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蛇足伝  作者: 大田牛二
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蓋寛饒伝

 正しさとは何だろうか。特に正しさにおける正義とは何かだろうか。多くの綺羅星の如き歴史上の人物たちを見ていく中、多くの者が己の正しさのために様々な活躍をした。しかしながら誰もがその正しさを貫けたわけではない。それどころか非業の死を遂げる者も多くいた。


 そんな者たちの中から一人の人物の話をしたい。彼の事績を記し、彼が示そうとした正しさを見ていきたいと思う。


 前漢の時代、蓋寛饒がいかんじょうという人がいた。字を次公といい、魏郡の人である。


 彼は経書に通じていたため郡の文学となり、孝廉に挙げられ郎となった。方正に挙げられて優れた策を示したため、評価されて諌大夫に遷った。


 その後、郎中戸将(光禄勲の属官)を代行した際のこと、衛将軍・張安世ちょうあんせいの子で、侍中・張彭祖ちょうほうそが宮殿の門をくぐる際、下車しなかったことがあった。彼はそのことを批難し、更に父である張安世は高い地位にありながら皇帝を補佐していないとして弾劾した。


 政治において重責を担う一族でありながらそのようなことを行うことが彼にとっては許せなかったのであろう。


 しかしながら実際には張彭祖は下車しており、蓋寛饒は大臣の弾劾が真実ではなかったとされた。そしてその理由で衛司馬(衛尉の属官)に左遷すると命が下された。


「なぜだ」


 自分は目の前で起きた事実をそのまま伝えたにも関わらず、真実が捻じ曲げられた。


「なぜ、私の正しさを理解してくだされないのか」


 蓋寛饒はそう嘆いた。


 当時、衛司馬はそれまで慣例として衛尉に拝謁し、いつも衛尉の私用の使役・買い物を行っていた。


 蓋寛饒は衛司馬に着任するとそのことを知った。


「これでは使用人と同じようなものではないか」


 彼はそのことを隠さずに尚書に報告したため、衛尉は尚書より責められ、以後、そのような慣例は無くなった。


 蓋寛饒は短い衣を着て、大きな冠と長い剣を帯び、自ら兵卒の宿舎を見回り、病人があれば見舞って治療を施すなど、衛尉配下の兵卒の心をつかんだ。


 兵卒が1年間の務めを終えて交替の時期になる。その際、当時の皇帝がもてなす慣習があった。その慣習が行われた際、兵卒・数千人が自らもう一年勤めたいと申し出て、蓋寛饒の恩に報いたいと願った。


 前漢の宣帝・劉詢りゅうじゅんはそれを評価し、蓋寛饒を太中大夫とし、各地の風俗を見回らせる使者にした。そこでも良い事は称揚し、悪い事は弾劾し、使者としての職務を果たしたため、司隷校尉に抜擢された。


 司隷校尉になった彼は相手によって態度を変えることなく、大小の事柄関係なく弾劾したため、弾劾の案件がとても多かった。


「また、蓋君の弾劾文だ。しかもほとんどがあまりにも細かすぎる内容で、取り上げる必要のないものばかり出してくるのは勘弁してくれよ」


 それほどに細かく小さなことも弾劾していた。よって廷尉が取り上げるのはその半数ほどであった。


 だが、大臣や貴人、および長安に出張に来た地方の役人たちは、みな蓋寛饒の弾劾を恐れて罪を犯そうとせず、都は清らかになったという。


「私は間違っていない」


 それを見て、蓋寛饒はそう呟いた。ここにある光景こそが正しいはずなのだ。


 宣帝の最愛の皇后・許平君きょへいくんの父である平恩侯・許広漢きょこうかんの屋敷が完成し入居する際、丞相・魏相ぎそう以下大臣はみな祝賀の会に参加したが、蓋寛饒は行こうとしなかった。


 許広漢は彼だけが来ていないことを知ると、彼の元に使者を出して丁重に来るようにお願いした。流石の蓋寛饒もこれには答えないわけにはいかず、参加することにした。


 しかし宴に来るとそのまま彼は上座に座った。そのことに誰もが眉をひそめる中、許広漢はそのことに対して怒ることなく、それどころか酒杯を持って、


「蓋君は遅れて参られたので、私自ら」


 と、許広漢が酒を勧めた。しかし蓋寛饒は、


「私にあまり飲ませないように。私は酒に酔うとおかしくなりますから」


 と言った。そのことに対して魏相が、


「次公は酒に酔っていなくても狂っておられる。酒は関係ないでしょう」


 と笑って言い、他の者は目配せして蓋寛饒を卑下した。


(ふんなんと愚かな連中なのか)


 その後、長信少府の檀長卿だんちょうけいが猿と犬の戦う様を舞い、一同は大笑いしたが蓋寛饒は喜ばす、屋敷を見て嘆息して、


「なんと美しいこと。だが富貴はすぐに相手を変えるものだ。慎まないと長くはない。ここは宿屋のようなもの、多くのお客が警戒してゆく。ただ謹慎していれば、長持ちしましょう。貴方も戒めなければなりませんぞ」


 と言い、それを理由に帰った。それから檀長卿を高い地位にありながら猿の真似をしたのは不敬であると弾劾した。宣帝は檀長卿を処罰しようとしたが、許広漢が謝罪したのでとりやめた。


 蓋寛饒は剛直で高い志を持ち、家は貧しかったが給与の半分を吏や民に与えて自分の耳目として養っていた。司隷校尉でありながら、自分の子には歩いて北辺警備の兵役に行かせるほど清廉だった。


 しかしながら人を弾劾し、貶めることが多く、大臣、貴人で彼を怨む者は多く、また皇帝への進言においても人の謗ることが多く、宣帝は不快に覚えることが多かった。


「やれやれ困った男だ」


 宣帝はそれでも彼が儒者であることから大目に見ていた。


 しかしながらそのため蓋寛饒は昇進することなく、彼の同期・後輩の方がより上位に昇っていった。


「なぜ、正しいことをやっている私がこのような扱いを受けなけばならないのだ」


 蓋寛饒にとってはそれが不満で、多く上書して諌言するようになった。太子庶子の王生おうせいは彼に自重を勧めたが、彼は聞かなかった。


 その頃、宣帝は法を好み、中書宦官を信任していた。それに対し蓋寛饒は、


「今や聖人の道はすたれ、儒学は行われていません。罪人を周公の地位に就け、法律を詩経、書経の代わりとしています」


 と言い、更に『韓氏易伝』の辞を引用して、


「五帝の時代は天下を賢人に伝え、三王の時代は天下を子孫に伝えました。そもそも功績はひとたび成れば去ってしまうものであり、人が得られなければその地位は瞬く場に失うものです」


 と進言した。


 すると宣帝はこれを誹謗とみなし、大臣に書を下して処遇を議論させた。執金吾は蓋寛饒が自分への禅譲を求めるものだとみなし、大逆だと主張した。


 諌大夫・鄭昌ていしょうは蓋寛饒の忠節を惜しみ弁護したものの、宣帝は許すことなく、蓋寛饒を獄に下した。蓋寛饒は佩刀を持ってこさせ、北門の元で自殺した。大衆はみなこれを憐れまぬものはなかったという。


 これが自分の正しさを貫こうとした者の最後である。蓋寛饒の事績を見るに彼が自分の正しさを貫こうとしたのは確かであろう。しかしながらそれを貫くには理解者が少なすぎた。







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