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蛇足伝  作者: 大田牛二


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前漢物語 文帝期その三

この頃、斉王・劉襄りゅうじょうが世を去った。皇帝になれなかったために気落ちしたのであろう。


漢の文帝ぶんていが河南守(郡守)・呉公ごこうの政治は天下第一であると聞き、朝廷に召して廷尉に任命した。


その呉公が洛陽の人・賈誼かぎを推挙した。洛陽県は河南郡に属している。


文帝は賈誼を召して博士にした。


博士は秦から踏襲した官である。古今の事に精通した者が任命され、秩は比六百石で、多い時は数十人も設けられることもあった。


この時の賈誼は二十余歳という若さであったが文帝は賈生の辞博(文辞と博識)を愛し、一年も経たずに太中大夫に抜擢した。


太中大夫は論議を管理する官である。人員数の規定はなく、多い時は数十人いた。秩は比千石で郎中令に属している。


賈誼は正朔(暦)を改めること、服の色を変えること、官名を定めること、礼楽を興すことによって漢制を立てて秦法を改めるように請うた。しかし文帝はこれらのことに対して慎重な態度をとり、結局採用しなかった。


彼の不憫さは後々にまで続く事になる。


紀元前178年


曲逆侯・丞相・陳平ちんぺいが死んだ。高祖・劉邦りゅうほうを支え、漢王朝の礎を支えた謀臣は静かに世を去った。


その結果、周勃しゅうぼつが再び丞相になった。


この年、日食があった。


当時、統治者の徳が足りないとこのような天変地異が起きると考えられていた。


そこで文帝が詔を発した。


「朕は天が蒸民(民衆)を生み、彼らのために国君を置いて養い治めさせたと聞いている。人主が不徳で布政(施政)が不均(不公平)であるなら、天が菑(災)によって示し、不治(天下が治まっていないこと)を誡めるのだ。今回、十一月晦に日食が起きた。これは天が譴責を示したのであり、これ以上に大きな菑(災)はないだろう。朕は宗廟を継承して微眇(微細)な身を兆民君王(兆民は万民の意味)の上に託されており、天下の治乱は朕一人にかかっている。ただ二三の執政(大臣)だけが私の股肱のような存在である」


「朕は、下に対して群生(全ての生命)を治め育てることができなかったために、上に対して三光(日・月・星)の明に影響を与えてしまった(日食を招いてしまった)。この不徳は甚大である。よって令が至れば、朕の過失をことごとく検討し、知(知恵)・見(見聞)・思(思慮)が及んでいない事を全て朕に啓告(教えて道を開くこと)してもらいたい。また、賢良・方正の士と直言極諫ができる者を推挙し、朕の及ばないことを正せ。この機会にそれぞれ任職(または「職任」。「職責」の意味)を整理し、繇費(徭役・租税)を削って民の便を図ることに務めよ」


「朕は徳を遠くに施すことができないため、憪然(不安なこと)して外人(遠方の異民族)に非(悪事)があるのではないかと心配している。そのため設備(守備。防備)を排除するわけにはいかない。今、辺境の屯戍を廃止できず、そのうえ兵を整えて京師を厚く守っている。辺境の守りを除くことはできないが、京師の守りを過度に厚くする必要はないと考える。よって衛将軍の軍を廃止することにする。太僕は今いる馬の中で最低必要な数だけ留め、残りは全て伝駅に分配せよ」


因みに衛将軍という将軍職がなくなったわけではない。その指揮下の軍が解散されたのである。


今回の詔が命じた「賢良・方正の挙(推挙。選挙)」は漢代における官吏登用の基準になるものであり、貴重なものである。


潁陰侯・灌嬰かいえいの騎従・賈山(かさん9が上書して治乱の道について語った。


「雷が落ちた場所は摧折(毀損)しないものはなく、万鈞に押し潰された場所は糜滅(くずれて滅びること)しないものはないと申します。今、人主の威は雷霆を越え、埶重(権勢の重み)は万鈞を越えております。道を開いて諫言を求め、和やかな顔色で受け入れ、その言を用い、取り立てて高貴な位につけたとしても、士はまだ恐懼して敢えて全てを語ろうとしません。もし人主が欲をほしいままにして暴虐を行い、過失を聞くことを嫌うようならなおさらです。震(雷)のような威(君威)と万鈞の重みのような圧があれば、たとえ堯・舜の智や孟賁の勇があったとしても、摧折(毀損)しない者がいるでしょうか。このようであるため、人主が過失を聞けなくなったら社稷は危うくなるのです」


