駱統伝
駱統、字は公緒という。
彼の話をする前に彼の父・駱俊の話をしなければならない。
駱俊は字を孝遠といい、若くして文武両道の才に富んでいた。その評判によって郡吏となり、まもなく、孝廉に推挙されて尚書郎に任命された。やがて功績を称えられ、後に陳国の相となって陳愍王・劉寵に仕えた。
劉寵は陳孝王・劉承の子で、父が死去すると、後を嗣いで陳王として立った。
173年に前陳国相・魏愔と共に天神を祭って、反乱の成就を祈願していたと、陳国相の師遷が告発したことがあった。
それを受け、当時の御史が使者を派遣して調査させるよう後漢の霊帝に上奏した。
このとき霊帝は勃海王・劉悝を処刑したばかりであった。そのため続けて皇族を刑法によって処断することに躊躇し、魏愔を師遷とともに北寺の詔獄に檻車で送って、中常侍の王甫や尚書令や侍御史らに取り調べさせることにした。
魏愔は劉寵と共に黄老君を祭って、長生の福を求めていただけで、反乱の成就を祈願したような事実はないと証言した。結果、王甫らは魏愔は陳国相として正当な職務をおこなっていて、告発のような事実はなかったと認定し、師遷は反乱の計画を捏造して陳王を誣告したとして処刑するよう上奏した。
結果、劉寵を赦され、取り調べられることはなかった。
少しばかり問題児の雰囲気を持つ劉寵であるが、彼は弩を射るのを得意とし、十発十中で、当てた矢が全て同じところに立つほどの腕前であった。
黄巾の乱が起こると、郡県の守令たちはみな城を放棄して逃亡したが、劉寵は強弩を数千張、所持していたことから、都亭に軍を出動させて守りを固めた。
陳国の人々は劉寵が射を得意とすることを聞き知っていたため、あえて反乱に加担する者もなかった。そのため陳国は反乱の手に落ちることはなく、劉寵の庇護を求める民衆は十数万人に及ぶほどであった。
やがて反董卓連合が起こると、劉寵は軍を率いて陽夏に駐屯し、輔漢大将軍を自称した。
この時、天下は飢饉のために荒廃していた。
そのため陳国相として赴任した駱俊は自らの財産を投じて民衆に食糧を振る舞い、多くの人を救った。これによって更に多くの民が陳国の元に集まるようになった。
一方で、天下は荒れに荒れていた。197年の正月には袁術がこともあろうに仲の皇帝を偽称し、異母兄の袁紹との争いを繰り広げ、各地で反乱が起き、陳国付近でも騒然とした状態となり、四方に奸悪な賊衆が蠢くようになった。
これを危惧した駱俊は劉寵に上奏して富国強兵を奨励した。これにより奸悪な賊たちは陳国に侵入することができなくなった。
また駱俊は万民に慈悲をもって接し、その身の安全を保障したため、陳国は天災事変に遭遇せず豊かで有り続けた。
軍事は劉寵が担い、内政は駱俊が担う。二人の具体的な関わり方は記録には残ってはいなかったが、主従としてはとても相性が良かったように見える。
そんな二人によって豊かになっていた陳国であったが、その良い状態は長くは続かなかった。
袁紹との対立、己の暴政によって袁術は食糧が欠乏し始めていた。そこで豊かな陳国に目を付け、使者を派遣して劉寵および駱俊に対して、食糧を輸送するよう要請した。
しかし駱俊は袁術なんぞに協力するべきではないとし、断固としてこれを拒んだ。あくまで彼は民衆の生活を守りたかったのであった。
袁術は戻った使者から駱俊の態度を聞くと激怒した。しかしながら富国強兵によって発展している陳国を武力で落とすのは袁術と言えども難しかった。そこで彼は刺客を派遣して劉寵と駱俊を暗殺させた。
その後、袁術は食糧を奪い陳国を併呑した。せっかく豊かな陳国を手に入れておきながらその豊かさを荒廃させるだけで袁術はその後、没落することになる。
父・駱俊が暗殺された時、駱統はまだ五歳という幼子で父の家臣や生母に守られながら南へと逃れ、当時、豫章太守であった華歆の元に逃れた。
華歆とどういう繋がりがあったかは不明であるが、華歆は彼らを受け入れた。その後、華歆は孫策の侵攻によって降伏し、孫策の家臣となり、孫策の死後、孫権の家臣となったため駱統らも孫権の勢力下に入った。
駱統が八歳になったある日、生母から華歆の側室になったことが伝えられた。
「おめでとうございます」
駱統は生母にそう言った。母は若くして父を亡くし寂しい思いをしてきたことを幼子に過ぎなくとも理解していた。
「よって私は許昌へ向かいます」
華歆は孫策に降伏した後、北に帰りたいと思っていた。その彼を曹操が招いた。華歆はその招きに答えようとしたのを孫権が止めたものの結局は華歆は許昌に行くことになった。
その彼の側室になった以上、付いていかなければならない。
生母の言葉に対し、駱統は、
「では、私は嫡母様と共に故郷の会稽へ向かうことにします」
と言った。息子の言葉に生母は目を伏せる。
「一緒に行きませんか?」
生母の震えるような声に駱統は首を振りながら言った。
