前漢物語 文帝期その四
文帝が霸陵(文帝陵)から西に駆けて急な坂を下りようとしたことがあった。
すると中郎将・袁盎が馬を走らせて文帝の車に並び、轡(手綱)を挽いた。
文帝は笑って言った。
「将軍は怯えているのか?」
袁盎は毅然とした態度で、
「『千金の子は堂の外辺(縁)に坐らない(堂の縁に坐われば、軒から瓦が落ちて来る恐れがある。富人は自分を大切にするから危険な場所にはいかないという意味)』と聞いています。聖主は危険を冒さず、徼幸(幸運)を求めないものです。今、陛下は六頭の馬を飛ぶように駆けさせて峻山を下りようとされましたが、もし馬が驚いて車が破損すれば、陛下は身勝手にも自分を軽んじたことになります。高廟や太后に対してどうなさるおつもりですか」
と言った。文帝は坂を駆け下りるのを止めた。
当時、文帝は慎夫人を寵愛しており、禁中で常に皇后と同席させていた。
文帝が上林苑を訪れた時、郎署に宴席が設けられたが、袁盎はわざと慎夫人の席を皇后より後ろに置いた。
慎夫人は自分の席が後ろに配されていたため、怒って座ろうとしなかった。文帝も怒って立ち上がり、禁中に帰ってしまった。袁盎がこれを機会に文帝に言った。
「私は『尊卑に序列があれば上下が和すものだ』と聞いています。今、陛下は既に后(皇后)を立てられており、慎夫人は妾です。妾と主(皇后)がどうして同じ席に座れましょうか。そもそも陛下が寵愛しているのなら、厚く賜ればいいだけのことです。陛下が慎夫人のためにしていることは、まさに禍となるでしょう。陛下だけが『人彘』を知らないのでしょうか?」
文帝は進言に喜び、慎夫人を招いて話をした。
話しを聞いた慎夫人は納得し、袁盎に金五十斤を下賜した。
賈誼が文帝に言った。
「『管子』には『倉廩が満ちて礼節を知り、衣食が足りて栄辱を知る』とございます。民が不足しているのに治めることができた者は、古から今に至るまで聞いたことがございません。古の人はこう言いました『一夫が耕さなければ、誰かが餓えることになり、一女が織らなければ誰かが凍えることになる』どんな物でも生まれる時(時機。季節)が決まっており、用いて限度がなければ、物力(物資)は必ず尽きてしまいます。古の天下を治める様子は至繊至悉(「繊」は細かいこと。「悉」は全て。あわせて「周到」「完全」の意味)だったので、畜積が充分あって頼りにできました。ところが今は本(農業)に背いて末(工商業)に走る者が甚だ多く、天下の大残(大きな弊害)となっています。淫侈(浪費。奢侈)の俗が日日増長しており、天下の大賊(大きな害)となっています。残と賊が横行していれば、誰も止めることができず、大命(命脈)が覆えば、誰も振救(救済)できなくなります。生産する者が甚だしく少ないのに浪費する者(靡之者)が甚だしく多ければ、天下の財産はどうして枯渇しないでいられましょうか」
「漢の天下になってから四十年になりますが、公私の蓄積はまだ哀痛すべきものです。もし時を失って雨が降らなければ、民は狼顧し(「狼顧」は狼が後ろを心配して頻繁に顧みる姿。不安な様子を表す)、歳(年の収穫)が悪くなって食物が入らず、爵位や自分の子を売るようになることでしょう。これらのことは既に天子の耳にも聞こえていると思います。これほど天下が阽危(危険)なのに陛下が驚き恐れないことがありましょうか」
「この世には饑(不作)と穰(豊作)があります。これは天の行(道。規律)であり、禹・湯も経験しました。もし不幸にも方二三千里で旱害が起きれば、国はどうして援けるのでしょうか。突然、辺境で急事が発生し、数十百万の衆を動員することになれば、国はどうやって食糧を供給するのでしょうか。兵乱と旱害が同時に発生すれば、天下の物資が大いに欠乏することになりますので、勇力の者が徒を集めて衡撃(略奪・攻撃)し、罷夫(疲労し男)や羸老(病弱の老人)が子を交換してその骨を噛むことになります。政治が行き届かなくなれば、遠方において帝位を僭称できる有力の者が並立して争いを始めます。その時になって驚いて対策を図っても、どうして間に合うことでしょうか。積貯(貯蓄。蓄積)は天下の大命です。粟(食糧)が多くて財に余りがあれば、できないことがありましょうか。攻めれば取り、守れば固め、戦えば勝ち、敵を懐柔して遠方を帰順させれば、どうして招きに応じない者がいるでしょうか」