「昔、周は千八百国を覆い、九州(全国。揚州、荊州、豫州、青州、兗州、雍州、幽州、冀州、并州)の民によって千八百国の君を養い(全国の民が千八百の国君に統治されて租税を納めた。民が国君を養うというのは税を納めることを指す)、国君の財には余りがあり、民の力にも余りがあったために、頌声(国君の美徳を称賛する歌)が作られたのでs。ところが秦の始皇帝は千八百国の民に自分を養わせました。民は力が疲弊して徭役に堪えられなくなり、財が尽きて要求に応えられなくなりました。始皇帝はたった一君の身に過ぎず、自分を養うのに必要なものも馳騁弋猟(狩猟)の娯楽に過ぎませんが、天下は供給できなくなったのです。始皇帝は自分の功徳を計って後嗣が世世無窮であると想像しました。しかしその身が死んでわずか数カ月で、天下の四面が挙兵して攻撃し、宗廟が滅絶することになりました。始皇帝は滅絶の中にいながらそれを理解できませんでしたが、なぜでしょうか。天下が敢えて告げなかったためです。それではなぜ敢えて告げる者がいなかったのでしょうか。養老の義がなく、輔弼の臣がなく、誹謗の人を退け、直諫の士を殺したからです。その結果、阿諛を述べて保身のために迎合している者ばかりが始皇帝の徳を堯・舜より上だといい、功績を量って湯王・武王より上とし、天下が潰れても真実を告げる者がいなくなったからです」


「今、陛下は天下に賢良・方正の士を挙げさせました。天下は皆、喜んで『これから堯・舜の道と三王の功が興る』と申しております。天下の士において、精白(潔白・清廉)になって休徳(美徳)を担おうとしない者はおりません。今、方正の士は全て朝廷におり、更にその中から賢者が選ばれて常侍や諸使となり、陛下は彼らと共に馬を駆けさせて狩猟を行い、一日に再三外出しておられます。しかしながら私はそれが元で朝廷が解弛(弛緩)し、百官が政務を疎かにするのではないかと恐れております。陛下は即位してから、自ら勉めて天下に厚く恩恵を施し、節用(倹約)して民を愛し、獄を公平にして刑を軽くしましたので、天下で喜ばない者はいません。私は山東(崤山以東)の官吏が詔令を発布した時、老羸癃疾(老衰疾病)の民も杖を持って聞きに行き、少しの間でも長生きして徳化の成果を見たいと思っていると聞いております。今、功業が成就したばかりで、名声がやっと明らかになり、四方が敬慕して従っています。それにも関わらず、豪俊の臣と方正の士だけが陛下と共に毎日射猟し、兔を撃ち、狐を狩り、大業を傷つけて天下の望を絶っています。私はこれを惜しいことだと思っています。古においては、大臣は宴游に参加できず、自分の方(道)に務めてその節(品格。節操)を高めさせたものでございます。そうすれば全ての群臣が自分の身を正して行いを修め、大礼に釣り合うために心を尽くすようになるためです。士は自分の家で身を修めるものですが、天子の朝廷においてそれが壊されるのは惜しいことだと思います。陛下は衆臣と宴游し、大臣・方正とは朝廷で論議するべきです。宴游して楽しみを失わず、朝議において礼を失わないのが、軌事(法度・法則)において最も重大なことなのです」


文帝は賈山の言を称賛して採用した。


文帝が上朝(朝廷に行くこと。朝議に参加すること)する時に郎や従官が奏書を持って来れば、文帝はいつも輦を止めて受け入れた。すぐ採用する必要がない進言は一方に置き、採用するべき進言はすぐに用いて必ず称賛していった。


このようにしたため、彼の治世は大いに賞賛されるものとなったのである。

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