劉邦と劉秀
寝落ちしていて投降するのを忘れていました。
『鴻鵠の志』、『銅馬が征く』の二つを書いて、劉邦と劉秀の生涯を書いてきました。劉秀に関しては天下統一後は省いていますがね。
劉邦と劉秀は王朝の開祖ではありますが、だいぶ対照的な人物です。
劉邦は定職にはついてはいるものの、普段はふらふらしている人で、酒と女にだらしない人で、一方、劉秀は留学したりと真面目に勉学に励んでいた人でした。
二人共時代の動乱期の中で流された部分もあって表舞台に立ち上がることになりました。
劉邦の時は始皇帝の天下統一後の秦の政治に対しての不満が天下統一からあまり年月が経ってないという部分もあり、爆発したことで乱世が起きました。
一方、劉秀は王莽の政治に対しての不満が各地の反発を招いた結果という部分は似てますが、劉秀の時は王莽の政治よりも漢王朝の頃の政治のがマシだったという考えの元、漢王朝を復興しようという者と劉邦のようになりたいという考えを持った者が出てきたという二種類のタイプの群雄が出てきたという部分では違いがあると言えるかもしれません。
先ずは前漢王朝が成立した経緯と衰退、後漢王朝ができるまでのことを簡単に記したいと思う。
秦王朝の失敗は法律が厳格であったこと、皇帝の権力が強すぎて、皇帝自身が傀儡となってしまった時の影響が強すぎる部分がありました。ある意味、皇帝権力に対して牽制できる力が無いという状況ですね。天下全体を全て治める上でそれではダメだから戦国時代のような各地で王国がある体制で、周王朝のような盟主がいるという体制がいいのではないのかというのが項羽らの主張であったところがありました。
それに対して劉邦は秦王朝の体制を引き継ぎつつも各地で劉氏の王を置く体制にすることで、皇帝権力への牽制と群臣たちによる皇帝を傀儡にする行為に対してのリカバリーを効くようにしました。
劉邦がこのような体制を作れたのは秦王朝の政治を理解できる文官・蕭何、曹参などが臣下としていたのが大きかったですね。秦王朝の政治は当時では最新鋭のものですので、それを知ることができる。スムーズに移行できるというアドバンテージを劉邦は持つことができたのです。
劉邦の前漢王朝はこのようにして秦王朝のダメだった部分を手直しした形で天下運営を行いました。しかしながら次第に衰えていきました。衰えた原因は様々ありますが、一つに前漢の全盛期を武帝の頃に迎えましたが、武帝による度重なる遠征により、国庫が枯渇したのが始まりと言えなくありません。
財政改革を行いましたが、その財政改革の余波で没約した貴族、豪族が盗賊になってしまうという負の面も出るようになりました。また、巫蠱の乱による後継者が長い間いない状況が起き、武帝の後、幼少の皇帝が即位し、それを群臣が支える体制になりました。それにより群臣の権力が増すことになり、群臣の間で権力争いが起きるようになりました。
その後、宣帝による中興がなされたが、その後は衰退の一途を辿りました。政治を行う上で儒教を中心に考えたことで混乱も起きました。これは王莽の頃にも起こり、後漢王朝の時でも起きました。ある意味、漢代における儒教は政治思想としてはある種の限界を迎えていたと言えなくはありません。
政治の混乱の中で宦官と外戚の権力が増すようになりました。その権力を増した外戚が王氏でした。この高まる外戚の精力に皇帝側も対抗しようとしましたが、対抗できず、ついには王莽が王朝を乗っ取ることになりました。
漢王朝の政治体制では天下を治められないのはないかという考えがこの時点でありました。そのため王莽は儒教を中心に据えた政治改革を行いました。しかしながら儒教の形を追い求めすぎて、本来は時代にあった改革を行うはずだったのが儒教を中心に据えすぎたことによって時代を逆行するような改革を行うことになってしまいました。
