不穏な雪
どうやら秋という季節は本当に姿を見せることがなかったらしい
翌日は昼から雪が降り始めた。
「やばいな。ほぼ吹雪じゃん」
彩瞳さんと昼休みに弁当を食べながら僕はそう呟いた。
「ねー! テンションあっがるぅー!」
彩瞳さんならそうなるだろうなと、僕は微笑ましいものを見るように、思わず口元が緩んでしまっていた。
「なーにニヤニヤしてんのー?」
「いや、大方予想通りのリアクションだなと思って」
「まあねー! 雪だけに限らないけど、日常の様子がいつもと少し違うと、それだけでワクワクしない?」
僕は今まで惰性で日々を過ごしてきたから、そんな細かいところに着目したことはなかったな。
「それにそれに、この勢いだと雪合戦できるくらいには積もるよねー! 楽しみだー!」
「おいおい、積もってほしくないんじゃないのか」
「大雪で休校になったら光輝くんに会えないって話? それならやっぱり大丈夫! 光輝くんが私の家に来ればいいから!」
相変わらず彼女は大胆なことを平然と言う。
てかそっちがうちに来る発想はないのかよ。
「休校になるほどの雪の中、僕に危険を冒してまで会いに来いと?」
「そういえばそっかー!」
間抜けた言動もこれで何度目だろうか。
僕と女子を見間違えたり、眼が悪いのに眼鏡をかけなかったり、弁当の箸を忘れたり、他にも色々……
「ま、もし今日の帰りにちょっとでも積もってたら、公園寄って遊んでもいいかもな」
「ほんとに? やったー!! 光輝くん大好き!」
コラ。軽率にそういうことを言うんじゃないよ。
「ていうか今日も一緒に帰ってくれるんだね!」
「え、あ、ああ、うん」
そういや今日は約束とかしてなかったのに、自然と誘ってしまったな。
文化祭の準備とか大丈夫だろうか。
でも多分、こうやって全ての事柄がありのまま進んでいくのが“友達”ってやつなのだろう。
五限目の予鈴が校内に鳴り響く。
「もうこんな時間!早く席空けてあげないと。じゃあ、光輝くん! また放課後ねー!!」
「おう、またな」
そそくさと弁当箱を花柄のランチクロスに包むと、彩瞳さんはさながら起床時間の自衛隊隊員のごとく手早く教室を去って行った。
破天荒に見えてルールはきちんと守るタイプらしい。
また一つ僕の彼女に対する好感度が上がった。
◇
その日の放課後、僕たちに降り注ぐ吹雪はまるで鰯の大群がダイレクトにこちらへ向かってきているようで、とんでもなく視界が悪くなっていた。
それはちょうど学校を出た直後のことで、少しでも時間がズレていたら体育館に待機しなければならなくなっていたと思う。
「や、やっっばいなこれ!!ほんとに十一月か!?」
「ははは! 凄いねー! 異常気象だー!」
「笑ってる場合かよ!」
「だってこんなの初めてなんだもーん!!」
初めて? 十一月で、と言う意味なら分かるけれど。
この辺りに住んでいる人間なら十二月に何回か似たような経験はしているはずだが。実は他県出身だったりするのか。
「てか彩瞳さん目大丈夫なのか? 今ちゃんと前見えてるのか?」
「ギリッギリだね! ほとんど真っ白だ!」
「おいおい」
目が悪いわけでもない僕ですら危ういのに、このまま無事帰宅できるのだろうか。
――すると肌が切れるような突風が吹いて、世界が真っ白になると、その刹那、彩瞳さんが態度を豹変させた。
「あ! やっぱ無理かも!」
「ほら言わんこっちゃない」
彩瞳さんの足が止まった。
「ね、ねえ! 光輝くんどこー!?」
なんだか慌てふためいている。
「ここ、ここ!」
吹雪が音をかき消す中、僕は出来るだけ大きな声で呼びかける。
「わかんない! ほんとに何も見えない!!」
彩瞳さんの声色が少し恐怖を纏っている。
どうしたんだ。ただ見えにくいからというだけではないような。そんな雰囲気が伝わってくる。
パニックになっているのか?
