投げかけた。
――その瞬間、背後でガラガラと派手に音を立てて病室のドアが開いた。
嵐のような風がひとつ、室内に吹き荒れて、白いシーツが巻き上がる。
そしてコツコツと大胆にこちらへと近づく足音がして、僕は振り返った。
「やっほーーー!! 光輝くん!! 元気ー?」
そこに立っていたのは、夕空さんでも、美影でもなく、正真正銘、黒木彩瞳さん。その人だった。
僕は彼女の顔を見そうになって思わず目を逸らした。
多分もう、霧は晴れている。
あの真っ黒な闇は取り払われている。
僕の心はもう目を塞いでいないから。
そう考えると途端に緊張した。
というかそれ以前に僕はどうしても気になることが一つあった。
「な、なんでメイド服……?」
そう、彼女は今クラシカルなメイド服に包まれながら、僕の横で仁王立ちをしている。
室内の光を滑らかに反射してたなびく鈍色のスカートが美しい。
「なんでって、今日が何の日かお忘れかな?」
「いやいやいや、忘れてないけど。久々に会った相手がメイド服着てたら誰でも驚くでしょうが」
暗い感情を表に出すような様子は特に見られず、いつも通りの彩瞳さんといった調子だ。
「そーかなー? このメイド服、想像よりきゃぴきゃぴしてないし、ワンチャン私服かと思われちゃうんじゃないかと思ったんだけど」
「それは無理があるだろ……」
彩瞳さんは腕を組みながら首と体を同時にグイーッと横に倒してすっとぼけた態度を取っている。
「ていうか、その……もういいのか?」
「いいって何が?」
「ほら……あれだよ。なんか罪悪感とか……もう大丈夫なのかなと」
「あーそれね! ……うん! 全然大丈夫!!」
そう言って彩瞳さんが胸の前でガッツポーズを取る。
そしてその手を静かに下ろすと、一呼吸おいて話し始めた。
「……茜ちゃんにね。光輝くんに会ったって言われたんだ。それで光輝くんが私のせいじゃないって言ってくれてることも教えてもらった。私は光輝くんの言うことを信じたいと思ってるから、それだけでも凄く心が軽くなった」
小さく微笑みながら彼女がありがとうと言う。
伝言を引き受けてくれた夕空さんには感謝しなければ。
「……とはいえそれからも私は自分を責めずにはいられなかったんだけどね、何日か経って、茜ちゃんにこんなことを言われたの」
彩瞳さんがゆっくりと窓際に寄って空を見上げる。それから記憶を噛み締めるように声を発した。
「……友達になってくれませんかって」
そう言った彼女の口元は柔らかく微笑んでいた気がした。
「……辛いことや悲しいことがあったらいつでも力になるから、友達になってほしいって言ってくれたの」
彩瞳さんの声色が少し明るくなる。
……夕空さんはきっと、その一言を伝えるだけでかなりの勇気を必要としただろう。
ある意味で人を助けるということが見下すこととイコールになっていた彼女は、優しい性格を持っているが故に、独りでいた彩瞳さんに近づくことができなかったのだ。
しかし、どうやら彼女はそんなコンプレックスを乗り越えることができたみたいだ。
助けることは、必ずしも相手との上下関係を定義する行為ではない。
貸し借りや恩義を含まない無償の救済は存在する。
彩瞳さんに救われた僕が学んだことだ。
当たり前に支え合うこと。
恐らくそれを友情と呼ぶのだろう。
「もう茜ちゃんが言っちゃったかもしれないけど、私、光輝くん以外の友達がいなかったんだ。だから、友達になろうなんて言われたのは初めてで……」
僕に背を向け宙を見つめる彩瞳さんが右手で胸を押さえる。
「私ね、今までずっと誰かに助けてもらいたかったのかもしれない…… もちろん光輝くんと友達になれて、それだけで毎日がすっごく楽しかった。だけど、それは私の現実逃避でもあったから……」
以前彼女は言っていた。僕といると安心する、と。そしてそれは僕が人の目を見て話さないからだと。
つまり僕は彼女の友達になる条件において都合のいい相手だったわけで、他の人と友達になれないから僕で妥協したのだとも言える。
それがきっと、現実逃避という言葉が指すものなのだろう。
「茜ちゃんはしっかり私の目を見て、真摯に向き合ってくれた。なんだか怖がってた感じもしたけど、それも含めてすごく真剣だってことが伝わってきた。それで、私、この子は本当に友達になってくれるんだって。」
彩瞳さんが振り向いて、僕は咄嗟に俯く。
「そう思ったら、まずはちゃんと向き合ってみないと始まらないなって、光輝くんにも会う勇気が湧いてきて。…… 不思議だよね、友達って」
本当に、その通りだと思う。
良くも悪くも、僕の学校生活を左右するのはいつだって友達だった。
「でも、まずはちゃんと謝らないとね。光輝くん、私のせいで怪我をさせてごめんなさい。それと、私を庇ってくれてありがとう」
彩瞳さんが両手を膝に添えて、その場で丁寧にお辞儀する。
その光景を目の前に、僕はとても満たされたような気分になっていた。
「……当然のことをしたまでだよ」
「お〜中々カッコいいことを言うねえ」
「茶化すなよ……」
そう言って苦笑する僕を見て、彩瞳さんが穏やかに笑う。
「はは。普段あんまり真面目なこと言わないから照れちゃったのかも?」
「そうかもしれないな」
「そこは否定してよ〜」
暖かな空気に包まれて、僕らの心に積もった冷たい雪が解けていく。
そして、ひとしきりくだらないことを話して、雑談に区切りがつくと、病室に静謐な空気が訪れた。
「……ねえ、光輝くん」
「……うん」
「私の目……もう見れるんじゃない?」
雰囲気で察したのか、突然そう告げる彩瞳さんに僕は驚かなかった。
「……ああ。多分な」
「もしそうなら……見てもいいよ」
瞬間、時間が止まったように音が聞こえなくなった。
静寂の後、僕は彼女の提案にこう応えた。
「……ああ、そうするつもりだったからな」
それに対して分かっていたように「だよね」と反応した彩瞳さんは、期待と不安の両方を抱えた佇まいをしている気がした。
彼女は僕の視界がどう見えるのかを知ってはいないけど、恐らく僕が抱える問題の本質は把握しているのだと思う。
それが彼女の瞳と向き合うことで解決するということも。
もちろん彼女の瞳が僕に何を語るのかという点については、不安が残っていないといえば嘘になる。
でも、向き合うと決めたから、僕はもう決して逃げない。
前に進んで傷つくことを恐れない。
都合がいいだけの友達じゃない。彩瞳さんと本当の意味で友達にならないと、何も解決しない。
僕は一度深呼吸して、緊張を和らげた。
――よし。