夕空茜
「ん……」
あれ、僕どうしたんだっけ。
確か減速する車にギリギリ追いついて、それから道路に飛び出して、彩瞳さんを突き飛ばして、それで……
「いっ……」
頭痛が酷い。
どうやら頭もぶつけてしまったみたいだ。
ただそれによって失明してしまっただとか、そんな重度の症状は見られないから、多分打ちどころが良かったか、柔らかかった雪がクッションになったか。
「うっ……」
窓際で眠っていたらしく、西陽が容赦なく僕の瞼を突き刺す。
僕はそれを避けるべく、身体を横に倒した。
――すると、そこには一人の少女の姿があった。
なんだか既視感のある光景だ。
彩瞳さん……?
「あ、起きましたか。白石さん」
誰だ。
茶髪ロングの女子高生……
僕は目を擦ってもう一度彼女の方を見た。
……ああ、あの人だ。
彩瞳さんが茜さんと呼んでいたあの人。
確かペンキをもらいたいって伝えに来た子だったな。
何でこんなところにいるんだ。
「と、とりあえずお医者さん呼んできますね……」
「あ、う、うん。ありがとう……」
茜空の色を反射した彼女の表情は切なげで、同時に暖かくも見えた。
それから医者が来て、僕は丸一日眠っていたのだと告げられた。
その後色々な検査が行われ、親や担任の教師が来たりして、落ち着くまでかなり長い時間がかかったのだけれど、彼女は終わるのを待っていてくれたらしく、病室で少しだけ話をすることになった。
面会時間外だが、一人部屋ということもあって、特別に許可をもらうことができたそうな。
外は真っ暗になっている。
「それで、あの、君は……」
「あ、す、すみません。私、夕空茜です」
そういえばフルネームを聞いていなかったな。夕空さんね。
「ああ、はい。夕空さん…… えっと、なんでここにいるのかなって、思って聞こうとしたんだけど……」
「そそ、そうですよね…… すみません」
彼女が膝に頭が埋まりそうなくらい深々と頭を下げる。
見た目は本当に洗練された印象を受けるのだが、中身はやはり人見知りの系統らしい。
「……あの、今日学校に黒木さんが昼から登校してきたんですけど……」
黒木さん、彩瞳さんのことか。
登校してるってことは大した怪我はなかったってことだな。よかった。
「その……いつもと様子が違うというか、なんていうか、すごく塞ぎ込んでいて……」
それは至極当然のことだろう。
半ば自分のせいで友達に大怪我を負わせてしまったようなものなのだから。
「わ、私。なんか、その、気になっちゃって…… それで勇気出して声をかけてみたんです」
「勇気?」
「え、あ、はい。私見ての通り人と話すの苦手で、しかも相手が黒木さんとなると……余計に……」
陽キャが陰キャに話しかけるハードルは低いが、その逆は不可能に近いからな。その気持ちはよくわかる。
「それで、私、黒木さんにどうしたんですかって聞いたら、最初はなんでもないって笑ってたんです……」
「……」
「でも、やっぱりおかしいと思って、もう一回聞いてみたんです。そしたら——黒木さん泣き出しちゃったというか、その…… いえ、正確に言えばちゃんと泣いてはいないんですけど……」
「?」
「ともかく、見ていられないくらいすごく苦しそうで…… そしたら事情を話してくれて…… でも白石さんには直接会いたくないと言っていて」
「……理由は言ってましたか」
「……はい。自分のせいで大切な友達に怪我をさせてしまったからって」
やっぱりそうなるよな。そもそも彩瞳さんは無闇に雪の中を出歩いてはいけないと念押しされていた上で、そのルールを破ったのだから、誰かを責めるなら当然矛先は自分自身に向くのだろう。
けれど、彼女は友達と雪遊びすることを夢だと言っていた。なぜそこまで大袈裟に言っていたのかは分からないが、そう言えるほど彼女にとっては大事なことだったのかもしれない。だから、多少言いつけを守らなかったくらいで、自分自身を責めないであげてほしいと、僕は思う。
「それに――」
夕空さんは思い詰めた様子で、少し言葉に間を開けた。
そして、意を決して次の言葉を紡ぎ始める。
「白石さんは“唯一の”友達だからって……」
「――え」
その言葉があまりにも予想の範疇を超えていたので、僕は一瞬思考停止した。
……僕が、唯一の友達……?
「ちょ、ちょっと待って。唯一のって……」
「……はい。言葉通りです。白石さんは黒木さんの、たった一人の友達なんです」
夕空さんは一際ハッキリとした振る舞いで、僕にそう告げた。
彩瞳さんに、僕以外の友達がいない。
その事実を受け止めるのには少し時間がかかった。
「え、でも……彩瞳さん本人は友達いるって――」
言いかけて僕は口を噤んだ。
そうだ。思い返してみれは、彼女は僕以外の特定の人間の話をしたことがほとんどなかったし、自分から明確に他の友達がいると言ったこともなかった。いつも僕が彼女には友達がたくさんいるのだろうと推し測っていただけで、実のところそんなことを今まで一度もちゃんと確認したことがなかったのだ。
それに彼女は僕に構う理由についてこう言っていた。
――光輝くんが友達だから。
それは裏を返せば僕以外に話をする友達がいなかったということだ。
でも、どうして。
なぜあの社交性の塊みたいな彩瞳さんに友達がいないんだ。
普通あれだけ前向きな人間は慕われるはずじゃないのか。
本人は対人関係で嫌なことがあったみたいなことを一度話していた気がするが、それと関係しているのだろうか。
「彩瞳さんに僕以外の友達がいないっていうのは……その……どうして……」
僕は慎重に言葉を選ぼうとしてぎこちなくなった。
「……多分察しているとは思うんですけど……私の口から軽々しく言えることではないので……」
「……軽々しく言えないって、そんなに深刻なことなんですか?」
「……え。あの、本当に分からないんですか……?」
夕空さんの声色は懐疑的な含みを持っているように感じられた。
今僕はなぜか不審に思われている。
しかし、彼女が何を言っているのかが、僕にはさっぱり分からなかった。
まるで僕以外の誰もが彩瞳さんの秘密を知っているような。というよりも、ただ一人僕だけが知らないような言い方だ。
「……分からないなら、なおさら私の口からは言えないです。ごめんなさい」
耳にかけていた長い髪が垂れて、俯いた彼女の頬を隠す。
彩瞳さんに関してはこれ以上何も聞けそうにない。
しばらく二人とも押し黙ったままで、時計の針の進む音だけが病室に響いた。
「えっと……それで、夕空さんは彩瞳さんの代わりに僕のところへ来たってことですよね」
「あ、はい」
「じゃあ明日、学校で彩瞳さんに会ったら、彼女のせいじゃないって伝えておいてください。それと、文化祭までには戻れそうだから、当日は一緒に回ろうって」
「……はい、わかりました。伝えておきます」
そして再び、二人とも口を閉ざす。
僕も夕空さんもコミュニケーションを得意としてはいないから、切り出すタイミングが掴めない。
「……え、えっと。特に用事がなければ、もう」
「あ、はい。そ、そうですよね……でも――」
「でも?」
「……本当は、彩瞳さんの代わりに白石さんの容体を確認しに来ただけじゃないんです」




