1.要塞島桜花
なだらかに進む大型船の甲板で一人の少年が空を見上げた。
青い空にぽかりぽかりと浮かぶ白い雲。まさに物語が綴る典型的な晴れた空が広がっている。
こんなにもいい天気に恵まれていながら少年の面には疲弊が窺えた。
濃紺の着流しを纏って同色の地下足袋を履いた少年は、風に遊ばせていた肩にかかるくらいの長さの黒髪を手で押さえるとざっと首をめぐらせて大陸へと目をやった。
この大陸を竜という。形が竜に似ていることからそう呼ばれ始めた、今では世界で唯一の大陸だった。
少年が乗っているのは、この大陸を守るために東西南北に配置された要塞島を巡回する大型船だった。
要塞島で生活する人々のために食料や生活物資を運び、そして島を移動する人間をも運んでいる。
そんな少年にほかの乗客が声をかける。
「おい坊主。手ぶらか? 刀はどうした」
ここでは身を守るための武器は必須だ。もちろん刀以外にも武器はいろいろとあるが、ほとんどの者が刀は基本として身に帯びていることが普通だった。それなのに少年には目に見える範囲ではなにも持っているような気配はない。
少年は声をかけてきた男のほうへと向き直る。
「刀は折れた」
「ああそれで手ぶらなのか。ってことは行先は桜花か?」
桜花とは要塞島の名前の一つだった。
少年は「そうだ」と小さくうなずいた。
男は小首をかしげる。
「どうした、元気ないな。どっか悪いのか?」
世話好きな男のようだ。少年はかすかに苦笑した。
「いや、ちょっと寝不足なだけ」
「なんだ、若いくせに一丁前に夜遊びか~」
男はようやく納得したようにうなずくと、ほどほどにしておくようにとだけ忠告して船室へと戻っていった。
「ありがとう」
小さく礼を言った少年の言葉は届いたのかどうか。豪快な笑い声を響かせていたから聞こえなかったかもしれない。
それでも少年は構わなかった。
男も構わなかった。
それでいい。
少年はもう一度大陸を見かえすと、今度は瞳に険しさを潜ませて反対側の大海原を睨みつけた。
要塞島桜花はすぐそこまで近づいていた。
ようやく夏の暑さも和らぎ始め、空を見上げれば夏と秋の特徴を持つ二種類の雲が仲良く並んでいる。
改めて目の前の通りを眺めれば、着流しの裾を肌蹴させながら闊歩するたくさんの人々。
出店の売り子達は笑顔を振りまいて自分のところの商品を通りすがりの客に訴える。
ここは要塞島――桜花。出店で扱っている商品の主力は武器である。
刀を中心に、小刀、短刀、秘武器などなど各地で集められた多くの武器が売買されていた。
先ほど港に着いた船でこの要塞島へ上陸した男は、道なりに歩いた先にある出店通の入り口で足を止めていた。
ゆっくりと周囲を見渡す男を胡散げに見やるものは皆無ではなかったが、そうした者達はいずれもただの客で、要塞島の関係者にとっては時折見る光景の一つでしかない。船が運んできた荷を降ろす作業に忙しい中でそんなことにかかずらっている暇などないのだ。
もっとも彼らが自身の仕事に集中できるのは見えないところで監視している者がいることを知っているからというのが一番だったが。
初めて桜花に足を踏み入れたものは、ここでいったん躊躇することがある。それだけ活気がすさまじいのだ。自分のような者がここで望みの武器を買うことができるのか、と。
そうした者のために売り子には可愛らしいお嬢さん方が多く採用され、親切丁寧に接客をしてもらえる。出店通の入り口でしばらくたたずみ、そうした様子を眺め、ようやくでは自分もとざわめきの中に加わることは決して珍しい光景ではなかった。
現在入り口で立ち止まっている男も、見た目はかなり若い。何も手にもっていないので刀を求めてきたのだろうか。
入り口のそばにある案内所の人間が、さりげなく男の様子を伺い、タイミングを見計らって声をかけようとしていたとき、ようやく男の足が動いた。ただし目の前の出店通ではなくその横の脇道へだが。
案内所にいた女性は、ちらりと後方にいる男へ目で合図を送る。するとその男は静かにその場から離れていった。
出店通を外れた脇道は、まるで迷路のようだった。否、ここは事実部外者を阻む迷路の役目を果たしていた。
武器の売買をおこなっているとはいっても、基本的には新たな武器を売った際に、不要になった客の武器を買い取っているだけの話だ。そうして引き取った古い武器は、まだ使えるものはそれぞれに必要なだけ手を加えてから中古商品として改めて出店の棚に並ぶ。安いものは初心者や、使い捨てることの多い狩人達に人気があった。
