帰り道、彩瞳さんの違和感
その日の放課後、僕たちは約束通り一緒に下校した。
学校という空間の外で女子と二人っきりになるのは人生で初めてかもしれない。
僕はこの青春イベントに胸を高鳴らせていた。
――まるでそれ以外のことは全てどうでもいいと思ってるように。
「本当に外寒いな…… これ明日あたりにでも雪降ったりするんじゃないか?」
他地方出身の人間からしてみれば、気温は十一月とは思えないほど下がり切っていて、秋なんて季節は存在しなかったのではないかと感じさせるほど底冷えする寒さだった。
すでに手の甲が十二月末のフローリングみたいに冷たくなっている。
「ひぇ〜! 雪かきとか大変になるんだろうなあ〜!」
「へえ。彩瞳さんならそういうことも喜んでするものだと思ってた」
「私だって一般的な感性の持ち主なんだよー! 犬とかじゃないんだから」
そう言いながらムッとする彼女は実際子犬か小動物のように見えて可愛らしかった。
「ま、流石に積もるほど降らないと思うよ」
「だといいねー。もし大雪になって休校とかになっちゃったら光輝くんにも会えないし」
彼女は恐らく僕の様子を伺うように、こちらを見ている。
瞳を隠す真っ黒な闇の奥でチラチラと視線を送っているのが容易く想像できる。
しかし、その手には乗らない。そう何度も恥ずかしがってたまるか。
僕はさも当然のことのように聞き流して、何事もなく返した。
「ああそうだな。それじゃ彩瞳さんに会えないからな」
よし。完全に狙いを外してやったぞ。
しめしめ。
……て、あれ。
僕今なんて言った?
めちゃくちゃ恥ずかしいこと言ったのでは?
恐る恐る彩瞳さんの反応を覗いてみる。
すると、僕の数歩後ろで足を止めて、流れる時間の中で彼女だけ取り残されたみたいに、石になってしまっていた。
「あ、彩瞳さん?」
やばい。引かれたかもしれない。
彼女は冗談で言ったことかもしれないのに、それと同じことを真顔で返すだなんて、僕だけ勝手に真剣になってると勘違いされたのではないか。
「さっきのは、その、別に深い意味はなくて」
「……」
「あ、あの?」
彩瞳さんは何も言わずにその場に突っ立っている。
いや、突っ立っているだけなのか?
どこか不自然だ。
僕の見えていない部分で決定的な何かが起こっているような気がする。
それに、彼女の薄い唇が僅かに震えているのがわかる。一滴の雫が左頬だけを伝っている。
もしかして泣いているのか?でも右頬には何も流れてないし……
これは一体――
「どうしたの――」
「ごめん」
遮るように彼女が口を開いた。
「これはなんでもないの。ただ、“そういう”ことなの。だから、お願い。変に思わないで」
そういうこと?
そういうことってなんだ?
彼女は何を言っているんだ。
「い、いや別に急にぼーっとし始めたくらいで変なやつだとは思わないけど……」
「え?」
「い、いや。僕は……むしろ引かれなかったかなって心配になってて」
「――あ。そう! そうか。そうだよね! 光輝くんはそうだったね! 何言ってるんだろ、私」
「?」
僕はやっぱり彼女の言っていることが理解できなかった。
そうだとかなんとか、抽象的な代名詞で何を指しているのだか。
「うん。ほんとなんでもなかったから! ごめんね。気にしないで!」
そう言うと彩瞳さんは駆け出して僕の隣まで追いついてきた。
凍えた空気の中で彼女の白い息が宙を舞う。
まあ、彩瞳さんがそう言うなら――明らかに違和感はあったけれど――僕は無理に追求したりするべきではないのだろう。
「……てか、そこ危ないよ」
走ってきた彩瞳さんが、白線ギリギリの車道にはみ出しそうな位置を歩いていることに気がついた僕は、片手に収まりそうな彼女の小さな肩を掴んで、反対側へと寄せた。
そういえば目が悪いんだったな。
「わお、ありがとー! 気づかなかった」
「そんなんで今までどうやって帰ってたんだ?」
「えー? それは秘密だよ」
「どうせ授業みたく他人に助けてもらってるんじゃないのか?」
「……あ、わかっちゃう?」
「やっぱりな。友達がいない僕に気を遣う必要はないぞ」
「別にそんなつもりはないよー。第一光輝くんには私っていう友達がいるわけだし」
「まあそれもそうだな」
僕は段々彼女に友達と呼ばれることに慣れ始めていた。
というよりも、僕は彼女にそう呼ばれたかったのだ。
去年瀧内たちと一緒にいた頃とは違って、無理に話題を探す必要はないし、こっちから喋る回数が少なくたって、それで誰かと比べて劣等感を抱くなんてこともない。
いたって自然体で 、何も考えなくてもただそこにいるだけで友達としての役割を果たせる。
人と関わることは孤独を感じさせないでいてくれる代わりに面倒ごとに苛まれるという弱点があるはずだった。
けれど、この二週間と少しの間彩瞳さんと一緒にいることで面倒だと思ったのは最初だけで、今はこうやって隣の並ぶことが楽だとさえ思っている。
「でも光輝くんは他に友達ほしいとは思わないの?」
「前にも言ったろ。僕はできるだけ面倒なことは避けて楽に生きたいんだ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「そっか」
彩瞳さんは若干腑に落ちていない様子だった。
「逆に欲しそうに見えるか?」
「うーん。それは確かに違うんだけど……」
彼女が顎に手を当てながら頭を悩ませて、んんんと唸る。
「いらないとも思っていないような」
「まあ彩瞳さんみたいにそっちから来てくれるなら拒んだりはしないけれど」
「そうなんだ」
少なくとも向こうからこちらに寄り添ってくれる意志があるのなら、僕が積極的に傷つく必要もないからな。
「私は友達百人くらい欲しいなー!」
「彩瞳さんならそれくらいいそうだけどな」
「それは流石に過大評価だよ〜」
楽しそうに笑う彼女の横顔が、どこか憂いを帯びていた。
「ていうかそんなに要らないだろ」
「えー? だって光輝くんっていう友達と一緒に過ごす時間が楽しいから、味を占めたっていうか、もっといっぱいいたらいいのになーって」
「それは友達って概念に“楽しい”が必ず付属するんじゃなく、友達が僕だからこそ楽しいんじゃないのか」
「お、光輝くんも中々自意識過剰なことを言うようになってきたねえ。その通りだ!」
「彩瞳さんに言われ続けたようなことを馬鹿正直に信じてるだけだよ」
それを聞いた彼女は、弟子の成長を見守る師匠のような佇まいで、腕を組みながらしみじみと頷いていた。
――それから、聞くに値しないような他愛もない雑談に花を咲かせると、彩瞳さんは住宅街へ、僕は駅へと、それぞれの帰り道に分かれてその日は解散した。
空を見上げると思っていたよりも日が暮れていて、季節の移り変わりを実感したと同時に、下校にかかる時間がいつもより長くなっていたことに気がついた。
案の定いつも乗っていた電車はすでに駅を発っていて、僕はこの寒い中幾らか待っていなくてはならなかった。
しかし、それも彩瞳さんと過ごした時間が今日という日に存在した証拠のようにも思えているから、特別嫌なわけでもない。