王湛伝
ある家の墓所に家が建てられていた。その家に住んでいる者の名は王湛、字は処沖という。身長は七尺八寸あり、龍のような高い額と大きな鼻の持ち主であった。
正直言ってそこまで良い風貌の人であるとは言えない人である。彼がなぜ墓所に住んでいるかと言うとこの墓所には父・王昶の墓があるためである。
王湛は寡黙で与えた恩恵についてを述べずにいたため、一族の誰もが彼のことを馬鹿にしていた。そんな中、父・王昶だけは彼のことを評価し、可愛がっていた。
そんな父が亡くなってしまった。そのことに悲しんだ王湛は父の墓の近くで暮らし、喪に服すようになったのである。
喪に服す期間を終えた後も彼は家に閉じこもり、人付き合いをせず、淡々とした暮らしを続けていた。
先ほど言ったように彼は一族の誰もが彼を馬鹿にしていた。その中で特に馬鹿にしていたのは王湛の兄である王渾の子である王済である。
王済の字は武子といい、風姿は英爽で、弓馬を好み、王済の勇力には誰も敵わなかったという。『易経』『老子』『荘子』をよく読み、文詞は俊茂で、伎藝(音楽に関する才能)は人より優れ、世間においても有名で、姉の夫である和嶠や裴楷と並び称された人物である。
外面は雅な印象を受ける彼だが、内面は陰湿で人の悪口を言うのを好むところがあった。
そんな彼が叔父である王湛の元に出向くことになった。
「なぜ、私があのようなろくでなしの元へ行かなければならないのか」
王済は苛立ちながらそう呟く。
彼が王湛の元へ行くのは母親に頼まれたからである。彼の母である鍾琰(鍾繇の曾孫)と王湛の妻である郝氏(郝普の娘。蜀と呉に仕えた郝普とは別人)は姉妹のように仲がよくいつも交流していた。
そのため王済が叔父の元に行くのはその母親たちの交流のためである。
「だいたい墓所で住み続けるのか」
雅な貴族社会で生きている王済にとってこのような場所に喪に服す期間でもないにも関わらず住み続ける王湛の神経が理解できなかった。
「なぜ、父上はさっさとこの叔父を追い払わないのか」
そう思いながら王湛の家を訪ねた。流石に使用人はいたが、家の中は乱雑で色んなものが転がっていた。
(信じられない……)
これが貴族足る者の暮らしかと王済は思う中、床に『周易』が転がっているのを見つけた。それを手に取る。
「とても質の良い『周易』ではないか」
質の良い材質を使われている『周易』を乱雑に怒れていることに王済は怒りを覚えると同時によくよく見ると見たことない注釈がされているのを見つけた。
(叔父上の注釈?)
まさかと思いながら王済は王湛に会うと『周易』をもって、
「叔父上はこれを何に使うのですか」
と訊ねた。すると王湛は、
「身体の中が良くないときに、見るだけだ」
と答えた。
「どういうことでしょうか?」
王済が説明を求めると、王湛は説明した。彼の説く易の道理は微妙かつ奇趣があり、王済の聞いたことのないものであった。王済は衝撃を受けて、態度を改め、連日連夜とどまって語り合うようになった。
やがて、
「家に名士がいたにも関わらず、三十年近くも知らなかったのは、私の罪である」
と嘆いた。王済が辞去するにあたって、王湛は門まで送った。この行為は王済の自尊心を擽った。その後も度々王済は彼の元に行くようになり、やがて彼は叔父を朝廷に推薦した。
その結果、王湛は秦王文学・太子洗馬・尚書郎・太子中庶子を歴任し、汝南国内史として出向することになったという。
王済は馬が好きであった。そんな彼にこのような逸話がある。
王済が馬に乗っていると、乾いて道を塞ぐ泥が連なっており、前方には川があった。王済は馬に川を渡らせようとしなかった。その理由は、馬が泥で汚れると嫌というものである。
その結果、彼は人に泥の障壁を壊させてから、渡った。そのため杜預から、
「王済には馬癖がある」
と言われたのである。
そんな王済が収拾した馬の中で、騎乗の難しい馬がいた。その馬を連れて、王済は、
「叔父上は馬に乗るのがお好きですか?」
と王湛に訊ねた。王湛は、
「それも好きだよ」
と答えたため、王済は王湛にこの馬に乗るように勧めた。馬に乗った王済の姿勢はしっかりとしており、鞭さばきも優れていた。それは乗馬を得意とする者となんら遜色ないほどであった。
また王済の愛馬を見て王湛は、
「この馬は速いけれども、力が弱いので苦行には耐えられないだろう。近頃見た督郵の馬は勝っているが、ただ糧秣が足りていないだけであった」
と言った。王済が試しに督郵の馬を自分の馬とともに養ってみた。王湛はまた督郵の馬について、
「この馬は重荷の背負いかたを知っているため、平路と変わりはないだろう」
と言った。そこで重荷を背負わせて試してみたところ、王済の馬は躓いたが、督郵の馬はいつもどおりであった。王済はますます感心し、家に帰って、
「私は始めてひとりの叔父を得ました。すなわち済以上の人です」
と父の王渾に報告したという。
晋の武帝・司馬炎も王湛のことを愚か者と見なしていたため、王済と会うたびに、
「汝の家の愚かな叔父はまだ死なないのかね」
といってからかっていた。性質の悪い言葉である。当時、王湛のことを侮蔑していた王済はいつも答えなかった。しかし、王湛の優れたところを知るようになり、武帝がまたいつものように訊ねると、王済は、
「私の叔父は愚か者ではありません」
と答え、その美点を讃えてみせた。武帝が、
「誰に匹敵するか」
と訊ねると、王済はこう答えた。
「山濤以下で、魏舒以上です」
当時の人々は、
「王湛は上に山濤に及ばないが、下に魏舒と比べるには余裕がある」
と評したという。
王湛はこれを聞くと、
「私を季孫氏と孟孫氏の間で処遇しようというのかね」
と言った。この言葉は『論語』微子篇にみえる言葉で、斉の景公が孔子を上卿の季孫氏と下卿の孟孫氏の中間で処遇しようと発言した故事である。
兄の王渾が呉を滅ぼすと、王湛は関内侯の位を受けた。その後、295年に死去した。享年は四十七であった。
王済は癖の強い人で、あまり好ましい部分が少ない人であるものの、この王湛と関わっている時は人としての純粋さを見せていた。