刃物はいつまでも一定の切れ味を保っているわけではない。切れば切るほど、使えば使うほど切れ味が落ちてくるので頻繁に手入れする必要がある。むしろ使わなくても手入れだけは絶えず欲するのが刃物の特徴ともいえる。にもかかわらず狩りでは一度に大量の殺生をおこなわなくてはならないため、すぐに切れ味が落ちてくる。しかもそのつど研ぎ直すことなどできない。だからこそ獣達に囲まれた中で生き残りかつ仕事を済ませるには、囲まれてなおすべてを切り捨てられるだけの量の刀が必要になってくるのだ。仕留める相手によっては一撃で刀が折れることもある。数を揃えようとすれば必然的に単価を下げざるを得ない。そうして需要と供給は成り立っている。
中古品はそうした理由から需要はあるものの、やはり桜花に来たからには、桜花の銘が入った新品の刀を購入することが一種の社会的地位の確立や自己満足を満たすために必要不可欠でもある。
ところがここでそれを横取りしようとする者が現れた。
普通、刀に彫られる銘といえば、その刀を鍛えた鍛冶屋の名前を刻むものだ。
だが桜花ではここで作られたすべての武器に桜花の銘が刻まれている。
これは鍛冶屋を守るためだった。特定の個人の銘は、特に精度が高くなればなるほど危険を伴い始める。金のなる木は誰もがのどから手が出るほど欲しがるものだが、手に入らないとなるととたんに消そうとする者があとを絶たない。ほんに人とは罪深き存在だと嘆きながら島の長が定めたのだ。
誰が鍛えたのかを秘し、鍛冶場を隠し、そうして自分達の生活を守るための手段が、銘の統一であり、この迷路のように複雑な路地だった。
一見ぼろぼろの木造家屋がひしめいているように見えるが、実際は丈夫な鉄骨を骨組みに使っており、強烈な嵐が直撃しても吹き飛ばされないように見えないところに多くの工夫がなされている。
配置もそうだ。不慣れなものを惑わせ、風をうまく流して家屋へかかる負担を軽減する。この島を空から俯瞰することがかなうなら、きっとそこには翼を広げた優美な鳥の姿を目にしたであろう。
だが、地上を歩くしかすべのない人にはここはただの迷路。それ以上でも以下でもない。
脇道に入り込んだ男はそうやって複雑に入り組んだ道を、迷うそぶりも見せずに一心に進んでいた。
見つめるのはただ前だけ。
視線の先には一人の女性の後ろ姿があった。
「そこの姐さん、姐さんよー」
男がその女性に向かって声をかけた。口を開いたのは上陸してから初めてのことだ。
見かけは若くむしろ少年といった風だったが、声だけを聞けば一応成年に達しているであろう年と見受けられた。
女がゆっくりと振り返る。
露になったその女の顔は極上で、いかにも男を手玉に取っていそうな雰囲気を醸していた。
女は不審な男の登場に警戒しているのか、眉間に小さく皺を寄せていた。
男の方はといえば、そのことに気づいているのかいないのか。女の顔を拝めたことにご満悦のようで、だらしないほどに笑みこぼれていた。
「いやー、思ったとおりの美しい姐さんだ」
そう言いながら、男は女との距離を一気につめた。
驚愕からか、わずかに目と口を開いたまま動きを止めた女の手を掴んだ男は、その手の甲にそっと唇を触れさせた。
「俺の子を産んでくれ」
瞬間、男を幾つもの飛び道具が襲った。
ほんの刹那。男の口元に別の笑みが刻まれる。
あとはもう幻のように。
気づけば、先ほどよりわずかに離れた位置で女を守るように腕に囲った男が平然とした顔で立っていた。
「とても手厚いもてなしですね。これが桜花流ですか?」
路上に散らばる物騒なものをちらりと一瞥した男は、次いでゆっくりと周りを見渡した。
もはや隠れる意味を成さなくなったからか。あからさまに姿を現しただけでなく、殺気すら隠す気はなさそうだった。
「やれやれ、ホントに物騒ですね」
観念したように小さく息を吐き出した男は、腕に囲った女から離れて彼らと向き合おうとしたところで動きを止めた。
ピクリと眉を動かしてゆっくりと視線をおろすと、そこには刃が剥き出しになった短刀が。出所は腕の中の女だった。
「……姐さん、それはないんじゃ……」
眉尻を下げて泣き言のような台詞を漏らしながら、男はゆっくりと両手を上げた。
この場合は降参する以外に道はない。否、降参しておくのが無難だろう。
