朱雲伝
朱雲、字は游という。字が一文字というのは前漢の時代においては珍しい方である。
身長は八尺もある巨漢の持ち主にして、勇敢で腕力には自信があった。そのため任侠を好み、人の仇討ちを助けたりしていた。そのため出身は魯の人でありながら平陵に遷ったのはその辺の影響もあるのだろう。
そんな彼が四十歳になるとそんな生活に飽き始めたため、学問に打ち込むようになった。やがて博士・白子友から易経を学び、優秀という評判を受けた。その後、朱雲は漢の前将軍・蕭望之の元へ向かい、論語を学ぶことにした。
「高潔さと強さをもった人だ」
朱雲は以前から蕭望之のことを評価していた。蕭望之は若い頃、強大な権力者であった霍光に周公旦のような立場でありながら、周公旦に倣おうとしていないと堂々と批難したことのある人だからである。
さて、そんな蕭望之は彼を高く評価し、
「現代の子路とは君のことだろう」
子路とは孔子の弟子の一人で、若い頃は任侠を好んでいたからこその言葉であろう。そんな蕭望之は当時、朝廷において権力争いの最中であった。
蕭望之は漢の元帝の師であり、儒教を中心とした古の時代のような政治運営を行おうと制度改革に乗り出していた。しかしそれに法治を重視する中書令の弘恭、中書僕射の石顕ら中書宦官はそれに反対するという状況であった。
そんな中、貢禹が御史大夫に任命された時、華陰県丞の嘉と言う者が封事をたてまつり、文武の資質を兼ね備え、忠実で知略のある朱雲を御史大夫にするべきであると元帝に進言した。
元帝がこのことに対して大臣に諮問すると太子少傅・匡衡は反対した。反対した内容は主に御史大夫のような高い地位にいきなり据えるには朱雲は名声、実力、共に不足しており、彼が若い頃任侠を好み、度々亡命するような生活を送っていたことに対して目を瞑るほどの結果も出していない。
そんな彼を推薦するということは嘉には何かしら後ろめたいものがあるか邪心があるとして。嘉を取り調べるよう匡衡は進言した。結果、嘉は有罪となった。
匡衡が反対した理由は上記のもの以外にもあったと思われる。恐らく現在、朝廷は権力争いが勃発しており、蕭望之の弟子である彼を登用してしまえば、蕭望之の勢力を強めることになってしまう。匡衡は蕭望之と対立している外戚の史高の下にいることから蕭望之の勢力を強めすぎることを好まなかったというのもあっただろう。
やがて、蕭望之は権力争いに敗れ、官を去ることになった。多くの者が彼の無実を訴え、蕭望之の息子たちも父の無実を訴える上書を行った。そのため元帝は再び、彼を宰相として任用した。
これに弘恭と石顕らが反対し、逆にこのことから蕭望之は元帝の間違いを世の中に証明しようとし、権力を手中に治めようとしているのだと主張した。そして、蕭望之を捕らえるべきとした。元帝が納得すると弘恭と石顕らは逮捕するために兵を蕭望之の元へ送った。
兵が屋敷を囲むと蕭望之は自殺しようとした。夫人がそれを止めたため、蕭望之は朱雲にどうするべきかと問いかけた。
(死んでほしくはない)
そういう思いの強い朱雲であったが、蕭望之はこのまま逮捕され罪人として尋問を受けるという屈辱を受けるだろうと思った。
(師にそのような屈辱をもたらせるべきではない)
朱雲は自殺することを蕭望之に勧めた。すると蕭望之は天を仰ぎ、
「私はかつて将相の地位に至ったこともあり、齢も六十を超えた。老いて牢獄に入り仮初め生を求めるなど、卑しいことである」
と、言うと朱雲の方を見た。
「游よ。早く薬を調合せよ。私の死を引き伸ばすな」
こうして蕭望之は自殺した。
元帝は蕭望之が自殺したことを知ると悲しみ、彼を追い詰めた弘恭と石顕らを責めた。しかし、彼らを処罰しなかったことから、元帝の偽善が見える。
「私の師匠の弟子としてどのように世に名を残せるのか」
朱雲はそう思いながら蕭望之の死を悲しんだ。
それからしばらく蕭望之の弟子であったことから朱雲は任用されることはなかった。
そんな中、元帝は易経の梁丘賀の説を好み、梁丘賀の説を学んだ少府・五鹿充宗と易経を修めた者に議論させ異同を考察しようとしたことがあった。
五鹿充宗は権勢と巧みな弁舌があった他、石顕と親交があったためそれを恐れて、他の学者は彼に対抗しようとせず、病気と称して出てこなかった。だが、朱雲を推薦する者がいた。
「よし来た」
朱雲は恐れることなく、朝廷に向かい、そこで堂々と五鹿充宗を論戦を展開してみせた。
儒者たちはこのことを指して、
「五鹿の長い角を朱雲が折った」