「私は駱家の子です。その私が付いていけば、駱家の者たちを見捨てることになります。嫡母様も一人になってしまいます」
「ここより豊かな生活があるかもしれませんよ」
生母の言葉を受けても駱統は同意しなかった。
「どうかお幸せになって下さい」
息子として彼はそう述べるのみであった。
華歆が曹操の元に赴く日、駱統は生母と別れて、父の正室である嫡母と食客たちを引き連れ、故郷に帰ることになった。
駱統の生母がこれを見送った。出発した駱統を見て生母は泣いた。しかしながら駱統は二度と振り返ることはなかった。
その姿に同情した御者は駱統に言った。
「夫人がまだ見送っておられます」
しかし駱統は首を振り、
「母上のお気持ちがつのらぬよう、わざと振り返らないのだ」
と言い、最後まで振り返らなかった。
この時の彼はまだ八歳である。そんな幼子が実の母と別れることが辛くないわけがない。生母についていき、華歆の元で暮らす方が良い生活を送れるかもしれないが、
(連れ子である自分には継承権はなく、幸せになれるとは限らない)
曹操は自分ほど連れ子を大切にする男はいないだろうと言うことになるが、このような発言が記録されるように本来、連れ子というのはどんなに母親が寵愛されても大切にされない方が普通なのかもしれない。
そう考えれば、生母に付いていくことが幸せであるとは限らない。
(それに駱家の復興を願い、今でも付いて来てくれている食客たちを見捨てることはできない)
彼は駱家の人々を見捨てることはできなかった。
己の財産を叩いてまで多くの民衆を救ってきた父の血を引く者として父を慕う者たちを路頭に迷わすわけにはいかない。
駱統は父の生き様をしっかりと受け継いでいたのである。
会稽に戻った駱統は嫡母に謹んで仕えた。
当時、飢饉があり、郷里の人々も流亡してきた者たちも皆、誰もが苦しい生活を送っていた。
駱統はそんな彼らのことを考え、食事を少ししか食べなかった。
彼には姉がおり、思いやり深く道を外れた行いをしない人物であった。夫と死に別れた後、再婚することなく子供なく、郷里で暮らしていたが駱統のそのような様子に気づくと幾度もその理由を聞いた。
駱統は姉にこう答えた。
「立派な家柄の人々が粗末な食事すら十分に食べられぬ時に、私だけがお腹いっぱいになる気持ちになれないのです」
すると姉はこう言った。
「それならばなぜ、私に話さず、そんなふうに一人で苦しんでいたのですか」
彼女は自分の手元にあった粟を与え、嫡母にもこのことを話した。
「なんと立派なことでしょう。それは亡き夫の志そのものでありませんか」
嫡母は駱統が駱俊の志を受け継いでいることを喜び、人々に食料を分け与えることを許可した。
これに感謝した人々は駱統に感謝し、彼の名は多くの人々に知られるようになっていった。
そんな彼が二十歳になった頃、曹操の上奏によって孫権が会稽太守となった。
そのため駱統は孫権に仕えた。孫権は彼を試験的に烏程の相に任じた。
当時、烏程の治下には民戸が一万以上あったが、住民たちはそろって駱統の統治が思いやり深く、また筋道の整ったものであることを称賛した。孫権は彼が烏程で治積を挙げたことを喜び、召し寄せて功曹に任じ、騎都尉の職務に当たらせるとともに、従兄の孫輔の娘を彼に嫁がせた。
孫権に信頼されるようになった駱統は孫権の施策の不足部分を補い正すことに心を注ぎ、なにか見聞したことがあると、夜中でもかまわず上言した。
つねづね孫権に勧めて、
「賢者を尊重し立派な人物と親しく交わり、彼らの批判を積極的に求めるように。臣下たちをもてなされるときには、一人一人を別々にご前に呼び、彼らの生活の様子を尋ね、親密な気持で対して、彼らが思うところを存分に述べるようにする。また彼らが願っているところを察知し、皆が君恩に感動し主君との関係を大切にし、心からご恩返しをしたいと願わせるようにされねばならない」
と説いた。孫権はこの意見をいれて実行に移したという。
地方に出て建忠中郎将の任につくと弓勢三千人の指揮を任された。凌統が死んだあとには、凌統の配下にあった兵士たちの指揮を任されたという。
この当時、人々はしばしば軍役にかり出され、そのうえに伝染病も流行して、民戸は減少していた。この状態を憂いた駱統は上疏をして、この問題に国を挙げて取り組むことを嘆願した。孫権は、駱統の言葉に心をうたれ、その意見に深い注意をはらった。
その後、陸遜の配下として蜀の劉備が侵攻してきた際、蜀軍を宜都で打ち破った功績によって、駱統は偏将軍に昇進した。
魏の曹仁が濡須に攻撃を加え、別将の常雕らに命じて中洲を襲撃させて来た時には、駱統は厳圭らと共同してこれを防ぎ、打ち破った。この功績で、新陽亭侯に封ぜられ、のちに濡須の督となった。
民衆の生活を第一にした政治を行い、軍事においても才能を発揮した駱統であったが228年、若くして死去した。享年、三十六歳であった。
父・駱俊の志を受け継いだ立派な人物であったと言えよう。