抵抗の意思がないことを示した上で、男は女に向かって再び笑顔を向けた。
「で、姐さんもこいつらの仲間なわけ? だったら引くように言ってくれないか? 別に姐さんに危害を加える気も、無理強いする気もないし。ただの求婚だから」
再び飛んできた小刀状の手裏剣や矢を、男は器用にもわずかな動きだけで避けていた。もともと脅しでしかないから可能な技ではあったが。
「俺はまじめに求婚しているんだが、それすら駄目だってことか? いい歳してちょっと過保護すぎじゃないか?」
男があきれたように頭を掻く。
正面に立つ体格のいい強面の中年男性が一歩男の方へと近づいた。
「ませた口をきいてないで、お嬢さんから離れろ」
頭を掻いていた男の手が止まる。
「お嬢さん? ませた口? ……は?」
強面の男へ向けていた視線をいったん宙へずらし、また強面へ。それからゆっくりと女へと移動した。
「……姐さん、もしかして未成年? いくつ?」
歳を訊ねたところで再び小刀が飛んできたが、男は視線を向けることすらせずにそれを軽く掴んだ。
ただの威嚇とはいえ当たればもちろん怪我をする。にもかかわらず自分に向かって飛んできた刃物を一顧だにせず、もちろん女からも一切目をそらさなかった。
そうした一連の状況を間近で見ていた女は、ふっと苦笑するように息を吐き出すと男に突きつけていた刃物を引っ込めた。
「お嬢さん!?」
驚いたのは取り囲んでいる者たちだった。口々に女をいさめるが、彼女は軽く手を振って彼らを下がらせる。
「いい。どの道お前たちでは太刀打ちできそうにないからね、みんな持ち場に戻って」
強面の男が最後まで粘っていたが、無言で見つめる女に観念したのか、やがて踵を返してどこかへ去っていった。
今度は男の方がその様子を黙って眺めていたが、やがて誰の気配も感じられなくなった頃、女へと視線を戻した。
「よかったのか?」
「何が?」
これがはじめて成立した会話だった。味も素っ気もない。しかしそれでも男はうれしそうに目をやわらかく細めた。
「保護者を帰したことさ」
「危害を加える気も、無理強いする気もない。――そうだろう?」
それは男が言った言葉だ。
『別に姐さんに危害を加える気も、無理強いする気もないし』
と。
男はにやりと笑って首肯した。
「とりあえず話し合う時間はもらえたってことでいいのかな?」
期待に目を輝かせる男を見返した女は、どこか諦めたような苦笑を浮かべた。
「この場でどう言っても聞きそうには無いからね。まあとりあえずあんたに諦めてもらうための時間は作ることにした。それだけだ」
「それじゃ、自己紹介から始めようか? 俺の名前は穂純。歳は二十一だ」
穂純が歳を告げたとたん、女は眇めた目であきれたように見返してきた。
疲れたように息を吐き出した穂純は、嘘ではないと告げる。
「童顔なのは何度も言われているから俺も理解しているし、見えないってこともさんざっぱら言われ続けてわかっているが、事実だ」
さすがにそこまでいえばとりあえずは信じるしかないと判断したのか、女は軽くうなずいた。
「私は木槿、十六だ」
今度は穂純が目を眇める番だ。だが彼はすぐに笑みに切り替えた。
「八重の木槿ならイメージがぴったりだな。いい名だ」
木槿は見かけに反して歳は若い。穂純とは反対だ。そのためかすぐに事実として受け入れられた。
「さて、それじゃあ自己紹介が済んだところで、今度はこの桜花を案内してくれるか? それと飯の旨いところ」
「食事はいいとして、案内といわれても見せられるのは出店通と宿屋通だけだけど」
「もちろんそれでいい」
含みもなく軽く返せば、それならと木槿はまずは宿屋通に足を向けた。食堂は宿屋にしかなかったからだ。桜花の住人もそこの食堂で食事をとることが多い。
別にそれぞれの家に炊事場がないわけではない。ただ忙しい中わざわざ材料を用意して調理をするよりも、宿屋通内の食堂で食べた方がうまくて経済的で楽だからだ。したがって特に内輪での祝い事がある日や、せいぜいおやつ程度にしか家で作られなくなっていったというわけだ。
とはいえ火を使っているかどうかで鍛冶屋の場所を知られてはならないということもあり、火だけは常時焚かれていた。ただだからといって無駄に焚いているわけではない。その火は海水から真水を作る工程に使われている。
それぞれの行動には意味があり、無駄なところが出ないように各所で創意工夫がなされていた。