2.過保護な周囲
そうして二人は一軒の宿屋の中へと入っていった。
「ここがお勧めの食堂か? 部屋が空いているようならついでに取っておくかな」
穂純はそう呟くと、注文を取りに来た給仕に尋ねた。
「上はまだ空いてるか?」
上というのは客室のことだ。どこの宿屋も――桜花以外の宿屋も含めて――一階が食堂兼受付となっている。
給仕は空き室の確認のためにいったん下がり、数本の鍵を持って戻ってきた。
「一人部屋と二人部屋はまだ十分空きがあります。階も二階から四階までございますがどういった場所をご希望ですか?」
穂純はわずかに首をかしげる。
「じゃあ三階の角部屋で一人。空いてるか?」
「西と東がございますが?」
「東で」
「かしこまりました。ではこちらの鍵をどうぞ。宿泊日数はお決まりでしょうか?」
「そうだな……、とりあえず十日ということでいいか?」
あとは事務的な手続きに入り、十日分の宿賃を前払いした。
そうするうちに注文していた食事が運ばれてくる。メニューは木槿がお勧めと思える品をいくつか注文していた。
宿の確保もできたことだしと穂純がいざ食べようとしたところで、木槿がなにやら楽しげに尋ねた。
「いいの?」
「何がだ?」
「何も確認しないで部屋を取ったことよ。この宿でよかったの?」
ああ、と穂純はようやく納得したように笑った。
どんな料理が出てくるのか全く見ていないうちに穂純は宿を決めたのだ。もちろん部屋の中さえまだ見ていない状態で十日。部屋を取った宿でしか食事ができないわけではないが、普通は同じ宿で食事をとることが多い。宿泊日数も最初は一、二泊ほどして様子を見るものだ。
「木槿のお勧めだしな。まあうわさで聞いた感じじゃどこも水準が高いってことだったし、給仕の姐さんの仕事っぷりを見た限りじゃ間違いはないと思ったからな」
正直に答えれば、木槿はにやりと笑んだ。
「確かにね。不公平がおきないようにどこの宿も水準を合わせるようにしているから奉仕の質に差はないわ」
違いといえば立地している場所くらいだ。宿屋通の入り口側、奥側、中央付近。二階、三階、四階。東、西。好みによって、また部屋の空き具合によって、それらの選択肢の中からいずれかの部屋を選ぶ。ただそれだけの違いしかなかった。
出店通に足繁く通うものは入り口側の宿を選択することが多い。
不慣れな者はだいたい中ほどに集まりたがる。
そしてじっくり腰をすえて品を選ぶもしくは特注する者は奥側を選んでいた。
出店通と宿屋通は平行に並んでいるにもかかわらず、奥に行くほど人々の喧騒が遠ざかるのは、宿屋通のそうした状況と、出店通の状況が関係していた。
出店通は入り口側に案内所が設けられ、その近くには初心者向けの武器が並べられていた。奥に進むにつれてだんだん品の質と値が高くなり、更に奥に進めばあつらえ物専門の店になる。
特注品はすぐには仕上がらない。それなりの日数を待つことになる。したがってそうした武器を欲する客は必然的に長期滞在を余儀なくされ、人通りも少なく静かでゆったりと寛げる奥まった場所にある宿に泊まるようになっていった。
そうした利便性や必然性が重なりいつしか暗黙の了解となって今の状況と相成った。
今穂純と木槿がいるこの宿は宿屋通の一番奥に建っている。
そしてそのことは宿に入る前に簡単に木槿から説明があったので穂純も知っていた。
そうした背景から、穂純も長期滞在する者としてこの宿を『ちょうどいい』からと選んだにすぎない。
そうした雑談をしながら二人はのんびりと食事を進める。
「ところで穂純はどんな武器を探しているの? 桜花に来たってことは武器を探しに来たんでしょう?」
「ああ、刀と……あとは峨嵋刺や鎖玉といった秘武器や鉄扇くらいかな」
それを聞いた木槿はくすくすと笑いだした。
「峨嵋刺や鉄扇を……? どちらも主に女性が使う武器ね」
「まあ一般的にはそうだが、男が使ってはならないと決まっているわけじゃないしな。俺は使えるものは何でも使う主義なんでね」
穂純はそう言って肩を竦めた。
峨嵋刺とは簪から発展した秘武器のひとつで両端が尖っている。中央に開けられた穴に取り付けられている皮製の輪に中指を通してくるくる回しながら突き刺したり打ち付けたりといった攻撃を仕掛けたり、敵の刃を受け止めたりする。
一方鉄扇は主に女性が護身用に持つことが多いことはたしかだが、女性用は小ぶりのものが多い。
そしてその一方で男性向けに白扇術というものがあり、これは一尺二寸の長白扇を使った攻防併せ持つ技法だ。これをただでさえ重い鉄扇を使って行うのだと穂純は説明した。