「光輝くん! 手! 手繋いで!」
「え」
確かに、それが一番安全だけど、こんな状況でも流石にそれは照れ臭いような……
「早く! お願い!」
しかし、徐々に彩瞳さんの声が切迫した空気を帯びていって、今はそんな悠長なことを言ってられないのだと気がついた。
「し、仕方ない!」
僕は雪の中で立ち尽くして震える彩瞳さんの手を取ってこちらへ引っ張った。
前にもこんなことがあったような気がする。
やはり彼女の体重は、あの時と同じく信じられないくらい軽かった。
「……あ、ありがとう」
僕の手を握った彩瞳さんが、ゆっくりと呼吸を落ち着かせている。
その光景はなんだか目新しく、それと同時に、いつもは元気溌溂としている彼女がここまで弱っているのを見るのは心苦しいものがあった。
「どうしたんだ彩瞳さん。さっきまであんなにはしゃいでたのに」
「……ご、ごめんね。なんか、急になんにも見えなくなっちゃって。光輝くんもいなくなって。怖くなっちゃった」
僕の掌の上で、彼女の小さくか弱い手がまだ微かに震えているのを感じた。
恐らく、本当に怖かったのだろう。
「……私、昔からこういうことがあるといけないからって、実は雪の日に外に出してもらったことってあんまりなかったんだ」
そうなのか。
だからこんな吹雪も体験したことがなかったんだな。
でも、それなら何で彼女の家族は無理矢理にでも眼鏡をかけさせたりコンタクトレンズを付けさせたりしなかったんだろうな。
見えないことでこんな危険が付き纏うというのに。
「そうか。でもなんで今日は雪強くなりそうなこと知ってて僕と一緒に帰ろうと思ったんだ? 文化祭の準備で残った方が良かったんじゃないのか」
「それは……友達と雪の中ではしゃぎ回るのが夢だったから……」
「夢?」
「うん。ずっとやってみたかったの」
雪遊びを止められていたならば分からないこともないが、彩瞳さんならもっと楽しいことをたくさん知っていると思うのだけれど。
「でも危ないから。これからは気をつけろよ」
「うん……」
彩瞳さんが珍しく俯きながら歩いている。
今は少し吹雪も落ち着いてきたが、さっきのがよっぽど衝撃的だったらしい。
元々小柄な彼女だが、今日は一段と小さく見える。
「て、あれ。なんか顔真っ赤だけど大丈夫? 風邪でも引いたか?」
「え、あ、それは……その、寒くて」
「そっか。まあそうだろうな」
彼女は耳まで真っ赤になっていた。
元の真っ白な肌とは対照的で、いつもとかなり印象が違って見える。
「あ、も、もう大丈夫だから! 手、離してもいいよ!」
「お、おう。そうだな」
吹雪が弱くなってもずっと手を繋いだままでいたことが急に恥ずかしくなってきて、僕たちは手汗が滲む前にパッと離れた。
それからしばらくお互いの方を見ていられなくて、無言の状態が続いた。
なんだこの空気。急にドキドキしてきたぞ。
これは沈黙に耐えられないことによる緊張か? それとも――
そんなことを考えて堂々巡りしているうちに、駅と住宅街に分かれる交差点まで辿り着いていた。
「じゃ、じゃあここで。また明日」
「う、うん。バイバイ光輝くん」
なんだか二人ともぎこちない。
彩瞳さんの弱いところを見てしまって、ついいつも通りではいられなくなってしまったからだろうか。
けれどそのおかげで、前よりももっと彼女との心の距離が縮まったような気がして、少し嬉しさも感じている。
それにしても家までもうすぐだとはいえ、彩瞳さん大丈夫かな。
送ってあげた方がよかっただろうか。
人付き合いが少ない僕はあの時間でそこまで頭が回っていなかった。
けれど、あの空気のまま一緒に家まで付き添っていたら、邪な考えが頭に浮かんできそうな気がして…… そうしたらただの友達ではいられないような気がして…… 何はともあれ、やっぱりあそこで解散したのは正解だったと思う。
ま、この十数分で雪もかなり止んできたし、少なくともさっきみたいな吹雪みたいにはならないから、危険はないだろう。
僕がそう自分に言い聞かせて独り言をぶつぶつと呟きながら駅まで続く直線の歩道を歩いていると、真横を一台の軽自動車が走り抜けて冷たい風が頬を掠めた。
――その挙動は明らかに普通じゃなかった。
横目でしか見えなかったが、その一瞬だけでも違和感を悟ることができたくらいには不安定な走りだったのだ。
ハッキリとは見えなかったが、恐らく冬用タイヤに替えていない。
僕は嫌な予感がしてすぐさま後ろを振り返った。
彩瞳さんは信号待ちでまだ道路を横断しておらず、その場でじっと待機したままだった。
しかし、不自然に近づいてくる車の気配に気づいているそぶりもない。
――もし、あの車がうまく止まれず、そのまま彼女に激突したら。
僕は頭であれこれと考える前に、全速力で駆け出していた。
「彩瞳さん!」
案の定前方を走る車の勢いは落ちていない。
例えブレーキをかけて止まったとしても、横断歩道を通り越してしまうだろう。
そのタイミングで歩行者側の信号が青にでもなったりしたら最悪だ!
「彩瞳さん!!」
彼女はさっきまでの僕と同様に考え事をしているようで、半ば意識がないみたいだ。
僕の呼びかけに反応しない。
はぁ! はぁ!
肺が凍えていくのを感じながら、息を切らして冬空の下を駆け抜ける。
そして、音響信号機から不吉な音が鳴り響く。
彩瞳さんは反射的に歩みを進めて横断歩道を渡り始めていた。
クソッ!
車がどんどん距離を縮めていく。
少なくとも減速はしているため、僕は隣に並ぶことができた。
間に合え!
彩瞳さんはようやく違和感を察知したようだが、車はもう衝突を避けられない距離まで接近していた。
「危ない!!」
そして、衝突目前のその間際――
とんっ
弾丸のごとく一直線に道路に飛び込んだ僕は彩瞳さんの背中を押して突き飛ばした。
しかし次の瞬間――
ドンッッ!!
僕は向かってくる車に正面から跳ね飛ばされて、身体を地面に強く打ち付けた。
全身を伝わった振動が音になって頭蓋骨に鳴り響く。
外の音が何も聞こえない。
ああクソ。痛い。
立てない。
状況が把握できない。
階段から落ちた日のようにはいかないかもしれない。
そうなると面倒だな……
彩瞳さんは怪我とかしなかったかな。
軽いし、突き飛ばした反動でどこかぶつけたりしなかったかな。
僕は頭から何か熱い液体が流れていくのを感じながらも、他人の心配をしていた。
「光輝くん!!」
そうやって叫ぶ声が僅かに聞こえたけれど、僕の意識はすでに朦朧としていて、彼女が側に駆け寄ってくる頃には、完全に気を失ってしまっていた。