特に地域の名称を変えるというのがわかりやすく反感を買うものだったと思います。しかも一つの地域の名称が三度も変わることもあったのは政治を行う下級役人からすれば大混乱をもたらしかねないものだったことでしょう。
ある意味、王莽は次の時代の政治を行う上での改革に失敗し、反感を持たれたことで滅びることになったと言えなくはありません。
王莽の政治よりも以前の漢の政治の方が良かった。その考えにより、各地で漢王朝復興の狼煙が上がったのです。
漢王朝復興を掲げたと言っても、実際は中には劉邦のような成功をしたいという者たちもいました。劉秀はそんな彼らとの戦いでした。
前漢王朝の成立は戦国時代に戻るか秦王朝の体制を引き継ぐかというこの中華を治める政治体制の形を巡る争いであったことに対し、新末の動乱は新王朝よりもマシな政治は漢王朝だよねという妥協したものであるというのがあります。
ある意味、漢王朝の政治機能の限界は既に前漢王朝の段階で至ってしまっていたと言えなくはありません。
それからの前漢、後漢王朝の後の天下を治める上での政治運営体制問題への回答を巡る争いが三国時代であり、最後の勝者である西晋の答えに対してNOを突きつけられて五胡十六国時代に突入することになるのです。
さて、劉邦が前漢王朝を立てることができたのは人材の運があった部分は大きくありました。特に秦王朝の政治を理解できる人材を初期段階で得ていたのは大きかったです。その辺、劉秀は少し苦労しました。
彼の初期の人材の中にも優秀な文官はいました。しかしながら彼の時代の戦いは新王朝の政治にNOを突きつけている状況であるため、前漢王朝の中枢部分・王朝の礼儀などの細かい部分の把握が難しかったところがあります。そのため前漢王朝の頃の高官を臣下にしたいところを、最初は劉秀の元ではなく別勢力の元にいることが多く、人材を得るのに苦労しました。
また、劉邦は政治に対してはそこまで大きく口出しをしない人ですが、劉秀は結構な割合で口を出します。彼自身が優秀な内政手腕を持っているのもありますが、劉邦はわからない部分はわかるやつに任せるほうがスムーズにいくというある種の妥協と活用のできる人であった部分がありました。
また、劉秀は劉邦に比べると人材の好き嫌いが激しい部分があります。劉邦は綺麗な人も汚い人も力を貸してくれるならば、自分の下に置きますし、活用する場所を与えます。また、自分の考えに反対しても受け入れる部分が多いのに対して劉秀は曲げないことがあります。特に皇后廃位の部分は劉秀は妥協せずに強引に勧めて、反対した群臣への粛清という名の左遷を行ってます。彼も粛清を行わなかったわけでは無いのです。劉邦も皇太子廃位を考えたことがありましたが、群臣の反対に対して最後には妥協しました。ここまで考えると劉秀の方が暴君としての部分は大きくあります。冷酷さは劉邦の方が上だとは思いますけどね。
戦での才能は恐らく劉秀のが上だと思いますが、劉邦は項羽といった強大な相手と戦うことが多いことを思えば、そこまでの差は無いのかもしれません。
最後に二つの作品を書いた二人の印象と二つの作品の感想を言います。
劉邦はあんまりイメージに変化なくかけたと思います。少し綺麗しすぎるかなあって感じです。それよりも張良、陸賈は書きやすかったなあ。
項羽は書きづらかったですね。なんか書いててもよくわからないって印象が強くありました。それでも劉邦との関係は好きです。
一方、劉秀は……うん……項羽以上に書きづらかったですね。後、臣下連中もあまり……作品全体的に書きやすいやつがいないという中々に辛かった。劉秀と敵対する側でも項羽並のやつがいないっていうのも辛かったですね。そのため劉林を出したりしましたが。
まあどちらの話しも書けてついに三国志に至ります。三国志は登場人物が多いのでどれだけ書けるかが心配なんだよなあ。