「鉄扇はただでさえ重いのに、それを長扇子で?」
驚く木槿は穂純の全身をしげしげと眺めた。
穂純は童顔ではあるが身長は平均よりやや高め。しかし特に筋肉質というわけでもなく、どちらかというと細めだ。その穂純がただでさえ重い長扇子を親骨だけとはいえ鉄で作ろうと言うのだ。
「持てるの?」
これは当然の疑問だっただろう。
しかし穂純はこの問いに眉をひそめた。
「そんなに俺が頼りなく見えるのか?」
穂純としては、すでに成人して自活しているにもかかわらずこのように言われては侮られたとしか思えなかった。
自然目付きが険のあるものへと変化していく。
だが木槿は小さく笑っただけで軽くあしらった。
それが更に穂純の癇に障った。
「答えろ木槿」
低く唸るように問い詰めた穂純を囲むように、飛来した打根が突き刺さった。
ぐるりと自身を取り囲む打根を一瞥した穂純は、ゆっくりと食堂内を見回した。そこにはこの宿の常連もしくは島の住人が数人。いずれも穂純に対して睨みを利かせている。
ここは相手をするべきかとゆっくりと立ち上がろうと卓に手をついたところで、穂純は動きを止めた。
視線を落とせば、またしても喉元に突きつけられた木槿の短刀。
思わずため息をひとつ漏らした穂純は、ゆっくりと特に力を込めることなく刃物を押し返した。それにあわせて木槿も引き下がったため双方に遺恨無くとりあえずは片がついた。
脱力するように椅子の背もたれに体を預けた穂純は、天井を仰ぎながら頭を掻いた。
半端に抑え続けて燻ったままの悪感情を体外に逃がすように大きく息を吐き出した穂純は、そのままの体勢で顔だけ横に向けた。
「なあ」
声をかけたのは穂純の一番近くにいた小柄な老人である。とはいえ今なおかくしゃくとしているが。
「なんだ?」
「さっきも言ったけどあんたたちちょっとどころでなく過保護すぎないか?」
老人はちらりと木槿に目配せをする。木槿が軽くうなずいたことを確認した老人は、再び穂純へと視線を戻した。
「お嬢さんは次の頭領だ。そして今の副頭領でもある。護衛がつくのは当たり前のことだ」
穂純は片眉を持ち上げた。
「木槿が? 次期頭領?」
「そうだ」
老人のうなずきに穂純はゆるゆるともとのように天井を見上げて左手で目元を覆った。
「……そう。木槿が、ね……」
桜花において頭領といえば島長とは別の存在で、出店通と宿屋通のすべての店を監督している団体の頭である。
桜花に来た客達の動向を監視することが主な仕事で、鍛冶屋達を実質的に守っているのが彼らだ。
そんなお役目だからこそ荒くれ者が多い。そのため頭領となる者には自然と、そんな荒くれ者達をまとめる技量が求められた。
しかし周りの反応をみれば、すでに木槿が次期頭領となることを認めている様子。
そうであるなら部外者である穂純が口をはさむのはお門違いでしかない。
ところが穂純のそうした態度に、今度は木槿がへそを曲げた。
「穂純……、それはあまりにも私に失礼じゃない?」
「そうはいうが」
ゆっくりと体を起こした穂純は卓に身を乗り出すようにして可能な範囲で木槿に詰め寄った。
「お前には義兄も義姉もいるといっていただろう」
出会いの路上からこの宿屋へ向かう途中に、すでに告げていた名前と年齢以外の簡単な自己紹介は雑談代わりに話し終えていた。
穂純は五歳のときに両親と死に別れ、通りすがりの老い人に拾われ育てられた。その養い親も三年前に亡くなり今は一人であちこち旅をしている。
木槿は養女で、義兄が二人に義姉が一人。そして現頭領の養父。その四人で暮らしている。木槿が養女になったのは一歳にも満たない赤子のころ。ついでに言えば義兄と義姉も養子養女で、全員血はつながっていないが兄弟姉妹は仲良く暮らしている。
まあその程度の互いに特に珍しくもない経歴だ。
ちなみに後継者は通常男性の第一子が選ばれる。
その旨を穂純が問えば、木槿は苦笑した。
「まあそういう意見もあったわね」
「だったらなぜお前に決まったんだ?」
穂純の当たり前すぎる疑問に答えたのは、食堂に新たに現れた人物だった。
「それは木槿が一番才能があったからだよ」
「樒兄さん!?」
木槿の驚く声を聞きながら、穂純は入り口へと体ごと視線を向けた。そこには木槿の上の兄――つまりは本来であれば後継者となるべき長子が立っていた。
ほっそりとした体つきだが、立ち振る舞いからそれなりの手練だということはわかる。
