美影照義
次の日。僕は文化祭までには退院できないと告げられた。
病床数に余裕があるということもあって、入院期間が特別短くなるということはなかったらしい。
去年までの僕ならきっと、むしろこの上なくありがたいことだと思っていただろう。
しかし、今の僕には彩瞳さんがいる。加えて夕空さんに文化祭までには戻れると言ってしまった。
何より、彩瞳さんに僕以外の友達がいないと知った今、彼女を独りにしてはおけないと、僕の心が自分自身に強く訴えかけている。
もしかしたら今頃夕空さんが彩瞳さんと友達になっているかもしれないが、僕を置き去りにして文化祭を全力で楽しむことなんて彼女にはできないだろう。
毎日放課後の準備にも参加していた彩瞳さんに、そんなことがあっていいはずがない。
彼女の苦労は報われるべきなのだ。
僕は窓から見える下校途中の高校生たちが、僅かに残った雪で遊んでいるのを眺めながら、一人もどかしい思いをしていた。
すると、突然コンコンと病室のドアをノックする音が聞こえて、僕は振り返った。
音を立てながらスライドしてドアが開く。
もしかしたら彩瞳さんが来てくれたのかもしれないと思ったが、そこに立っていたのは、またもや意外な人物だった。
「よお、光輝」
「み、美影……?」
部活帰りのジャージに包まれたまま僕を訪問したのは、美影照義。
僕が瀧内の目の前でペンキをぶちまけた際、僕が逃げ出す直前に瀧内の背後から現れた体育会系の男子生徒だ。
意識しなくても人の目を見ることはないけれど、僕は殊更俯いて彼の顔を見ないようにした。
だって彼は瀧内同様、かつて僕を疎外した人間の一人だ。
目が見えようが見えなかろうが、その姿すら視界に入れたくない人間なのだ。
「美影……か。去年は照義って呼んでくれてたと思うんだけど。まぁ、無理もないか」
そう言いながら物憂げにため息をついた美影は、ゆっくりとベッド横に設置された来客用の椅子に腰掛けた。
一体僕に何の用があって来たんだ。
「……聞いたぜ、光輝。お前女の子助けて車に轢かれたんだってな。しかも、相手は黒木彩瞳さん」
「あ、ああ。そう、だけど……」
彩瞳さんだからなんだっていうんだ。
「急に来て、ど、どうしたんだよ」
「……お前すげえよな」
「え?」
突然の賞賛に、僕は目を丸くした。
「ああ、いや、その……」
彼はどこから話せばいいのかと頭を掻きながらしばらく考えを整理すると、話を再開した。
「ほらさ、去年のこと…… なんつーか、俺らはお前を避けてたとこがあっただろ?」
避けていたというか完全にいないものとして扱われていた気がしなくもないが。
それがどうした。
「それでお前、ずっと独りになってさ。全然人と話さなくなって」
「……だからなんだよ。い、嫌味でも言いに来たのか」
「ち、違う違う。最後まで聞いてほしい」
彼は改めてきっちりと僕の方へ向き直った。
「……俺はさ。ほんとは光輝のこと気にしてたんだ。罪悪感、っていうか。俺らの都合だけで、独りにしちまって、嫌な思いさせちまって」
思いもよらない懺悔の言葉を聞いて、僕は俯いた顔を少し上げた。
「でも俺は瀧内たちに嫌われたくなくてさ。お前に声をかけられなかったんだ。あいつらは光輝のことずっと……毛嫌いしてたから、もし俺が光輝と一緒にいるのを見られたら、俺も仲間外れにされるんじゃないかって怖かったんだ。だからこの前も走っていったお前を追いかけられなかった」
……そんなこと知らなかった。
僕は今まで誰の瞳も見ようとはしなかったから、美影がそんなふうに思っていたなんて全く想像していなかった。
「もちろんそれが良くないことだってことは自覚してる。だけど、一度“そういう空気“が作られると、抜け出せなくて……」
そして一言、彼はごめんと呟いた。
「でも、お前は最近あの黒木さんと仲良くしてるんだろ? 黒木さんって言ったら、その、ほら。元気だけど、なんつーか、ちょっと近寄りがたいっつーか。良い人だってことはわかってんだけど……」
ふさわしい言葉を見つけられず美影が閉口する。
友達がいないと聞いていたから、なんとなくは察していたけれど、やはり彩瞳さんの周囲の人間はなぜか彼女に近づきたくないと思っているらしい。
僕はその理由を問おうとしたが、昨日夕空さんに言われたことを思い出して、軽率に聞くのはよくないと、考え直した。
「みんなが黒木さんにはあんま近づかないようにって雰囲気出してんのに、光輝はそんなこと気にしてなくてさ。しかも、放課後は一緒に帰って、その上車に轢かれてまで黒木さん守ってさ。そういうところ、ほんとすげえなって、尊敬してんだよ」
正確に言えば、それは違う。
僕は何も知らなかっただけなんだ。
何も知らない僕と、偶然彩瞳さんが友達になってくれただけなんだ。
きっと僕は自分から行動する勇気なんて持っていない。
「俺は……傷つきたくないから、こうやって二人きりにならなくちゃ本音が言えないんだ。卑怯なやつなんだよ。でも、光輝のこと気にしてるって気持ちは本物だから。光輝を独りにしたこと、ずっと後悔してたから。自分勝手かもしれない、だけど、俺ともう一度……友達になってくれないか?」