「今、急いで民を農業に帰らせ、全て本(農業)に附かせ、天下の者に自分の力で自分を養わせ、末技(重要ではない技術。工商業)や游食(無職)の民を南畮(田地)に向かわせれば、畜積が充実し、人々が本業を楽しみ、天下を富ませて安定させることができます。それにも関わらず、逆に廩廩(危険な事)を為しているため、私は陛下に替わって惜しいことだと思っているのです」
文帝は賈誼の進言に心を動かされ、正月、「藉田」の儀式を行う詔を発し、天下の民に農耕を奨励するため、文帝自ら田を耕して見本になった。
藉田というのは宗廟に供える穀物を作る農地で、古代では毎年春に帝王が自ら田を耕す儀式を行った。「籍田」「耤田」とも書く。
三月、有司(官員)が皇子を諸侯王に立てるように請うた。文帝が詔を発した。
「かつて趙の幽王は幽死したため、朕はこれを甚だ憐れみ、既にその長子・遂を趙王に立てた。今、弟の辟彊と斉の悼恵王の子にあたる朱虚侯・章、東牟侯・興居に功があるため、王に立てるべきである」
こうして趙幽王・劉友の少子・劉辟彊が河間王に封じられ。斉の劇郡(大郡)を割いて朱虚侯・劉章を城陽王に封じ、東牟侯・劉興居を済北王に封じた。
二人とも斉の悼恵王・劉肥の子で、斉の哀王・劉襄の弟に当たる。
その後、皇子(文帝の子)・劉武を代王に、劉参を太原王に、劉揖を梁王に封じた。
177年
文帝が詔が発した。
「以前、列侯が封国に赴くように詔を発したが、ある者は理由を探していこうとしない。丞相は朕が重んじているため、朕のために列侯を率いて国に赴け」
丞相・周勃を罷免して封国(絳県)に行かせた。
太尉・灌嬰を丞相に任命し、太尉の官を廃して職務(軍権)を丞相に属させた。
四月、城陽王・劉章が死に子・劉喜が継いだ。
以前、趙王・張敖が高帝・劉邦に美人を献上した。美人は寵愛を受けて妊娠した。
しかし貫高の事件が起きたため、美人も連座して河内に繋がれた。
美人の同母弟・趙兼が辟陽侯・審食其を通して呂后にとりなしを頼んだが、呂后は美人を嫉妬していたため取り合わなかった。美人は子を生んでから憤慨して自殺してしまった。
官吏が美人の子を劉邦に届けると、劉邦は後悔して長(劉長)と命名し、呂后を母として育てさせた。実母は真定に埋葬された。
後に劉長は淮南王に封じられた。
淮南王・劉長は母を早く失って常に呂后に従っていたため、恵帝と呂太后の時代も迫害されなかった。しかし心中では、
「審食其が呂后に強く進言しなかったから母は恨んで自殺した」
と思っていたため、常に辟陽侯・審食其を憎んでいた。
文帝が即位すると、淮南王は文帝と一番親しい関係にいたため(高帝の子で生きているのは文帝と淮南王のみ)、驕慢横柄になってしばしば法も無視した。しかし文帝は寛大に対処した。数少ない兄弟への思いがそうさせたのであろう。
本年、淮南王・劉長は入朝し、文帝に従って苑囿に狩猟に行った。彼は文帝と同じ車に乗り、常に「大兄」と呼んだ。本来は「陛下」と呼ぶべきであるが、文帝は何ら気にしなかった。
劉長には材力(勇力)があり、鼎を持ち上げることもできた。彼は審食其に会いに行くと袖から鉄椎を出して審食其を撃ち倒し、従者・魏敬に首を斬らせた。
その後、淮南王は闕下まで走って肉袒謝罪した。
文帝は劉長の心が母親の仇討ちにあったことを想い、罪を赦した。
当時、薄太后も太子や諸大臣も皆、劉長を恐れていたため、劉長は帰国してからますます驕恣になり、外出の際には警蹕(帝王が外出する時に道を清めて警護すること)を設け、国内では天子と同じように称制(天子が命令を発すること。政治をすること)した。
これを受け、袁盎は文帝に、
「諸侯が驕りすぎれば、必ずや患が生まれます」
と言って諫めたが、文帝は聞かなかった。
「陛下は兄弟、親族に甘すぎる」
袁盎はそう呟いた。