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蛇足伝  作者: 大田牛二
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前漢物語 文帝期その二

 漢の文帝ぶんていが即位し、政務を始めていた頃に、彼を代名詞というべき逸話がある。


 ある者が千里の馬を献上した。しかしながら文帝はこれを受け取らず、


「皇帝が外出するときは鸞旗(天子の旗)が前にあり、属車(天子に付き従う車)が後に続く。吉行(通常の外出。「吉」は恐らく「武器を使わない」という意味)でも日に五十里しか進まず、師行(行軍)では三十里しか進まないにも関わらず、朕が千里の馬に乗って先に一人でどこに行くというのか」


 馬を返してその者に道里の費(路費)を与えると詔を下してこう述べた。


「朕は献上された物を受け取らない。四方に来献を求めないように命じることとする」


 この逸話は文帝の話をする上で後世においてとても引用され、天子足る者はこのようでならなければならないという考えを後世に示し続けた。


 政務に慣れた文帝は、ある日の朝会で右丞相・周勃しゅうぼつに問うた。


「天下において一歳(一年)の決獄(獄の判決)はいくらあるだろうか?」


「わかりません」


 周勃は詳細を把握していないとして謝罪した。


 文帝がまた問うた。


「一歳に入る銭穀はいくらあるだろうか?」


「わかりません」


 周勃はまた把握していないことを謝罪した。彼は恐れ慌てて汗が背を濡らすほどであった。


 文帝は左丞相・陳平ちんぺいにも同じ質問をした。すると陳平はこう答えた。


「主者がいます(それらを主管している者がいます)」


「主者とは誰のことか?」


「陛下が決獄について問うのであれば、廷尉(法官)に問うべきです。銭穀について問うのであれば、治粟内史に問うべきです」


 治粟内史は秦から踏襲した官で、穀物・貨幣を管理している。武帝の時代に大司農に改名される。


 文帝はまた問うた。


「それぞれに主者がいるというのであれば、汝は何を主管しているのか?」


 陳平が謝罪した上で述べた。


「陛下は私の駑下(愚鈍で能力がないこと)を知らなかったために宰相を任されました。宰相というのは、上は天子を補佐し、陰陽を理し(調整し)、四時(四季)を順調にすることを職務としております。下は万物の宜(事理)を順調にさせ(万物を順調に育てさせ)、外は四夷・諸侯を鎮撫し、内は百姓を親附させ、卿大夫にそれぞれの職を全うさせるのです。これが宰相の責任でございます」


 文帝は大いに納得し、陳平を称賛した。


 右丞相・周勃は大いに恥じ入り、退出してから陳平を責めた。


「汝は今までどう答えるか教えてくれなかった」


 すると陳平は笑った。


「君はその位(地位)にいながらその任(任務)を知らなかったのか。もし陛下が長安中の盗賊の数を訊ねた時、君は無理にでも答えようとするのか?」


 周勃は自分の能力が陳平に遠く及ばないことを自覚した。


 暫くして、ある人が周勃に言った。


「あなた様は既に諸呂を誅殺し、代王を立てて威が天下を震わせました。今はその功績に驕り、厚賞を受けて尊位におられます。久しくそのままでいれば、禍が身に及ぶことでしょう」


 周勃も危険を感じたため、病と称して相印を返すことを申し出た。文帝はあっさりとこれを許可した。明らかに陳平の方が政治における手腕が上だと彼自身も思ったためであろう。


 右丞相・周勃は罷免され、左丞相・陳平が単独で丞相となった。


 さて、この頃の漢王朝はある一つの問題を抱えていた。


 南越帝・趙佗ちょうたの存在である。


 彼は呂太后の頃に反旗を翻し、彼女が亡くなった隙に兵を使って辺境を威圧し、財物を使って閩越、西甌、駱を籠絡した。周辺の民族が南越に属し、南越の地は東西万余里に及ぶようになった。


 勢力を広げたため、黄屋左纛(大旗を掲げた黄色い屋根の車。皇帝の車)に乗って称制(皇帝として政治を行うこと)し、中国の皇帝と対等の振舞いをするようになっていたのである。


 文帝は天下を鎮撫したばかりであるため、諸侯・四夷に使者を派遣し、代王から皇帝の位に即いたことを伝え、漢の盛徳を四方に宣伝を行った。


 また、南越帝・趙佗への尊重を意味する行為として、彼の親冢(両親の墓)が真定にあることを知ると文帝はそこに守邑(守衛)を置いて四季の祭祀を行わせた。また趙佗の従兄弟を召して厚遇し、尊官厚賜を与えた。


 次に文帝は丞相・陳平らに南越への使者の人選を訪ねた。陳平はしばしば使者として南越を訪問していた陸賈りくかを推薦した。


 文帝は陸賈を太中大夫としし、謁者一人を副使にして、国書を持たせて南越に派遣した。趙佗が勝手に帝位に立ち、一人の使者も送ってこなかったことを譴責させるためという表向きの理由を示すためである。


「これはこれは先生、遠路遥遥ようこそ」


 趙佗は陸賈に対し、表向きは頓首謝罪を行いつつも歓迎した。


「こっちの方がやっと終わってね。まあ君はその間にだいぶ、好き勝手やったみたいだけど」


「まあ、好き勝手やらせてもらいました。しかしながらこれ以上は毒ですので」


 二人はそのような会話を行い、趙佗は明詔(漢天子の詔)を奉じて長く藩臣となり貢職(貢物)することを願い、国中にこう宣言した。


「私は両雄が共に立つことはなく、両賢が世に並ぶこともないと聞いている。漢の皇帝は賢天子である。よって今から帝制と黄屋左纛を除くこととする」


 こうして南越は漢王朝への従属を決定した。





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