とはいえ一見優男にしか見えないのは事実で、それが演技であればなかなかの策士であるといえるし、地であればなるほどたしかに後継者には向かないだろうと納得させられる。
果たしてどちらの姿が本当なのか。きっと本人にしかわからないだろうが。
穂純のもとまでやってきた樒は手を差し出して改めて名乗った。
差し出された樒の手をちらりと一瞥し、こうなると握手を返すしかないだろうなと内心で苦く笑った穂純は、己も名乗りながら手を差し出した。そうして両者の手が触れ合う少し前に木槿が樒の手を軽く叩いた。
「樒兄さん、それはちょっといたずらが過ぎるわ。穂純も穂純よ。気づいてたのに付き合おうとするなんてどうかしてるわ」
樒は微笑み、穂純は頭をかきながら明後日の方向へ視線をそらせた。
木槿の言葉をきちんと理解していたのは樒と穂純だけだった。他の者は何事が起こったのか理解できず、ただ困惑顔で三人を眺めている。
「お嬢さん……?」
木槿に問いかけてきたのは穂純が声をかけた老人だった。最初に声を掛けてきたところからしてこの中では一番高い地位にいるようだ。
「今のはどういうことです? 樒様が何かしなさったんで?」
「ああ、そうね……。まあ簡単に言えば、穂純の力試しってところかしら。握手を受ければ樒兄さんが仕込んでいた毒針が刺さるようになっていたのよ」
すると老人を筆頭に食堂にいた面々が満面の笑みを浮かべてしきりにうなずき始めた。
「さすがは樒様。お嬢さんが頭領となられた暁には、よき副頭領としてしっかりとお嬢さんを支えてくれるはず。ワシらは今後も安泰ですなぁ」
「そうだ、そうだ」
「さすが樒様」
どうやら樒のことは疎んでいるわけでも、見下げているわけでもないようだ。単純に技量が木槿のほうが高く、見栄えにも華があるということで次期頭領に選ばれただけのようだった。
周囲の者達にさりげなく視線を巡らせて観察した感じから穂純はそう判断した。
もちろんそうした行動は木槿と樒には筒抜けだったが、そうであることがわかったうえでの行動なので穂純にとってなんら不都合はなかった。
あらかた騒ぎが落ち着いてきたところで、樒が再び穂純に向かって手を差し出した。今度は何の仕掛けもなく、単純に挨拶としての握手を求める行為に、どちらにせよ応じざるを得ないと腹をくくっていた穂純は一切の躊躇いも見せずに差し出された手を握り返した。
ここはさすが次期副頭領というべきか。それまで何の含みも無さ気な顔をしていながら、手を握り合った瞬間力を込めてきた。もちろんその最中でさえ表情には一切変化は無い。
対する穂純はといえば、負けず劣らずといったところか。同じだけの強さで握り返しているため、一見普通に握手をしているだけに見える。
男二人のほとんど意地の張り合いとなった握手合戦を呆れた眼差しで見やった木槿は、額に手を当てて大きく息を吐き出した。
「お嬢さん?」
突然大きなため息をついた木槿を訝った老人が問いかけるも、いい加減説明することに疲れた様子の木槿は軽く手を振ることで黙殺した。
「……樒兄さん、穂純、いい加減にしてくれないかしら?」
木槿の提案に、そろそろ飽きていた二人はすんなりと手を離した。
給仕の者が新たに用意した椅子に樒が腰掛けたころ、別の給仕が三人分のお茶を持ってきた。
「店主からの差し入れでございます」
乱闘を起こすことなく収束してくれたことに対する礼ということで、食堂内にいた全員にお茶が振舞われた。
さすが最奥にある宿屋だけの事はある。
一番奥にある分、一般客はここまで入ってくることが少ない。必要ないから客引きもしていない。島の住人と常連の長期滞在者ばかりが主な利用客であるにもかかわらず乱闘騒ぎを起こそうものなら桜花の評判にもかかわってくる。しかもその主犯が次期頭領と次期副頭領では醜聞が悪すぎた。その上この宿屋は、宿屋通を総括する役も担っている。騒ぎが起きていれば他の宿へ示しがつかないところだった。
初顔の穂純に対する配慮なのか。台の上に乗っているお茶が入った湯呑みの中から一番最初に選ぶ権利が穂純に与えられた。
「どれでもお好きなものをお取りください」
給仕の言葉に、穂純は迷い無く一番手前の湯呑みを手に取った。
あとは副頭領の木槿が先に取り、残りの湯呑みが樒の前に置かれた。
「それでいいの?」
木槿がくすくすと小声で笑いながら穂純に尋ねたが、穂純は軽く肩をすくめただけですぐにお茶に口をつけた。一気に飲み干して器を卓に戻す。
「そこまで肝の小さいことはしないだろう?」
今度は木槿が肩をすくめる。肯定したということだ。