緊張しているのか、声を強張らせて美影はそう言いながら、徐に握手を求めて手を差し出した。
……傷つきたくないのは、僕も同じだ。
僕は一度だって、自ら傷を作ったことがないんだ。
僕はまだ……全く成長していない。
だから、今こうして美影から素直な気持ちを伝えられて感じたのは、今まで疎外されたことに対する恨みや怒りでもなくて、彩瞳さんや夕空さん、美影と違って何もできない自分に対する憤りと悔しさだ。
「光輝……?」
「……美影、僕はお前が思ってるほどの人間じゃないよ。全部偶然だ。たまたま彩瞳さんが僕のこと構ってくれただけなんだよ。決して僕が取った行動の結果ではないんだ」
僕は女の子と友達になって浮かれていた陰キャにすぎないんだ。
今だって美影が本音を話してくれなかったら、彩瞳さん以外の人間は全員僕にとってどうでもいいものだと思ってしまっていたかもしれない。
「……そんなこと関係ねえよ」
「……え」
「……確かに、お前を尊敬してるとかなんとかってのは、俺にとって大事なことだ。だけど、何より、ずっと溜め込んできたこの後悔を俺はどうにかしたいんだ。一年の入学して間もない頃みたいに、お前と友達になれたらいいなって、それだけなんだ」
「……」
「自分勝手なこと言ってんのはわかってる。散々仲間外れにしておいて、苦しくなったら仲直りなんてのは虫が良すぎるだろ。だから許してくれなくもいい。ただ、俺にもう一度チャンスを与えてくれないか。お前が俺をどうするかは、それから決めてもらっても構わない」
差し出した手を未だ下さない美影が僕の瞳を見つめようとする。
僕はそれに応えなければならない。
だけど、僕は彼の瞳を見ることができないから。彼とちゃんと目を見て話さないと、彼を心から尊重することにはならないから。今はまだ、彼の提案を受け入れる事ができない。
「……ごめん」
そう僕が呟くと、宙に浮く美影の右手が静止して、ゆっくりと膝に下された。
「……美影の気持ちにはちゃんと応えるつもりだけど…… 僕はまだやらなくちゃならないことがあるんだ」
「やらなきゃならないこと?」
「ああ。実はな――」
それから僕は、人の目を見て話せないこと、他人の目の上にかかる黒い霧のこと、独りになってから彩瞳さんと出会うまでのこと、全てを彼に伝えた。
彼には知る権利があると思った。
「……なるほどな。通りで俺の顔も見てくれないわけだ。正直もう完璧に嫌われてるのかと思ってたわ」
「それは……まあないこともないかもしれないけど」
「どっちだよ」
「はは……」
正直言うと、美影の告白にまだちゃんと心が追いついてはいない。
もう自分とは関係のない赤の他人だと割り切った方が楽だったから、またこうして話をする機会が来るなんて思ってもみなかったのだ。
「でも、今日美影と話してみて気づいたよ。やっぱり僕は少しでも目を見て話す努力をしたほうがいいんだって。美影みたいに何か伝えたくても伝えられなくて、それを目で訴えかけようとしている人がいるのなら、僕はそれに向き合うべきだと思うんだ」
「……黒木さんのことか」
「うん。昨日は夕空さんって子が来て話したんだけど、僕は彩瞳さんのことを何も知らないんだって思い知らされた。今日だってそうだ。美影の彩瞳さんに対する印象を聞いて、初めて彼女の現状を実感できた」
僕は彼女という希望に依存して、僕の視界に映る分だけの幸せに酔っていたんだ。
「僕は彩瞳さんの唯一の友達なのに、何も助けてあげられなかったことが悔しい。だから、少なくとも彼女が僕と一緒にいる時何を感じて、考えているのかくらいは分かるようになりたいんだ」
そのために、もう一度人の目を見て話せるようにならなければならない。
この真っ黒な霧を払い除けて、彼女の瞳が語るものを確かめなければならないのだ。
「……光輝、お前はやっぱりいいやつだな」
「そ、そうかな」
「そうだよ。だから、お前が黒木さんとちゃんと向き合えるようになったら、その後で俺のことも、できれば考えてほしい。いいかな」
「……うん。その時は必ず」
「ありがとう」
そして、昨日の夕空さんと同じく、深々と礼をすると、立ち上がって、頑張れよと親指を立てながら、美影は病室を後にした。
その曇りない後ろ姿を見た僕は、今彼が振り返れば黒い霧が晴れているのではないかと予感したが、同時に今はまだその時でないと直感した。
なんだか事故に遭ってから思いもよらないことばかりだ。
いや、もしかしたら全てはあの日、彩瞳さんと出会った時から始まっていたのかもしれない。
彩瞳さんと僕が出会うことで回り始めたが歯車が、夕空さんや美影みたいな人たちに連鎖して、一つの運命が動き出したのだと思う。
そして、その運命が行き着く先はもうすぐそこにある。
僕は窓の外に広がる雲一つない青空を見つめながら、ただひたすら、すぐにでも彩瞳さんに会えるよう祈っていた。