と言った。これにより博士となった。その後、杜陵県の県令となったが何かしらの罪を犯したが、恩赦を受け、方正に推挙されて槐里令となった。
当時、中書令・石顕が権力を握っていたが、御史中丞・陳咸だけは石顕に従わないでおり、朱雲と交友があった。
陳咸は陳万年の息子である。陳万年は慎みのあると同時に賄賂などといった手段を取ることにあまり躊躇しなかった飄々とした人であった。そんな父と陳咸の逸話がある。
陳万年が病気になったとき、陳万年は陳咸を呼んで病床から戒めを与えた。その戒めは相当長いもので、夜中にまで至ったため、陳咸は居眠りをした。陳万年は、
「私がお前に戒めを与えているのにお前は居眠りして私の言葉を聴かないとは何事か」
と、激怒して、陳咸を打ち据えようとしたが、陳咸は、
「要約すると私に諂いを教えようというのでしょう」
と、言ったため、陳万年は何も言わなかった。
このように陳咸は剛直な人物として名声を受けた人である。そのため剛毅な部分のある朱雲と共鳴したのだろう。しかしながら陳咸は残虐性もあり、それによって彼は自らの身を滅ぼすことになる。
少し話が横道にそれた。
朱雲は当時の丞相・韋玄成を批判する上書をし、陳咸は韋玄成の背後にいる石顕を非難した。しばらくして朱雲に殺人の嫌疑がかかり、朝会の場で丞相・韋玄成は朱雲の暴虐ぶりを述べて排除しようとすると、陳咸はそれを聞いていて朱雲に語った。
朱雲は陳咸の助けを借りて潔白を訴える書を奉り、御史中丞が事件を扱うように取り計らおうとした。
しかし丞相がこの事件を扱うこととなり、丞相府は殺人罪で立件した。朱雲は逃げて長安に潜伏したが、丞相は朱雲と陳咸が共謀していることも立件し、二人は獄に下された。死罪は免れて労働刑となり、元帝の時代には用いられないことになった。
因みに朱雲が批難した韋玄成は父親も丞相となっており、親子二代で丞相を務めた周勃・周亜夫、曹操・曹丕しかいない三例の内の一つとなった。
やがて 漢の成帝の時代となった。権力者であった石顕は排除されたため彼の勢力と対立していた人物たちは再び登用された。
元丞相の安昌侯・張禹は成帝の学問の師であったことから大変尊重されていた。張禹は尊敬に値する学者で『論語』(魯論語)を研究して、最も尊ばれた。儒者の間では、
「『論語』を学ぼうと思うならば、張禹の文章を覚えることだ」
と言われ、張禹の説が主流となって他の者の説は廃れていったほどである。
しかしながら政治家としては後に王氏と対立しようとしないなど、事なかれ主義なところのあった人である。
そんな彼を尊重しすぎて、これが目に余ると見た朱雲は謁見を求め、大臣たちの前で。
「今、朝廷の大臣は主を正すことも民を助けることもできず、地位にふさわしくありません。願わくば私に秘蔵の斬馬剣を賜り、佞臣一人を斬って他の者の目を狭覚まさせてやりたいと思っております」
と、述べた。成帝が、
「それは誰だ?」
と、聞くと朱雲は、
「安昌侯・張禹です」
と、答えたため、成帝は、
「小物が上を謗り、公に皇帝の師匠を辱めるとは、死罪である」
と、激怒して、御史に朱雲を連行させようとした。
朱雲は宮殿の欄檻(欄干)につかまって抵抗したため、無理やり引き離そうとしているうちに欄檻が折れてしまった。朱雲は、
「私は死んでも黄泉の世界で関龍逢や比干(いずれも主君に対し諫言をした事で有名な家臣)に従うことができればそれで十分ですが、陛下が何と言われるかはわかりません」
と、叫んだ。朱雲は連行されたが、左将軍・辛慶忌が進み出て膝を突き、
「あの者の狂直さは世間に知られております。その言葉が正しければ、誅殺なさるべきではなく、正しくなくとも誅殺せず、許すべきです。私は命をかけて反対致します」
と、叩頭し血を流して諌めた。
これにより成帝の怒りも解けて許された。欄檻を修理する際、成帝は、
「欄檻は交換してはいけない。元のものをつなぎ合わせてわかるようにし、直臣を顕彰するのだ」
と、命じた。これが「折檻」という言葉の元である。
その後、朱雲は出仕せず、弟子に学問を教えるようになり、牛車に乗って各地を巡りどこでも尊重された。
薛宣が丞相になると朱雲は彼を尋ねた。薛宣は彼をもてなすと彼に留まって四方の人材を検分してくれないかと頼んだ。すると朱雲は、
「私如き者に丞相府の役人になれというのかね?」
と言って断った。朱雲は九江の厳望、その兄の子の厳元に自分の学問を伝えた。二人は博士にまで登ることになる。
病気になっても医者を呼ばず薬を飲まず、七十歳あまりで死亡した。
薄葬するように遺言したという。